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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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八日目の蝉

自分が、この作品を見たときは、すでにweb上には、あまりにも多くの「八日目の蝉」の感想が氾濫していて、思わずその量の凄さに圧倒されてしまいました。

いまさら自分が何を書けるのかと迷い、最初から「書く意味」を見失って意気阻喪したその「徒労感」と、今までアガライ続けきたような気がします。

しかも、この乳児誘拐という深刻なストーリーは、あらゆるネガティブな要素が互いに錯綜しながら打ち消しあっていて、果たしてこの映画のどこからアプローチすればいいのか、手も足も出ないお手上げ状態という迷いもありました。

こんなふうに、この重厚な作品に対して、一言の感想も発せられないという自身の不甲斐なさもあって、たぶん、ねじ伏せられてしまったような敗北感を抱きながら、長いあいだ、この作品から自分を意識的に遠ざけてきたのだと思います。

それに、正直、ラストの恵理菜のセリフも、それまで彼女が経てきた過酷な人生を真正面から受け止めうえでの言葉とは到底思えず、なので、あたらしい未来に向かってこれから生まれる子供とともに踏み出そうという不意の「転調」にも、なんだかそぐわない違和感をおぼえ、正直繋がりも感じ取れないまま、この作品と距離をとるしかなかったのかもしれません。


しかし、あるとき偶然に、この作品について極く短いコメントに遭遇し、突然目が覚めるように、自分の中にあった「迷い」が、ふっと溶解しました。そのときのことを書きたいと思います。

そのフレーズには、前後にもう少し説明的な語句が幾らか散りばめられていたかもしれませんが、それはこんな感じでした。

「犯罪者であるのに、いつしか捕まって欲しくないという気持ちになっていて、最後には、育ての母親に会ってほしいと思い始めていました。」

それまで、数多くのコメントに接してきていたので、この感想の稚拙さと特異さ(あまりにも素直で率直なために、ストーリーを読めてないKY的な「幼稚すぎるコメント」として無視されたとしてもなんら不思議ではありません)は突出しており、とても目を引きました。


かつての乳児誘拐事件のルポを書くために秋山恵理菜(井上真央が演じています)に近づいてきた安藤千草(小池栄子が演じています)から、幼少期をすごしたエンジェルホームを訪ねる旅に誘われたとき、恵理菜はとっさに、千草がその旅で自分を野々宮希和子(永作博美が演じています)に逢わせようとしているのではないかと疑い、その危惧をあらわにして、自分にはまったくその気持ちはないと千草に釘を差しています。

そんなことをしたら自分の「負け」になると、恵理菜自身がいちばんよく分かっていることを映画は明確に描いており、「逢う可能性」についてなど、それからのストーリーの進行の中でも二度と触れることも仄めかされることもありませんでした。
少なくとも、被害者・秋山恵理菜が、犯罪者・野々宮希和子を許せるわけがないことは、「大人の分別」として明確に理解できることですし、説明することもできます。

かつて乳児だった自分が野々宮希和子に誘拐され、偽の親とはいえ濃密な情愛を一身に受けて生育するものの、幼児期に至りそれが突如奪い取られるという異常な体験によって、物心がつく人格形成の大切な時期に、人間的な関係を保つための根本的な情緒が傷つけられ(心が拉致され奪われたというべきかもしれません)、親も含めた他人との関係が築けないという心の空虚と不具に見舞われた痛切な半生を考えれば、(たとえ、父・秋山丈博との不倫の代償として中絶を強いられた希和子が、二度と子供のできない体にされてしまった絶望と憎悪とを考慮したとしても)恵理菜が、犯罪者・野々宮希和子を許せるわけもなく、ましてや彼女に逢いに行くなどということは論外で、有り得ない絵空事としか思えないと、映画は最後まで「無視」の態度を貫いています。

僕が読んできた多くのコメントも、ほとんどがそうしたスタンスで書かれていたものでした。

しかし、あの特異なコメント氏が、こうした痛ましい過去のイキサツや彼女の歪められた感情を考慮しうえでも、それでもなお「育ての母親に会ってほしい」と願っていたのだとしたら、それっていったい何なのだと、すこし混乱してしまいました。

あのコメントには、希和子が犯した過去の犯罪や憎悪や絶望など些かも考慮することなく、また、たとえそれが「誘拐犯」という犯罪者であろうと・偽ものの親子であろうと、「寄り添って二人で過ごした濃密なあの情愛の時間」だけを真っ直ぐに見据え、あの時間までをも否定できるのかと問い掛けているように思えたからでした。

ラストシーンで恵理菜は、「自分は、長いあいだ、この場所に帰ってきたかったのだ」と述懐します、自分が違和感を覚えたあのラストシーンです。

幼児の自分を心から愛してくれた希和子の存在を欠いた場所で、希望に満ちて子供との未来に微笑みかける恵理菜のアップに違和感を覚えたわけが、少しだけ分かった瞬間でした。


蛇足ですが、この作品を思い返すたびに、この映画で描かれている幼い恵理菜の手を引いた希和子の逃避行の姿が、自分のなかで、不治の病におかされた父と子の当てのない巡礼を哀切に描いた「砂の器」とダブッて仕方ありません。

(2011松竹)監督・成島出、脚本・奥寺佐渡子、原作・角田光代(2005・11・21~2006・7・24読売新聞夕刊連載、第2回中央公論文芸賞受賞作)、音楽・安川午朗、撮影・藤澤順一、照明・金沢正夫、美術・松本知恵、装飾・中澤正英、製作担当・道上巧矢、録音・藤本賢一、衣装デザイン・宮本茉莉(STAN-S) 、編集・三條知生、キャスティング: 杉野剛、音響効果・岡瀬晶彦、音楽プロデューサー・津島玄一、スクリプター・森直子、ヴィジュアルエフェクト・田中貴志(マリンポスト)、助監督・谷口正行、猪腰弘之(小豆島・子役担当)、ヘアメイク: 田中マリ子、丸山智美(井上真央担当)、制作プロダクション・ジャンゴフィルム、製作総指揮・佐藤直樹、製作代表・野田助嗣、製作・鳥羽乾二郎、秋元一孝、企画・石田雄治、関根真吾、プロデューサー・有重陽一、吉田直子、池田史嗣、武石宏登、製作・映画「八日目の蝉」製作委員会(日活、松竹、アミューズソフトエンタテインメント、博報堂DYメディアパートナーズ、ソニー・ミュージックエンタテインメント、Yahoo! JAPAN、読売新聞、中央公論新社)、主題歌・中島美嘉「Dear」、挿入歌・ジョン・メイヤー「Daughters」、坂本九「見上げてごらん夜の星を」、ビーチ・ハウス「Zebra」、
現像・IMAGICA、
ロケ協力・小豆島映像支援実行委員会、小豆島観光協会、小豆島町、土庄町、小豆島急行フェリー、四国フェリー、香川フィルムコミッション、諏訪圏フィルムコミッション、岡山県フィルムコミッション連絡協議会ほか、撮影地・小豆島・寒霞渓、二十四の瞳映画村、福田港、洞雲山寺、中山農村歌舞伎舞台、戸形崎、中山千枚田、その他・平塚市日向岡(秋山家があり、特徴的な三角屋根が集合する住宅地)、青梅鉄道公園(0系新幹線車内)、大阪城とOBP(空撮)、長野県富士見町の廃校(エンジェルホーム)、東金市の城西国際大学(恵理菜が通う大学)、足利市の松村写真館(タキ写真館)、

出演・井上真央(秋山恵理菜)、永作博美(野々宮希和子)、小池栄子(安藤千草)、森口瑤子(秋山恵津子)、田中哲司(秋山丈博)、渡邉このみ(薫・幼少時の恵理菜)、吉本菜穂子(仁川康枝)、市川実和子(沢田久美・エステル)、余貴美子(エンゼル)、平田満(沢田雄三)、風吹ジュン(沢田昌江)、劇団ひとり(岸田孝史)、田中泯(小豆島の写真館主・滝)、相築あきこ、別府あゆみ、安藤玉恵、安澤千草、ぼくもとさきこ、畠山彩奈、宮田早苗、徳井優、吉田羊、瀬木一将、広澤草、蜂谷真紀、松浦羽伽子、深谷美歩、井上肇、野中隆光、管勇毅、荒谷清水、日向とめ吉、日比大介

受賞
第36回報知映画賞・作品賞 / 主演女優賞(永作博美)[27]
2012年エランドール賞 プロデューサー賞 - 有重陽一(日活)[28]
第85回キネマ旬報ベスト・テン・主演女優賞(永作博美) / 助演女優賞(小池栄子)
第66回毎日映画コンクール・女優助演賞(永作博美)
第54回ブルーリボン賞・主演女優賞(永作博美)
第35回日本アカデミー賞・最優秀作品賞・最優秀監督賞(成島出)・最優秀主演女優賞(井上真央)・最優秀助演女優賞(永作博美)・最優秀脚本賞・最優秀音楽賞・最優秀撮影賞・最優秀照明賞・最優秀録音賞・最優秀編集賞
第3回日本シアタースタッフ映画祭 主演女優賞(井上真央)
第35回山路ふみ子映画賞 新人賞(井上真央)
第3回TAMA映画賞 最優秀新進女優賞(井上真央)主演女優賞(永作博美)
第24回日刊スポーツ映画大賞 新人賞(井上真央)
第21回日本映画批評家大賞 監督賞(成島出)
第66回日本放送映画藝術大賞 最優秀作品賞・最優秀脚本賞・最優秀助演女優賞(小池栄子)最優秀音楽賞・最優秀撮影賞・最優秀録音賞・最優秀音響効果賞
上映時間・147分、映倫 G



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# by sentence2307 | 2017-01-09 14:53 | 映画 | Comments(0)

殺人カメラ

you tubeで志ん朝の「三枚起請」を見たあと、なにか珍しい映画でもアップされてないかとテレテレ検索していたら、奇妙な写真を掲げた動画(すっとぼけたオッサンが、呆けたように、あらぬ方向を向いている写真です)に遭遇しました。

なんだか直感的にルイス・ブニュエルの「昇天峠」を連想させるほどのオーラを放ったインパクトのある写真なのですが、映画のタイトルはといえば、それがなんとも軽々しい「殺人カメラ」というのです。

「なんだこりゃ」的なこのタイトル、古今東西のあらゆる映画の題名に精通していると自負していた自分でも、こんな脱力系のタイトルなんか、今のいままで聞いたことも見たこともありません。

いやいや、むしろ逆に、この手のタイトルなら、言葉の組み合わせを自在に入れ替えただけの幾通りもの紛らわしい題名のバリエーションがある分だけ、今までに接したかもしれないとしても、覚えていられるわけもなく、何が何やら、どれがどれやら、ぐちゃぐちゃに錯綜して、頭の中はカオス状態で最早判別など覚束ないというのが実情です。

そうそう、いま思い出しました、そういえば、むかし、「血を吸うカメラ」とかいう作品(確かカメラにナイフが括り付けてあって、アップしながらグサッと殺す、まさに死の瞬間をリアルに捉えようというカメラ狂の映画だったような記憶です)がありましたよね、これって、あの作品とちゃうのん?。

当時(たぶん、今でもそうかもしれませんが)あの作品は、マニアックな人たちが、盛んに持て囃していたという先入観があったので、急いでウィキで「血を吸うカメラ」を調べてみました。

しかし、そこでは、カルト・ムービーの評価どころか、惨憺たるフィルムの来歴にぶち当たることになりました。

1960年公開のイギリス映画で、監督は、なんと名作「赤い靴」や「ホフマン物語」で名高いあのマイケル・パウエルだそうです。

へぇ~、そうなんだ、ますますこの作品の「解説」を読まないわけにはいかなくなりました、さあ早く早く。

≪本作品はしばしば、ほぼ同時期に発表された映画『サイコ』と比較される。『サイコ』が「殺害される人間の恐怖」を表現しているのに対し、『血を吸うカメラ』では「殺戮を行う側の心理」を惜しげもなく表現している。また、この作品は人間の目から見たカメラ視点が特徴である。≫

ふむふむ、ここまでは、まあいいじゃないですか、ベタ褒めという感じではないにしろ、少なくとも貶したり腐したりしているわけではないし、むしろ、かの名作、ヒッチコックの『サイコ』と並び称された作品とあるくらいですから、一応は敬意を払われているとみてもよさそうですし、当時はそれなりのインパクトのあった作品だったのだろうなと思っていた矢先、このあとがいけません、驚嘆するような事実が書かれていました。

≪性的・暴力的な内容から、公開当時はメディアや評論家から酷評を浴び、イギリスを代表する映画作家の一人ともみられていたパウエルの名声は失墜した。パウエルはこの映画の後はほとんど映画を撮ることができないまま死去した。しかし後年になって再評価の声が高まり、本作は米国を代表する国際ニュース誌『TIME』が発表したホラー映画の歴代ベスト25に入っている。≫

なるほどなるほど、自分は、この「しかし後年になって再評価の声が高まり」と同じ時期にこの作品に遭遇したので、さほどの悪印象を持つことがなかったのだと分かりました。

おまけに、マイケル・パウエルが、この作品によって、名声を失墜させ、二度と映画が撮れなくなって、失意のなかで死んでいったという惨憺たる事実(いかにも、建前と本音の落差の激しいイギリスらしい「おもてなし方」じゃありませんか)も知らなかったくらいですから、多くのB級映画と同じように、呑気に「血を吸うカメラ」を鑑賞し、軽く軽侮の吐息をついたあと大した印象も抱くことなく、あっさり忘れてしまったのだと思います。

さて、呆けたような顔のオッサンの写真を掲げたこの動画が、かの「血を吸うカメラ」じゃないとすると、いったいこの「殺人カメラ」とは何なんだと、さらにクリックを進めると、なんとそこには、ロベルト・ロッセリーニが監督した1948年の作品と書いてあるではありませんか。

おいおい、あの「無防備都市」や「戦火のかなた」、「ドイツ零年」で知られた硬派なロッセリーニが「殺人カメラ」なんて軽々しいオチャラカ映画を撮ったのかよ、嘘だろう、いや、嘘だ嘘だ、そんなはずはない、大嘘にきまってる、自分の記憶の中には、ロッセリーニ作品として「殺人カメラ」なんてタイトルの映画はインプットされていません、そんなの全然知らない、聞いたこともない。

やがて徐々に、ショックというよりも、無知だった自分が、なんだか小馬鹿にされて辱められているような感じがします。

こりゃあ、「紅白歌合戦」どころじゃないぞと(この時間には、そろそろ公共放送で全国民的必見番組「紅白歌合戦」が始まろうとしています)さっそく、最近はとんと開いたことのないジョルジュ・サドゥールの「世界映画史」(1964.12.30発行、みすず書房刊)を書棚から引っ張り出して、ロッセリーニのフィルモグラフィ1948年のページを開きました。

なるほど、なるほど、ありますね、1948年の項に、イタリアの原題で「LA_MACCHINA_AMMAZZACATTIVI」とあり、英語では「THE MACHINE TO KILL BAD PEOPLE」と題された作品が撮られたことが書かれていました。なるほど、これですか、つまり、直訳的には、「悪人を殺すための機械」ということですね。「フムフム、そういうことか」という気持ちです、このふたつのタイトルの違いについては、微妙ですが(「機械」を「カメラ」と意訳したのでしょうが、そういう姿勢が、この場合、ほんとうに正しい姿勢といえるのか、ということについてです)、まずは、とにかく、動画を見ることにしました。実際に見てみなければ、なにひとつ始まりませんしね。

しかし、ここだけの話ですが、こういう歴史的な作品をクリックひとつで手軽に見られてしまうなんて、すごい時代だと思います、しかもロハで。

さて、さっそく、映画「殺人カメラ」を見てみました。以下に、メモ程度にストーリーを書いておきますが、当ブログは、あくまで個人的な心覚えの場所なので、「ネタバレ」などといわれるのは心外です。だいたい「あらすじ」が分かったくらいで、どうこうしてしまうような映画なら、最初から大した映画なんかじゃありません、心配しないでください。

さて「あらすじ」です。

≪舞台は第二次世界大戦後のイタリア南部の小さな漁村、大聖堂の祝祭日に、人の良い写真家チェレスチーノは、多くの人でにぎわう祭りの様子を写真に撮ろうとしたところ、暴君の警察署長に邪魔されてしまいます。その夜、彼のところに、旅の老人が一夜の宿を求めて尋ねてきます。
聖アンドレアと名乗るその老人は、写真の被写体をカメラで撮影するだけで写真の人物(悪人)を殺すことのできるという大変な能力をチェレスティーノに授けます。
この老人を、聖人とすっかり信じている写真屋チェレスティーノは、その驚くべき力に驚きながらも、試しに警察署長の写真を撮ってみたところ、その直後、本当に署長は突然死してしまいます。
常日頃、自分さえよければ他人などどうなっても構わないという強欲な村の人間たちに怒りを覚えていたチェレスティーノは、次第に自分の不思議な力に取り憑かれたようになって「写真」を撮影し、強欲な村人(もちろん欲深い悪人たちです)を次々に殺していきます。
村を牛耳る警察署長の次には、高利貸しの老婆マリアも殺しますが、遺書に遺産の相続人を村で最も貧しい3人に与えると書かれていることを知り、チェレスティーノは動揺し混乱し、さらに事態は紛糾するのですが、そこにアメリカ人によるホテル建設計画も加わって、欲に溺れた村人たちが織りなす騒動はさらに大きくなっていきます。
チェレスティーノはカメラで悪人を次々と消してゆきますが、事態は一向に改善しません。
村で最も貧しいという3人も、善人というわけではないということが分かってきます。
そんな中、彼に力を与えた例の老人が現われ、実は自分は悪魔なのだと告白し、チェレスティーノは彼に十字の切り方を教え、悪魔も改心し、ただの人間になってしまうのでした。
めでたたし、めでたし。≫

というわけなのですが、自分は、この「貧乏人が、必ずしも善人なわけじゃない」という部分に強く惹かれました。このことをロッセリーニは、言いたかったのではないかと思いました。

これは、現代にも通ずる(ヒューマニストとかいう人たちが決して認めたがらない)社会保障の根幹を問う辛辣な指摘です。

生活保護費を全部パチンコにつぎ込むとか、働けば保護を打ち切られるので働かないとか、いまでもこういうのってよく言われているじゃないですか。

人を救うのがヒューマニズムなら、人を堕落させるのもまた、ヒューマニズムだということでしょうか。

ジョルジュ・サドゥールの「世界映画史」で、ロッセリーニのフィルモグラフィを見たとき、あることに気が付きました。


1948年にこの「殺人カメラ」を撮った翌年、「ドイツ零年」に続いて撮ったのが「神の道化師・フランチェスコ」でした。(自分も2004. 11.6に小文をアップした記録がありました)極貧の中で信仰を貫いた聖人を描いた映画です。たしかゼフィレッリも「フランチェスコもの」を撮っていたと記憶しています。

戦争という極限状態の中で撮った「無防備都市」や「戦火のかなた」が、高く評価されればされるほど、やがて平和な時代が訪れたとき、自分の撮るべきものを見いだせないまま、焦燥感のなかで模索し、やがて失意の中で沈黙におちいったロッセリーニの「迷い」の姿を示すような2作だったのかもしれません、ロッセリーニにとって、戦争が過酷だったように、平和な時代もまた同じように過酷だったのかしれないなと思えてきました。

(1948イタリア)監督脚本製作・ロベルト・ロッセリーニ、脚本・セルジオ・アミディ、ジャンカルロ・ヴィゴレルリ、フランコ・ブルザーティ、リアーナ・フェルリ、原案・エドゥアルド・デ・フィリッポ、原作・ファブリチオ・サラツァーニ、製作・ルイジ・ロヴェーレ、撮影・ティーノ・サントニ、エンリーコ・ベッティ・ベルット、音楽・レンツォ・ロッセリーニ、原題・LA_MACCHINA_AMMAZZACATTIVI (THE MACHINE TO KILL BAD PEOPLE)

出演・ジェンナーノ・ピサノ(Celestino esposito)、マリリン・ビュファード、ウィリアム・タブス(Il Padre della Ragazza)、ヘレン・タッブス(La Madre della Ragazza)、マリリン・ビュフェル(La Ragazza Americana)、ジョヴァンニ・アマート、ジョ・ファルレッタ、ジアコモ・フリア、クララ・ビンディ、ピエロ・カルローニ

モノクロ音声 上映時間 83




【参考】
「神の道化師、フランチェスコ」

すごい映画だと聞いていました。

まぼろしの名作と紹介している本もあります。

なにせ「無防備都市」や「戦火の彼方」を撮ったロッセリーニの作品です。

それらの作品が映画史に与えた影響の大きさを思えば、この映画を見る前の期待と緊張は当然だと思います。

それに、イタリア人にとって聖フランチェスコは、特別な意味があるらしいのです。

その証拠に僕たちが知っているだけでもフランコ・ゼフレッリの「ブラザー・サン シスター・ムーン」、リリアーナ・カヴァーニの「フランチェスコ」とそれ以前に「アッシジのフランチェスコ」という作品も撮っているそうです。

話は、中世の修道士たち(聖フランチェスコと仲間たち)の布教活動と、その質素極まる生活をリアルに描いたものです。

荒涼とした原野に廃墟のような小さな教会を建て、粗末なボロ服に裸足という驚くべき徹底した極貧のなかで、彼らは寄り添いながら教化活動に携わります。

俗世の欲望を捨て去り、貧しさの極限で自己犠牲の歓びを見出すという被虐的なまでの修道士たちの様々なエピソードが綴られます。

それはこの世で持てる総ての財産を失い尽くすことが、精神世界の豊かさを得、ひいては神の身元へ近付きうる唯一の方法ででもあるかのような感じです。

「奪い合えば足りず、譲り合えば余る」という逆説的な精神世界が描かれてゆきます。

所有欲から解放されれば、気高い精神世界が獲得できると信じて疑わない単純極まる率直さには、そのあまりの無邪気さに、ときに失笑を誘いますが、しかし、このリアリズムに徹した優れた作品が、「無防備都市」や「戦火の彼方」と、どうつながってゆくのか理解できずに戸惑いました。

作品それ自体が優れて自立していれば、それだけでいいのだとも思いますが、一方ではやはり納得するだけの理屈も欲しい気がします。

パゾリーニの「奇跡の丘」なら分かるのです。

パゾリーニのイエスは、荒涼とした原野をせかせかと足早やに歩き回り、言葉がまるで人を打ち砕くことのできる武器ででもあるかのように人々に、そして権力者に恫喝を投げかけ挑発する、まさに全存在を賭けた戦闘的な布教活動を展開します。

為政者を怯えさせ危機感に追い込んで処刑を決意させた程のイエスとは、多分こうだったんだろうな、とパゾリーニの姿勢とともに十分納得できたのです。

しかし、ロッセリーニのこの作品の異常なまでの被虐的な謙虚さは、いったい何を示唆しているのか、見当もつきません。

これからの宿題です。 



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# by sentence2307 | 2017-01-02 23:22 | 映画 | Comments(0)
仕事納めの数日前から軽く風邪をひいてしまい、納めの翌日から予定していたツアー旅行を泣く泣くキャンセルしなければならなくなりました。

でも、当日までにどうにか平熱に戻って参加できるだろうくらいに高をくくって楽観し、ギリギリまでねばったのですが、熱はなかなか下がらず、キャンセル料はどんどん嵩むで、結局、コン負けして3日前に旅行会社にキャンセルの連絡を入れざるを得ませんでした。

手持ちの札は惨憺たるものなのに、ハッタリをかまし、ギリギリまで手を明かさないで、相手が先に勝負を降りるのを待つような、まるでポーカーでもしているような追い詰められた気分でした。

この数か月、仕事に忙殺され、休暇をとる暇も余裕もなかった毎日の中で、「年末の旅行」だけが、いつのまにか単調な生活に耐える唯一の励みになっていたので、キャンセルしたときはとてもショックで気落ちし、まるでうつ状態みたいになってしまったのですが、結局なにもかもがすべて自分の油断からきたことなので、諦めも結構早かったかもしれません。

ですので、この年末、旅行の予定を入れていたことから、それがスッポリ抜けてしまったので、これといってとりたてて用事もなく、どこからも電話が入らない(自分は、今頃、どこかに旅行中のはずです)まったくの空白の数日を過ごしました。

ここで電話が鳴っても、ばつの悪い言い訳のひとつも言わなければならないのかと思うと気が重く、たぶん電話は鳴りっぱなしにしておくことになると思います。かえってその方がいいような気がします。

その一方で、あれほど望んでいた「自由時間」を突然手にしたわけですから、これまでしたくとも出来ずにいたことを片っ端から処理できる絶好の機会のはずなのですが、いざ「自由時間」が実現したとなると、何をすればいいのかさっぱり思い当たりません。

あれやこれや考えてみるのですが、いざ「それ」を目の前に据えると、自分にとって、こんなことがそれほど重要なことだったのか、「なにも今、わざわざそんなことをしなくともいいではないか」という感じで、結局いままで後回しにしてきたことには、それなりの理由があったことが判明し、逆に自分の「ズボラ」を正当化してしまう妙な納得をしてしまいました。

そこで、常日頃、わずかの余白時間を工面して行っていることを、ひとつひとつ箇条書きにしてみました。

その選択の条件としては、時間切れで中断されて悔しい思いをしたことがあるもの、そして、いつも時間切れになるのをビクビクしながらしていることの2つです。

① 録画を最後まで見切れずに中断しなければならない。一夜ではどうしても見切れずに、一本の映画を刻んで見ている現状です。鑑賞したあとで、さらに映画の感想を書くというのも、一応自分に課しているスケジュールのひとつです。

② 小説でも評論でも、そこらにあるものを手当たり次第、手に取って読んでいるぶつ切りの乱読状態なので、読みたいものを読むなんてほど遠い、じっくり関連付けて読書するなんて、いまの生活では夢みたいな話です。

③ 上記と関係あるのですが、毎週の「書評」を読んでから、その中から興味のある本を選択して読むというのが理想なのですが、そもそも「書評」をwebでも新聞でも、じっくりなんて読めたためしがありません。新聞は、たまるいっぽうだし。mailチェックも追いつかないし。

④ ときどき東大TVの特別講義を見ているのですが、どれも一コマでは済まず、短くても200分以上あるので、午後9時に帰宅して、明日も早出などという限られた時間しか持てないしがないサラリーマンの身では、到底見るなんてことは不可能です。

⑤ パソコン(you tubeなど)で見られるクラシックな邦画もだいたい100分はありますから、東大TVとほぼ条件は同じです。そうそう、ときどき、志ん生、文楽、円生、志ん朝、米朝の落語を聞くというのも、自分にとって大切なストレス解消の一つになっています。

⑥ パソコンの前にいることが多いので、わざわざ録画を見るよりもパソコンで見られるwowowのメンバーズ・オンデマンドの映画が見やすいので、極力見るようにしているのですが、なにせ上記の項目が押せ押せになっているので、どうも捗々しくありません。

⑦ 投資信託の基準価格のチェックというのもあります。いまになって、やっと景気も上向きかけ「そろそろ」と盛り上がってきた雰囲気なのですが、「売り」にでるほどには、まだまだ「戻り」に至ってないというデリケートな時期ではあります。

⑧ そうそう、この時期、そろそろアカデミー賞の情報が飛び交い始めるので、いろいろなサイトをのぞき見しています。

う~ん、これだけの「したくても出来ないこと」を毎晩抱えているのですから、こりゃストレスになるのが当然かもしれませんが、よく考えてみれば、これって結局自分が自分にストレスをかけているだけじゃないかと思えてきました。あほくさ

そこで、結局は、「今晩もyou tubeで落語」ということにしました。

最近の出版物を見ていると、落語の関連本が何冊も出ていて、ちょっとした落語ブームみたいな印象を受けますが、みなさん「古典」をじっくり聞いてのブームなのか、いまひとつ疑問です。

実は、この晩に聞いた落語は、志ん朝の「三枚起請」、やり手の女郎が客をつなぎ止めるために起請文(本来は、誓紙なので1枚のはず)を乱発し、それを知った3人の騙され男たちが、仕返しに女郎に恥をかかせようとお茶屋に乗り込むのですが、逆に開き直られてしまい、剣突を食わされてしまうというストーリーです。

じつは、この落語、いろいろな噺家で何度も聞いているのですが、この晩に聞いた印象が、以前とは少し異なっていました。

噺は、通りかかった亥之吉を棟梁が呼び止め、「最近、遊びが過ぎてるっていうじゃねえか、たいがいにしねえな、おふくろさんが心配していたぜ」と問うところから始まります。そこで亥之吉は、ナカにいいのが出来た、末を誓った起請文まで貰った仲だと告白します。

その起請文を読んだ棟梁は、すこし驚きながらも、自分も同じ女郎から貰ったという起請文を見せます。

そこに清公がやってきて亥之吉の起請文を読み、自分も同じ女郎から起請文を貰ったことと、それについちゃあ妹に苦労を掛けた顛末を話して「あの女郎、ただじゃおかねえ」と激怒します。

そして、お茶屋に乗り込み、証拠の乱発した起請文を突き付けて追及するのですが、

「打つなと、蹴るなと、好きにするがいいや。だけど言っとくけどね、あたしの体は売り物だ。身請けしてからどうなと好きにしておくれ」
と開き直られます。

男たちは、鉄拳制裁ができずに、たじたじになるという結末ですが、話を順に聞いていると、この「たじたじ」になるずっと以前に、彼らは、すでに制裁の意思を喪失しているように見えます。

いまさらながら「女郎の体は売り物だ」と言われなくとも、彼らはそんなことは十分に承知していて、むしろ、最初から「制裁」なんて真剣に考えているとは思えない軽妙なお祭り気分で登楼していくようにさえうかがわれます。

陰惨な「女郎の体は売り物だ」というあまりにも生々しい台詞の彼方に広がる現実をいささかでも薄めるためにも、一方で、この軽妙なシチュエーションが、バランス的にどうしても必要だったのかもしれませんね。

川島雄三「幕末太陽傳」の軽妙さと共鳴するなにかが、この「三枚起請」には、あるのではないかと、ふと感じた年の瀬でした。



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# by sentence2307 | 2017-01-01 22:27 | 映画 | Comments(0)

この国の空

映画の元ネタといえば、ほとんどがコミックや、ゲームをストーリー化したアクションものなどが多い昨今、この作品は、いまどきめずらしい(古いタイプと言ってしまえばそれまでですが)硬派な文芸作品の映画化で、自分としてはそれだけでもとても嬉しくて、この幸せな先入観のおかげで、随所に、かつての松竹大船調のオマージュなどを見つけ十分に堪能できた佳作だったと、内心とても好意的な気持ちを抱いていたのですが、友人からwebでは酷評が満ちていると聞いて、さっそく自分でも検索してみて、はじめてこの作品に対する嫌悪と失望感が尋常でない量であることを実感し、とても意外でした。

しかし、最近の映画というのは、極端に言えば、開始早々、バタバタ人が死ぬ凄惨なシーンが展開したり、くんずほぐれつの濃厚なsex場面が挟まったり、ひどいのになると、手ひどく強姦されたはずの被害者女性が、たくましく豹変して熟達した濃密な性技をみせたりするなどの一貫性を欠いた「なんだこりゃ」的な自家撞着のタフなストーリーを嫌というほど見せつけられてきて「その手の」物語に慣れきってしまった観客は、sexシーンに至るまで相当な心理的手続きを要するこういう「この国の空」みたいなタイプの文芸作品には、もはや辛抱も理解もできなくなってしまったのだろうなというのが、自分の率直な印象でした。

なにしろsexシーンに至るまで、主人公は、沸き上がるみずからの内なる欲望にああでもない・こうでもないと思い悩みながら、しかしそれは優柔不断なんかでは決してなく、静かな決意で一歩を踏み出すという、こういう物語こそ「松竹大船調」の真骨頂なのですが、「発情」を持て余しぎみの、すっかりセッカチになってしまった観客には、こんな悠長なストーリーなど、たぶん受け入れ難かったのかもしれないなと感じました。

しかし、その片方で「この非難だって、随分とおかしな話じゃないか」という憤りの気持ちが、自分にも次第に沸き上がってきました。

わが職場でも、団塊の世代が徐々に去り、入れ替わりに若い世代(20代~30代)が構成員の大勢を占めるようになったのですが、わが課のスタッフで既婚者といえば、自分と50代の「お局様」のふたりだけで、ほかの若い世代のスタッフは、(彼ら自身が「そう」言っていますし、既婚者から見ても)到底「結婚なんてできそうにもない」人たちなのです。

いわゆる、「結婚しない世代」というやつですが、自己防衛と被害者意識が異常に強く、他人に余計な口出しをしないかわりに、だからお前も俺のことを干渉するなよ的な自分勝手な面々で、当然、得にもならない他人の仕事の協力やバックアップなどするはずもなく、他人事には一切関心も興味も示さないという徹底ぶりです。

そして、この「ルール」を他人が逸脱し自分の領域を侵そうものなら、その逆上ぶりは異常に凄まじく、それに一度でも接したことがある者なら、もう二度と彼らには関わりたくないと思うくらいの狂気の逆切れ体験をしなければなりません。

彼らそれぞれが殻に閉じ籠りそういう感情を持ってトゲトゲしく身構えているので、これではとても職場の連帯意識なんてハナから育つとは思えません。

しかし、この手のことを、職場などで公言したりするとセクハラだとかパワハラだとかの面倒くさいことになるというので、一切口にするなよと総務部長からきつく釘をさされているので、それじゃあ自分は彼らの何を管理すればいいのか、と問い返しても、「そんなことくらい自分で考えろよ」というのがいつもの答えですから、結局なすすべもないお手上げ状態です、個人情報の過剰な保護といい、なにもかもが悪意と疑心暗鬼に満ちたとても嫌な時代になったものだと、ため息のひとつも出てしまいますよね。

ですので、以下に述べることは、まあ、無能な中間管理職の愚痴だと思って聞いてくださいましな。

少なくとも、自分たち旧世代の人間は、他人に自分のことを良くみせたい、みっともない真似だけはしたくない、それにせっかく同じ職場で働いているのだから、和気藹々とやろうじゃないかと雰囲気作りに精を出して、いろいろと気遣い、お互いの足らざるところを庇い合って協力しあってきたものです。

しかし、いまの若い連中ときたら、職場の「殺伐さ」なんてそもそも自分には何の関係もない、「それもまた、いいんじゃね」くらいにしか思っておらず、これが常態で結構ですと受け入れて、職場環境の改善など自分には一切無関係の他人事としか考えていないのです。

他人からとやかく言われる干渉を極力嫌悪し、気持ちを閉ざして自分だけの世界に充足して他人に興味も関心も一切持たない彼らにとって、だから必ず相方が必要となる「性欲」も、抑制することになるというのも当然の帰結であり、相互過干渉が大前提の「結婚」なんて最初から論外で、当然受け入れられるわけもないのです。

なにも「結婚」するだけが人生のすべてだとは思っているわけではないですが、ただ揃いも揃って全員が同じようなことを言うっていうのがどう見ても異常です、互いに反発しながらも、個性を欠如させた連帯意識なき「右へならえ」を疑いもなく大合唱して憚らない、そういうことが自分にはどうにも異常で薄気味悪く感じられてならないのです。

この映画に対して若い多くの観客たちがあからさまに表明した「嫌悪感」は、まさに映画「この国の空」に描かれているものが、彼らのそうした「思考」を逆撫でするような、彼らにとっては嫌悪しか催さないような、いまではすっかり失われてしまったかつての若い日本人の男女が備えていた思考性(少なくとも成熟をとげるみずからの「性欲」に対しては誠実であったことを含めて)を色濃く描き込んでいたからに違いありません。

戦争末期、配給の食料を待っていたのでは、どうにもならない食糧不足の困窮のなかで、母娘が交換する着物を持って、闇の食料品を求め、農村へ買い出しに出かける場面、河原で弁当を食べながら語り合う重要なシーンがあります。

母は、娘のすっかり成熟した体を見ながら、娘が「成熟した性欲」を持て余していることにも気がついています。

しかし、いま内地では「若い男」がすっかり戦地へ出払ってしまっていて、若い女性の「成熟した性欲」を上手に開花させてくれるような適当な男性がいないことも知っています。

だから母は、「普通の状況なら、たとえ隣家であろうと、若い未婚の娘が、一人暮らしの男の元へ行くなど決して許さないのだけれど」と前置きして、「市毛さんに気をゆるしてはだめよ、女は溺れやすいから」と忠告しながら、「でも、いまはこういう時代だから、隣家に市毛さんがいることに感謝しているわ、『娘をよろしくお願いします』って言いたいくらいよ」とさえ話します。

ここには、「悶々と」であれ、若い女性の成熟していく性欲の存在と、その極限状態のなかで性欲が歪められることなく育成され完熟を遂げさせてあげたいと見守りながら願っている母親の姿が、きわめて冷静に描かれています。

しかし、この部分こそが「他人からとやかく言われる干渉を極力嫌悪し、気持ちを閉ざして自分だけの世界に充足して他人に興味も関心も一切持たない彼らにとって、だから必ず相方が必要となる「性欲」も、抑制することになるというのも当然の帰結であり、相互過干渉が大前提の「結婚」なんて最初から論外で、当然受け入れられるわけもない」現代の若い世代の感性を逆撫でし、当然のように忌避されたのだと思います。

あるサイトで、この作品に対する象徴的な感想に接しました。

書かれていることが、結局無様な恐怖感でしかないことに本人もまた気が付いていないことが異常ではあります。

≪荒井晴彦の完全監督作という事で興味があり鑑賞。日常生活部分のパートがやたらに冗長だったな。確かインタビューで「戦争時中ではあるけれど庶民、ある男女の視点から戦争を視る映画を創りたかった」と語っていたような気がしたがセットや衣装役者陣のしゃべり方などで“とりあえず”戦争中なのかな〜とボンヤリと時代背景がわかるような・・・わからないような・・既視感はあるんだけどはっきりいって隣の別居中の男と隣に住む母娘の娘とのポルノチックなドラマでも良いんじゃあないか・・・なぜ戦時中にしたのか・転がり込んで来た母の姉をストレスに思いながら三人食卓に交えた現代劇をバックに隣の中年男に惚れる娘・・正直映画終盤の終盤までその必然がわからなかったさらに追い討ちをかけるように枕の匂いを嗅ぐ汗ばんだ肌と蛾が着付する電燈トマトとトマトのムシャブリ口元の水を払うしぐさ長谷川博己が二階堂ふみにそぞろと歩み寄る歩み寄り大樹に追い込まれた瞬間!!蝉の歓奇と二階堂の歓喜がシンクロする!!!すんげーベタwwwwwwwwwwあまりのエロ表現度の素人ブリがこの映画から俺をトンデモナク遠ざけてしまったなwwww古くさいというよりセンスなさすぎwwあからさまに童貞が撮ったかのような青くさいエロ表現ほんとう教科書どおりのセンスのない映像表現にゲンナリしてしまった・・・最期の最期で『戦争と不倫は同じで みな、憎しみ嫌っているけれど 実はみな戦争が好きなんだよ』その同義語である事を云いたいがための『戦争映画』だったのだろうか、それにしては中だるみすぎである。≫

やれやれ、これからも、この手の連中と付き合っていかなければならないのかと思うと、気が重くなります。

それはともかく、高井有一が、情緒不安定な母親を、死の予感におびえながら少年の視点から描いた繊細な作品、芥川賞受賞作「北の河」をふと思い出しました。


(2015日本)監督脚本・荒井晴彦、原作・高井有一『この国の空』(新潮社刊)、ゼネラルプロデューサー・奥山和由、プロデューサー・森重晃、撮影・川上皓市、美術・松宮敏之、音楽・下田逸郎、柴田奈穂、録音・照井康政、照明・川井稔、編集・洲崎千恵子、ラインプロデューサー・近藤貴彦、助監督 野本史生、詩・茨木のり子『わたしが一番きれいだったとき』、制作担当 森洋亮、VFX・田中貴志、効果・柴崎憲治、装飾・三木雅彦、配給/ファントム・フィルム、KATSU-do
出演・二階堂ふみ(田口里子19歳)、長谷川博己(市毛猛男)、工藤夕貴(里子の母・田口蔦枝)、富田靖子(里子の伯母・瑞枝)、滝沢涼子、斉藤とも子、北浦愛、富岡忠文、川瀬陽太、利重剛(物々交換先の農家を紹介する男性)、上田耕一(里子の上司)、石橋蓮司(疎開を待つ町の住人)、奥田瑛二(疎開する画家)、 所里沙子、土田環、福本清三、木本順子、前島貴志、上田こずえ、岡部優里、川鶴晃弘、下元佳好、高橋弘志、司裕介、星野美恵子、宮崎恵美子、矢部義章、宮田健吾、福岡歓太、山野井邦彦、あきやまりこ、太田敦子、奥村由香里、小泉敏生、鈴川法子、武田晶子、西山清孝、細川純一、宮永淳子、山口幸晴、篠野翼、井上蒼太郎、七浦進、泉知奈津、大矢敬典、桂登志子、小峰隆司、髙野由味子、武田香織、林健太郎、松永吉訓、安井孝、山中悦郎、覚野光樹、小野寛、七浦紀美代
公開・2015年8月8日 130分



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# by sentence2307 | 2016-12-29 07:41 | 映画 | Comments(0)

前回、「岸辺の旅」の感想を書き進めながら、自分がこの作品に対して、かなり低い評価しか持っていないことが徐々に分かりはじめたとき、そのことが、かえって自分でも、とても意外でした。

この作品を鑑賞する前に、世間では既に定まっていた「高評価」が、自分にはどうにも気に入らず、ただ「そのこと」の反発だけで自分の真意を歪めてしまったのではないかと。

それはいまでも他人から評価を押し付けられたり、決めつけられたりすることをもっとも警戒し嫌悪している自分ですので、そう考えれば、あながち無理のない選択ではなかったのかもしれないのですが、ときには極端な「勇み足」というものも、ないではありません。

なにせ、根が「へそ曲がりの天邪鬼」ときている自分です、そういった心にもないリアクションを思わず採ってしまい、内心「しまった」と反省しながらも、もはや訂正できないまま「誤った立場」を固辞しなければならなくなり、心ならずもその「誤った立場」を正当化するという詭弁を積み上げていって、自分をどんどん窮地に追い込んでいくという苦い経験を幾度も繰り返してきているので(仕事の場でもです)、その辺は十分に注意している積りですが、今回もまた「それ」をやらかしてしまったのではないかと、この一週間にあいだ、年末の事務処理に追われながら、忸怩たる思いで、ずっと考え続けてきました。

つまり「岸辺の旅」の感想が、「高評価」に対する反発からの詭弁の積み上げにすぎなかったのではないか、と。

しかし、いくら考えても、あの作品「岸辺の旅」の妻・薮内瑞希と夫・薮内優介の実像が、自分にはどうしても見えてこなかったのです。

彼らが、かつての生活のなかで積み上げてきたはずの具体的な「愛憎の機微」、生活していくなかで彼らがお互いに対して持ったはずの「ブレ」と違和感みたいなもの、つまり生活史の実態が全然見えてこないのです。

その果てにあったはずの失意や絶望が見えなければ、夫がどういう思いで失踪し、生きている間は決して妻の元には帰ろうとせずに、誰も知らない土地で絶望のなかで野垂れ死んでいったのか、この「不意の失踪」や「かたくなな放浪」や「身元を放棄した絶望のなかでの野垂れ死に」にこそ、夫・薮内優介の意思がこめられているとしたら、それらすべては、妻・瑞希を苦しめるための当てこすりのような「憎しみ」だったのではないかと。

そういう鬱屈を妻に打ち明けたり弁明したりすることもなく、無言のまま失踪したそのこと自体に妻は深く傷つき、彼にとって自分とはいったい何だったのかと苦しみ、その死さえ知らされずに無視されたことに対して憤ったに違いありません。

こういうことすべてが、世俗にまみれて暮らす人間のごく普通の(誰もが経験するはずの)愛憎の感情なら、あの映画で描かれていた夫婦は、なんと生活感のない無機質なただの人形にすぎなかったのか、と。

その意味では、たぶん、あの小文にこめた違和感は、自分の真意を正当に反映したものだったと思います。

そして、自分のなかにあの作品に対する「真の反発」があったとしたら、それは、妻・瑞希が、亡霊となった夫・優介に最初に出会うシーンの、出会いの感動や憎しみや恐怖を欠いた無機質さに対してだったかもしれません。

このことを考え続けてきたこの一週間、自分の気持ちの中には、つねに溝口健二の「雨月物語」の最後の場面、源十郎と妻・宮木の美しい再会の場面が占めていました。

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# by sentence2307 | 2016-12-23 10:21 | Comments(0)

岸辺の旅

誰もが持っていると思いますが、自分にも、仕事上や趣味面で、信条(自分を行動に踏み切らせる切っ掛けというかジンクスみたいなものですね)としているものが幾つかあります。

そのどれもが、あまりに思い込みのつよい幼稚なものなので、公言するのはちょっと気が引けるのですが、例えば、「いま考えていることに関連する事柄に三タビ遭遇したら、迷わず行動する」みたいな感じのものです。

最近、その「公式」にぴったりハマったことがあったので、ちょっと書いておこうと思います。

以前、黒沢清監督の「岸辺の旅」を見たとき、世間が評価するほどには、自分は、もうひとつ賛同できなくて、そのことがずっと気になっていました。

確かにこの作品「岸辺の旅」は、素晴らしい作品です。

ただ、自分の心情として、その辺をさらに正確に表現するとすれば、「確かに、素晴らしい部分のある作品です」くらいには言い直したくなる感じです。

そうでもしなければ、どうにも気持ちの収まりようがなく、この作品には何か大切なものが欠けているという思いでいます(あなたねえ、カンヌ国際映画祭で、ある視点部門監督賞を受賞しようかというすごい作品なのに、なにをいまさら「大切なものの欠落」でもないじゃないですか、と抗議されてしまいそうですが)。

そこで、最近経験した例の「三タビの遭遇」の方程式にハマッタことについてちょっと書いてみますね。

この作品について、自分が、このような「いまいち」懐疑の気持ちを持っていて、無意識にですが、折に触れネットでこの作品につていの「感想」を読む習慣が、いつの間にか身についてしまったかもしれません。超有名な人気作品ですから、その感想の量も膨大なのですが、あえて目についたものをランダムに紹介してみたいと思います。

「黒沢清監督のゴーストものだが、怖い映画ではない。」

「岸辺に住む人々のお陰で、妻は夫を理解し、本当の別れを迎えることができる、深津さんのラスト、素晴らしかった。」

「幽霊の存在・霊魂の可視化に挑んだゴーストものはひとつのジャンルと呼べる。」

「旅先でその地の人々と一緒に、楽しく生活する二人。だが、いつしか瑞希は、死者に対する想い出に介入して、人の心を乱してしまう。知らずにしてしまっことだが、結果的にそれらは、死者と生者の心の区切りを付けさせる為の一助となる。旅の目的はこういうことなのか。これが優介のお世話になった人々への恩返しであり、別れの儀式なのだ。」

「岸辺という生死の狭間をさまよう生き霊たち。そんな荒ぶる魂を鎮めるための、これは男と女、二人の道行きの物語。生者と死者(元生者)との激しい葛藤。とり返しのつかない言動が生んでしまった永遠の懐疑と悔恨を何とか成仏させたいという切なる願いを胸に、旅をする夫婦。」

「突然行方不明になり、そして死んでしまった人がどんなことを考えていたのか。そして何をしていたのか。どうしようもなく知りたいことのひとつだと思う。本作は死んだ夫の幽霊とともに旅をし、真実が明らかになっていくというストーリー。設定が設定だけに不気味で怖かったり突拍子もなかったりするが、主演二人の素晴らしい演技によってすんなり観られる大人の映画に仕上がっている。」

「映像や音楽、夫婦役の2人が美しい。自然の中のシーンも、室内での照明の感じも綺麗だった。途中、夫が妻に『泣きながらでもご飯食べていそう』と妻の芯の強さを表現。ラストシーンの深津絵里の表情でそのセリフに納得。大切な人をゆっくりと失う感じが切なかった。」

「死者に対して人は二度お別れを言わなければならない。肉体的なお別れと、精神的なお別れだ。」

なるほどなるほど、しかし、これら感想のどれも、自分の中に存在する苛立ちを解消してくれるものではありませんでした、むしろ、不信感を一層煽るようなものばかりというのが本音です。

つまり、自分を苛立たせるこれら感想の「大勢」が、この小文の出発点ということになるわけですが。

そこで、まずひとつ目の「遭遇」からいきますね。

ここのところ「日本映画専門チャンネル」で、今村昌平の「人間蒸発」を幾度か放映していて、機会があれば、繰り返し見ています。

自分的には、「繰り返し」、そして「幾度」も、絶対に見つづけるべき価値のある作品のひとつだと思っていますし、見るたびに得るものがあり、いままでその期待を裏切られたことはありません。

この「人間蒸発」を見ていて、とても印象深いのは、理由も告げず自分を置き去りにして蒸発(失踪)した「婚約者」を捜索する主人公「早川佳江」の執拗さです。

「婚約者」がどこへ行ってしまったのか、そして、なぜ失踪したのか、彼に失踪しなければならないほどの何があったのか、失踪について誰がどのように関与したのか、主人公の早川佳江は、失踪者=婚約者の最後の立ち寄り先や接触した関係者の誰彼構わず尋ねまわり徹底的に調べます。

当初、この作品がリアルに現実を捉えたドキュメンタリー映画だと信じて見ていた僕たちは、そのラストで、この作品がすべて「虚構」だと明かされたあとでも、「早川佳江」という人物像が、今村昌平やスタッフが企んだ架空のものであることを知ったあとでも、やはり、その執拗さには真に迫ったものがあり、それを「異常」とは思わせない観客を十分に納得させる「もの」が、そこにはありました。

たぶんそれは、理由も分からずに不意に婚約者を失ってしまった女性の「屈辱」と「納得するわけにいかない自責の念」だったからかもしれません。

自分は彼をあれだけ愛していたのだから、婚約者が失踪したなんてどうしても納得できない。少なくとも「失踪」なんて、絶対自分のせいなんかではない、何らかの理由で第三者が関与して彼を失踪に追い込んだに違いないという(自分を除外した)懐疑が、彼女を激しく突き動かし、「真相」を求める情熱となったのだと思います。

訳も分からず、突然、恋人や夫が、不意に自分の前から姿を消したとしたら、残された者はどのように感じるかの「リアル」が、映画「人間蒸発」には描かれていると思いました。

失うまでの相手を深く愛し、理解していたと確信していればこそ、「自責の念」や「屈辱感」より以前に、突然の「失踪」に対して、「何故だ」「どこへ行った」「誰かが企んで陥れたに違いない」という「早川佳江」の思いに到達できたのだと思います。それが、人間のごく普通の感情なのではないかと。

たとえ一度でもお互いに愛するという感情を共有したことがあり、だから生活も共にしてきた同棲相手が不意に姿を隠したことに対して、「なんで自分の前から消えたのだ」という共棲者として憤りを込めた痛切な思いに苦しめられたようには見えない「岸辺の旅」の妻・薮内瑞希が、自分には、どうしても「リアル」に欠けるように思えてならなかったのだと思います。

そして、ふたつ目の「遭遇」です。

会社では、自分は、偏屈とか、頑固とか、その他いろいろな言われ方をしていて、そのどれもが決して「いいふう」に言われておらず、また、もちろんそんなふうな理不尽な言われ方に同意できるはずもないのですが、ひとつだけ「無理もないか」というものがあります、「悪趣味」です。

わが課では、始業時にその日の「官報」を回覧していますが、「官庁の契約関係」とか「役所の人事異動」とかは、それぞれ別の課がチェックしているので、さしてわが課が関係するような記事はありません。

はっきり言って、わが課では、「官報」の回覧などは無用のことで、ただ惰性で行われている「慣行」にすぎないのです。

課員は、官報の頁を繰ることもなく、余白に閲覧印をさっさと押して、瞬く間に課を一周し、再び官報は自分の手元に戻ってきます。

さて、ここからが、自分が「悪趣味」といわれている所以です。

官報には、ほぼ毎日、市町村長名で公示される「行旅死亡人」という記事が掲載されています、いわゆる「行き倒れ」(病気や飢え・寒さなどのために、路上で倒れること。また、倒れて死ぬこと。また、その人。行路病者。いきだおれ。大辞林第三版)ですよね。

自分がその記事をコトサラ熱心に読みふけっていることを知っている課員は、こちらをチラ見しては、クスクス笑います。

しかし、官報を愛読しているということを「悪趣味」というのならまだしも、「行き倒れ」の記事を毎朝「楽しみにしている」などと誤解し、そしてそれ掴まえて「悪趣味」というのなら、それは少し違うぞと強く抗弁したい気持ちがあり、心外に思っています。いつか弁明する機会があれば、彼らにも理解できるように説明したいと思います。

さて、その「行旅死亡人」ですが、ある日の官報に「岸辺の旅」を連想させるこんな記事(平成28.11.15号外25150頁)があったので、思わず複写をしてしまいました。

≪行旅死亡人

本籍・住所・氏名不詳、年齢55歳から75歳位の男性、身長175cm位、体格中肉、白髪交じりの短髪、茶色チェック柄シャツ、黒色長袖Tシャツ、青色ジーパン、黒色スパッツ、黒色靴下、黒色スニーカー、青色ボクサーパンツ、現金3491円、黒色二つ折り財布、黒色と灰色のジャンパー、フード付きフリースパーカー、黒色ニット帽、手袋、眼鏡、腕時計

上記の者は、平成271214日宮城県仙台市青葉区一番町4丁目210号東映プラザ地下1階ダイナム宮城一番丁館休憩コーナーで椅子に座ったまま意識不明となり、仙台市立病院に搬送され、同日縦隔腫瘍による呼吸不全のため死亡しました。

上記の遺体は、身元不明のために火葬に付し、遺骨は仙台市無縁故者納骨堂に安置してあります。心当たりの方は、当市青葉区保護第一課まで申し出てください。≫

作品「岸辺の旅」には、作り手や受け手が興味を示した「幽霊の存在」だとか「霊魂の可視化」以外にも、このストーリーの中に込められたはずの無残な思いとか、もっと興味を示してもよかったかもしれないリアルで熾烈で悲惨な「現実」がもう一方にあったことを、この「官報」が教えてくれているように感じたのでした。

さて、三つ目の「遭遇」です。

京大の酒巻匡教授が、ある雑誌に「性悪説」というコラムを書いていました。

書き出しは、こうです。

「人間には、悪の能力がある。これは、法学・政治学の大前提であり、この学問分野に少しでも触れたことのある者にとっては常識であろう。しかし、筆者は、法制度の設計を専門的に検討する審議会の委員を務めた際に、健全な社会常識を代表するという一般有識者委員の言動から、これが世間一般の常識ではないらしいことを知った。」

IR推進法案反対の幼稚な言説でも分かるように、綺麗ごとをひたすら並び立てて現実を見ようとしない「良識人間」とか「人道主義」が、いかに現実を歪めたか、アメリカをはじめ世界はいま、その揺り戻しに時期に差し掛かっているように感じます。

結局は、善人しか登場していないような幽霊の話なんて、てんで興味がなかったと、「岸辺の旅」についての感想を最初からズバリ言ってしまえば良かったのかもしれませんね。

2015)監督脚本・黒沢清、原作・湯本香樹実『岸辺の旅』(文春文庫刊)、脚本・宇治田隆史、撮影・芦澤明子、美術・安宅紀史、編集・今井剛、音響効果・伊藤瑞樹、音楽・大友良英、江藤直子、照明・永田英則、飯村浩史、録音・松本昇和、助監督・菊地健雄、製作・畠中達郎、和崎信哉、百武弘二、水口昌彦、山本浩、佐々木史朗、エグゼクティブプロデューサー・遠藤日登思、青木竹彦、プロデューサー・松田広子、押田興将、ゼネラルプロデューサー・原田知明、小西真人、音楽プロデューサー・佐々木次彦、VE・鏡原圭吾、スクリプター・柳沼由加里、ヘアメイク・細川昌子、衣裳デザイン・小川久美子、COプロデューサー・松本整、マサ・サワダ、VFXスーパーアドバイザー・浅野秀二、助成・文化庁芸術振興費補助金、配給・ショウゲート、企画制作・オフィス・シロウズ、製作・「岸辺の旅」製作委員会(アミューズ、WOWOW、ショウゲート、ポニーキャニオン、博報堂、オフィス・シロウズ)

出演: 深津絵里(薮内瑞希)、浅野忠信(薮内優介)、小松政夫(島影)、村岡希美(フジエ)、奥貫薫(星谷薫)、赤堀雅秋(タカシ)、千葉哲也、藤野大輝、松本華奈、石井そら、星流、いせゆみこ、高橋洋、深谷美歩、岡本英之、蒼井優(松崎朋子)、首藤康之(瑞希の父)、柄本明(星谷)、

89回キネマ旬報日本映画ベスト・テン第5位、主演女優賞(深津絵里、『寄生獣 完結編』と合わせて受賞)、第70回毎日映画コンクール日本映画優秀賞、第37回ヨコハマ映画祭(2016年)日本映画ベストテン第7位、第10回アジア・フィルム・アワード(2016年)最優秀助演男優賞(浅野忠信)、第25回日本映画プロフェッショナル大賞(2016年)ベストテン・6位、特別功労賞(芦澤明子、本作ほか長年の映画撮影の功績に対して)、第25回日本映画批評家大賞(2016年)主演男優賞(浅野忠信)、第30回高崎映画祭(2016年) 最優秀主演女優賞(深津絵里)、最優秀助演女優賞(蒼井優)、第8TAMA映画賞(2016年)最優秀女優賞(蒼井優、『オーバー・フェンス』『家族はつらいよ』と合わせて受賞。)、第68回カンヌ国際映画祭ある視点部門監督賞受賞(黒沢清)、


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# by sentence2307 | 2016-12-18 22:57 | 映画 | Comments(0)

「地獄の黙示録」について「たまごさん」から、とても含蓄に富むコメントをいただき、たいへんおもしろく読ませていただきました。

とくに、文中の「王殺し」のひとことなど、思わずグッときました。

自分は、最近、赤坂憲雄の「結社と王権」講談社学術文庫2007.7)というのを読んでいて、その本に書かれていることと共鳴する部分が少なからずあり、その意味からも、とりわけおもしろく感じたのかもしれません。

たぶん、そのおもしろさを説明するには、本からの引用(咀嚼できてないところはナマのまま提示するかもしれませんが)にかなりの部分を頼らなければならないと思いますが、できるだけ自分の言葉で、自分なりの感じたところを書いてみようと思います。

煩雑な註は、あえて表示を避けました。

ただし、当初は、「地獄の黙示録」との関連など、全然念頭になかったので、「やっぱり、関係なかったみたい」的な「結局、空振り」という事態も大いに予想されます。


これは単なる妄想にすぎないかも、という軽い気持ちで読んでいただければ、当方の気持ちとしても大いに楽なので、その辺はよろしくお願いします。

まず、「王権とは」という問いに、「王殺し」・「道化」・「偽王」・「祝祭」のモメントからアプローチしよう、といいます。

その「王権の象徴論的分析」の起点にすえるのが、山口昌男が示した四つの「王権の象徴性」の指標。

つまり、

① 王権は非日常的な意識の媒体としてはたらく。

② 「文化」を破ることで「自然」の側に移行し、力(マナ)を自分のものとする。

③ 日常的な意識にたいする脅威を構成するゆえに、王権はつねにその基底に反倫理性をもつ。

④ 日常生活における災厄を王権の罪の状況と結びつけることによって、災厄を祓う役割を王権に負わせることを可能にする。

として、こんなふうに説明しています。

「王権とはいわば、共同体または国家に堆積する災厄・罪・穢れの浄化装置である。

それゆえ、潜在的なスケープゴートとしての王。

ルネ・ジラールによれば、王とは「この上もない違犯者、いかなるものも尊重することのない存在、残虐極まりないものであれ、『過剰』のあらゆる形態をわがものにする存在」である。

近親相姦その他のタブーの違犯をつうじて、王はもっとも極端な穢れを具有する存在と化し、そうして王国に堆積する災厄を一身に帯びることによって、原理的には祝祭における供犠の生け贄として殺害される殺害される宿命にある。

フレイザーの「金枝篇」に収録された、王殺しをめぐる習俗や伝承の破片は、いまも検証不可能ないかがわしい仮説として放置されている。」のだそうです。

王は、多くの場合、つねに自身が果たすべき役割を他者に転嫁する巧妙な装置を産出する。

そこに、王の身代わりとしての「反逆の王子」、道化または偽王(モック・キング)といった一連の主題群が登場します。

つまり、先に掲げた「王権の形は、王殺し・道化・偽王・祝祭といった幾つかのモメント」というやつですね。


そして、さらにこのように説明します。

「古代エジプトの最古の道化が、人間の棲む世界のはるか彼方の、幽霊や口をきく蛇のいる神秘の国からやってきた醜い小人であったことに注意したい。

ローマ帝国の富裕な人々が娯楽の目的で家に置いておくことを習慣としたのも、肉体的な畸型者(フリークス)であった。

道化は多く、その身心に不具性・異形性を刻印されていたのである。

中国の宮廷道化とかんがえられる宦官が、去勢されたグロテスクな容姿の男たちであったことを想起してもよい。

さらに、構造として眺めれば、道化と同様に供犠されるべき王の身代わり、裏返された王の分身であるモック・キング(偽王ないし仮王)について語らねばならない。」

さて、この王の身代わり、裏返された王の分身であるモック・キング(偽王ないし仮王)とはなにか。

ここからが、すごくおもしろいのです。

《モック・キングは祝祭(カーニヴァル)の時空における、仮の、いつわりの王である。

古代ギリシャのクロニア祭、ローマのサトゥルヌス祭をはじめとして、バビロニアやチベットのラサの新年祭にいたるまで、主としてインド=ゲルマン文化圏の祝祭のなかにはしばしば、その倒錯的な姿が見出される。

偽王は奴隷や賎民によって演じられた。

王冠をかぶった奴隷は王座のうえから命令をくだし、後宮の妻妾たちをほしいままに扱い、狂宴と蕩尽にふけったあげく、祭りの終わりに生け贄として殺害された。

偽王をいただく祝祭の場にあっては、さまざまな性の禁忌はとりのぞかれ、盗みは合法的となり、奴隷と主人は交代し、男と女は衣装をとり換える。

あらゆる秩序は好んで裏返され、社会的ヒエラルキーは逆転する。

さかしまの世界がそこかしこにくりひろげられるのである。

とはいえ、そうした儀礼的かつ遊戯的な役割転倒は、秩序の転覆といった事態を招来することなく、逆に規範と法を強化するための、王権的秩序そのものに裏側から組みこまれた制度であったとかんがえられる。》

つまり、

《偽王は、奴隷や賎民によって演じられ、狂宴と蕩尽にふけったあげく、祭りの終わりに生け贄として殺害される。

この処刑によって、王権の規範と法は一層強化される。

偽王の存在も、そしてその処刑も、王権的秩序そのものとして裏側から組みこまれた制度のひとつであった。》

というのです。

ということは、「地獄の黙示録」でいえば、カーツも、おそらくは殺す側のウィラードも、王権を担う者ではない「偽王」ということになり、秩序強化のために、ほんのひととき支配者の役を演じたとしても、結局は処刑台にのぼる者たち=偽王でしかありません。

それなら、真の王権たり得る者とは、いったい誰なのかというと、そのイメージは、すぐに浮かびました。

カーツが支配するという密林の奥地に足を踏み入れたとき、沈黙の異様な静さをもってウィラードを迎えた者たち、顔や半裸の全身をけばけばしい絵の具で不気味に塗りたてた沈黙のあの「被支配者たち=大衆」たち、なのではないかと。

彼らが、たとえ「愚衆」の無力の象徴のように描かれていたとしても、その彼らが生き延びるためには、道化を演じさせ、やがて処刑する「偽王」を必要としたのだということが、あの映画の最後で描かれていたのではないかと感じました。

もう何年も「地獄の黙示録」を見ていないので、ストーリーとか、「映像」のそのものの記憶の曖昧さなどは相当にあり、正確さという面では、「それって、どうなの?」的な心もとないものもありますが、「たまごさん」の「王殺し」のひと言から勇気をもらって、あえて強引にこじつけてみました。


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# by sentence2307 | 2016-10-01 20:11 | 映画 | Comments(0)

極道のロジック

「職場改善プロジェクト」が終わったあとの飲み会で、資料課の大橋さんと黒澤明の「一番美しく」について話したことは、この前に書いたとおりですが、実は、時間的にいえば、会話全体の、それはほんの一部のことにすぎません。

ほとんどの時間を、タイトルにあるとおり「極道のロジック」について話しました。

「なんだ、そりゃ」と思われるかもしれませんが、別に唐突でもなんでもないのです。

大橋さんの叔父さんが、千葉の方で保護司をしていらして、その同じ保護司仲間にヤクザの社会に精通した「作家」の方(仕事柄なのかどうかは分かりません)がいるのだそうです、そのことは以前にも大橋さんから幾度か聞いたことがありました。

それまで自分は全然知りませんでしたが、お名前を向谷匡史という方で、結構著作もあって、わが社の社内研修でもその人の本を使ったことがあるのだとか(大橋さんが教材の調達の係をしています)、大橋さんは話していました。

「えっ、極道とビジネス、ですか?」と、その取り合わせがあまりにも奇異に聞こえたので、思わず聞き返してしまったくらいでした。

「おかしいですか?」と、大橋さん、「そら、嵌った」みたいなドヤ顔で満面の微笑です。

営業の交渉術とかもそうでしょうが、会社で生き抜いていくためには、相手を納得させて黙らせるくらいのロジックとか雄弁さで、強烈に自己主張することは絶対に必要なことじゃないですか。

すかさず「愛嬌も必要ですヨ」という私の進言をまったく無視して大橋さんは続けます。

そういう会話術みたいなことを、どんなに言葉を飾って上品にいうことは、幾らでもできるかもしれませんが、要するに相手を圧倒して黙らせて、自分の意見を押し通すことですよね。

それくらいできなくちゃ、会社では仕事の実績をあげられないどころか、仕事そのものを得るチャンスも掴みそこなうかもしれません、過当競争に生き残るって、それくらい厳しいことですよね、そういう意味では、残念ながら私もあなたも「敗残のおちこぼれ」の窓際族で出世とは無縁でしたよね。いえいえ、これはワルギで言っているのではありませんから。

ワルギでいわれてたまるか、コノヤロー。おおきなお世話だ。

しかし、こんなことで怒る自分ではありません、職場では、若い女の子たちから、もっとひどいことを(ワルギなく)気軽に言われていますから、もう慣れましたヨ・・・(さびしー)。

私の異変に気がついた大橋さんは、しばし話を中断して「大丈夫ですか」という目顔で首を傾げて覗き込んでいます、アイドルじゃあるまいし首なんか傾げたって可愛くなんかねえや、くそジジイ、とはまさか言いませんが、「いえいえ、大丈夫です、続けてください」と自分。

たとえば、ですね。(そうそう、まだ極道とビジネスの話、続いていたんですよね)

あまり想像したくありませんが、仮に、ヤクザに道で絡まれたとしますよね。先様は、脅かして金でも巻き上げようと考えています。

早い話、クライアントを二、三発殴っておいてから威嚇して、すごんで金を出させるというのが手っ取り早い方法と思うでしょうが、彼らはそんなことはしません。

そんなことをすれば傷害罪で逮捕されてしまうし、費用対効果からいっても暴力がいかに間尺にあわないかを一番よく知っているのが「暴力団」です。

ですから、彼らは、いかに暴力を用いずに済ませるかを常に考えている。

例えば、街頭でチンピラが若者に因縁をつけたとしますね。

「コラッ、黙ってりゃさっきから人のことをジロジロ見やがって、オレの顔に何かついてんのか!」

「見てません」と答える。

と、ここで先様は、「見てるじゃねえか!」とは、返さないで、

「てめえ、オレが嘘をついているとでも言うのか!」とくる。

「いえ・・・」

「じゃ、ジロジロ見てるってことじゃねえか」

つまり、

「見た」「見てない」という次元での応酬を続ける限り、ただの水掛け論になってしまい、果ては煮詰まって「暴力」に行き着くしかない。それはまずい。

だから、ここは素早く論点を変えて

「見たと主張する俺の言葉がウソなのか」と、次元をチェンジして、違う角度から攻めにかかる。

それでなくとも怖い顔で凄んでいるヤクザに向かって

「あなたが、嘘を言っているんだ」とは言いにくいので、

つい、「ウソは、ついていません」と答えたならば、論理的にクライアントが「ジロジロ見た」ということになってしまい、結局、金を出させられる羽目になる。

すなわち、「正しいのはオレで、悪いのはお前」という構図をつくっておいて、

「オレに因縁つけやがって、この野郎!」とガンガン攻めて、「お詫び」として金品を巻き上げるというわけです。

これが、極道のロジック。

ええ

ヤミ金の取立ては、こんな感じです。

「違法金利です」と、債務者が主張したとする。

しかし、先様は、「どこが違法だ」と応じないで、すばやく「次元」をチェンジする。

「借りるとき、金利の話をしなかったか?」


「しましたが・・・」

「だったら納得ずくで借りてるんじゃねえか。てめえ、借りるだけ借りておいて、いざ返すときになってゴネるのか。無銭飲食と同じだろ!」

暴力を振るわず、「正しいのはオレで、悪いのはおまえ」というレトリックに取り込まれてしまうというのだそうです。

「はあ、はあ。そうですか。しかし、大橋さん、これと「ビジネス」と、どういう関係が?」とボケる私に、大橋さんは、さも「どこまでも分からない人だなー」という顔で、「だから、要は、押しと異次元転換というハナシってことですよ。」

などと苛立たしげに言い募るのですが、ますます、分からなくなってしまった自分でした。


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# by sentence2307 | 2016-09-22 21:09 | 映画 | Comments(0)

話の前後のイキサツは、すっかり忘れてしまいましたが、ある人と数十年前に交わした会話の中で聞いたひと言が、折りに触れて、唐突に甦ってくることがあります。

それは、

「黒澤明だって、『一番美しく』という国策映画を撮っているじゃないか」

というものですが、それまで、「一番美しく」をそんなふうに考えたことがなかったので、まあ、それなりの「ショック」を受けたのだと思います。

つまり、「国策映画」の方にではなくて、あの作品を「そんなふうに考える人がいる」ということに対してです。

だいたい自分は、その頃だって、そして今でも、別に「国策映画」だろうと「迎合映画」だろうと別に全然構わないと思っていました、映画など、撮る機会があればトニカク撮ればいいし、そこでスポンサーからなんらかの要求があれば従う方向で検討するのがフツーだし、そこはできるだけ反映させてあげればいいくらいに思っていました。

そういうものは、ただの「条件」にすぎなくて、きっとほかにもクリアしなければならないもの(状況)なら、たぶん幾らでもあるだろうし、「スポンサーの要求」も「国家権力からの圧力」も変わることのないそのうちのひとつ(リスクかストレスかの違いだけで、もとよりそこには軽重の別などありません)いちいち律儀に負い目など感ずるほどのものでもないくらいに考えとけばいいので、重要なことは「映画を撮り切ること」であって、それがどんな作られ方をしようが、映画の本質とはなんら関係なく、その作品の本当の価値は、きっとその内部から自ずから立ち上がってくるものだと考えています。

黒澤明もこの「一番美しく」に対して、国家権力から執拗に干渉と検閲を受け、改変を強いられて憤ったという資料を読んだことがありますが、たとえそのような「改変」を強要されたとしても、それでも、自分は「一番美しく」がこの世の中に存在してくれていて本当に良かったと心から思っています。これは、映画を心から愛する者の本音です。

これはまたあらゆる映画づくりに関していえることだと思いますが、結果的に「国策映画」だろうと「迎合映画」だろうと、そんなものは自分的には全然構わないのです。

そのような無意味なレッテル貼りなど「映画」そのものにはなんの影響もおよぼさないし、作品そのものがすべてと考えている自分にとっては、作品を見もしないうちからそのような偏見で仕分けして作品に対するなど、むしろずいぶん失礼で臆病な見方だなと考えているくらいです、どんなカタチで撮られた映画であろうと、「実際に見れば」作品の優劣などすぐに分かるはず、しかし、そこはまあ、個人の好みというものもあるので、一概に「優劣」などと決め付けてはなりませんが。

「黒澤明だって、『一番美しく』という国策映画を撮っているじゃないか」と言った人に対して、当時、これだけのことを伝えられたかどうか、記憶も自信もありませんが、最近このことを思い出させてくれた出来事がありました。

話は少し飛びますが、わが社には、1年毎の持ち廻りで各職場から一名委員として代表を出して、会社のいろいろな問題を話し合う「職場改善プロジェクト」なるものがあります。

このプロジェクト、社長直属の秘書課がすべてとり仕切っている委員会ですので、いい加減にあしらったりすると、「あとで」怖い目に遇うおそれがあります、寒冷地への「異動」とかね。

「いろいろな問題」というのは、最近新聞などをにぎわせている事件を取り上げて、「わが社では、どうなってるの、大丈夫よね」とか話し合う意見交換会みたいなものです。

最近で言えば、歴代三社長のパワハラ圧力の恫喝に屈して虚偽の利益をでっちあげた「帳簿改ざん問題」とか、自分の財布と他人の財布の区別がつかない「守銭奴都知事問題」(そのセコさなんか、あの野々村でさえもマッツァオです)とか、女とみればすぐに手を出す桃色の噂が絶えなかったジャーナリスト気取りのおっさんが遂に秘事を暴かれて抗弁もできないという「色魔都知事候補問題」だとか(髪型も変だし、なにかというとしゃしゃり出てくる色情狂の女坊主が背後でうろついてなんだか薄気味悪いです)、責任者不在どころか押し付け合いの醜態を演じている「伏魔殿盛り土問題」とか(あっ、そういえばこれって都庁ばっかりじゃないですか。まさにお金の匂いにハエと蛆虫が群がる典型的な構図ですよね、そのうちに議会のお偉いさんの収賄事件にでも発展しそうな勢いです、どうもアヤシイゾー。
でも、怒って税金返せコノヤローって誰も騒がないのがなんだか不思議ですよね、どうなってるんでしょうかね、都民は?)、まあ、こんな感じで、「職場改善プロジェクト」は、はっきりいって一時間程度のなんてことない雑談で終わるのですが(もっとも、どの「問題」にしても恐れ多くて私らあたりが結論など出せる問題でもありませんが)、こんなダレた無意味な会議でも出席率は常に
100
%、社長も大満足です、というのは建前、皆さん、そのあとの「呑み会」(経費は、会社の「会議・研修費」として予算に計上されているそうです)が楽しみで、かえってオフレコのこちらの寄り合いの方がよっぽど有意義な話が交わされていて、自分などは、最初からここで話をさせて録音でもとれば、すごい成果があがるのではないかと常に思っているくらいです。

しかし、なにせ「予算」で呑もうというタカリ精神なのですから、「高級」とか「小ぎれい」とか「おしゃれ」などという店を期待してはなりません、また、そういう場所が似合うような面々でもありませんしね。

むしろ、汚いくらいの方が気の落ち着く貧乏性の私らですが、それにしても「程度問題」ということもあります、むやみに息をすれば悪い空気を吸って肺でも悪くしてしまうのではないかとか、手で触れたりすれば手から体にばい菌がうじょうじょ沁み込んできて悪い病気にかかって鼻でも落ちてしまうのではないかなどと危惧するくらいの、それはもう汚れ放題の楕円のカウンターの周りに、明らかに尻の幅より小さく作ってある椅子が隙間なくびっちりと並べられた席で(常識的な寸法なら二尻に三脚は絶対必要なはずの過酷な寸法です)、切り詰められた空間に押し込まれ、どうにも身動きのとれない一同が肩を並べて一斉に呑み始めるという壮絶な図ですが、これでもし火事でもおこったら端から静かに人間が燃えてくるのを、ジョッキ片手にただ眺めてじっと待っているしかないくらいの覚悟が必要な、微動だにできない殺人的な鮨詰め状態です。

冷静に考えればこれってシゴク恐ろしい話ですが、しかし、それを上回る「呑みシロ・ロハ」の圧倒的な魅力の前に皆の危機感は完全に麻痺して、死の恐怖も克服し、まさに死んでもいいやくらいの気持ちで(あっ、これって黒木華がCMで言っているフレーズと同じだ)、逆上気味に浅ましく、嬉々として憑かれたようにジョッキをあおり始めています。

自分の席は、経理の門口さんと資料課の大橋さんに挟まれていて、このおふた方とも既に65歳の延長雇用期間もとっくに過ぎており、さらに70歳まで勤めあげようかと頑張っている鉄人です(聞くところによると、70歳が年金加入のできる限度の年齢だそうで、それまでは働き続けて掛け金を払い続け、残された余生をできるだけ安心できるものにしようという計算なのだそうです、その見上げた了見というか魂胆というか、蟻さんのような堅実な心がけには尊敬とともに畏怖さえ感じますが、薄らぼんやりした自分などには、到底及びも付かないことで、願わくば、その70歳到達以前に皆さんの寿命が尽きることのないよう陰ながら切にお祈りを申し上げるばかりです)。

特に、資料課の大橋さんは、若い女の子には絶大の人気があって、女性だけの聖域・洗い場やトイレなどでは「死霊課のゾンビちゃん」という愛称で慕われているご仁です。
しかし、それって蔑称じゃね、などと若い男連中は眉を顰めますが、ご本人は一向に意にかいすることもなく、むしろ、そんなことは十分承知のうえで、ソトメには大変に喜んでおられるように見受けられ、たとえそれが会社にしがみつき続けるための涙ぐましい言い訳と健気なポーズだったとしても、それはそれで爽やかで凄いことじゃないですかと感心していますが、大橋さんの心の闇の深淵をのぞいたわけではなく、本当はどう感じていらっしゃるのかまではちょっと判断がつきませんが。

その大橋さんと隣り合って座れば、よく映画の話をしています。

会話していても変な緊張感がなく、大変話しやすいので、自分もついつい話し込んでしまいます。

ほら、よく若い人たちと話すと、お互いに「知識のひけらかし合戦」みたいになって、ストレスばかり溜まってしまうあの寒々しい感じがとても嫌で、話した後の後味も悪く、そんな思いをするくらいならと、できるだけ若い連中の話の輪には入らないようにしていますし、ましてや彼らと「映画」の話などすることは滅多に、いや、絶対にありません。

それに比べると、(小心なくらいに)なにかと気配りをしてくれる大橋さんと話すのは、実に快適です、話の合間にうつ相槌も的確にして絶妙そのもので、とても優しくて、つい話しに夢中になってしまうのです。

あるとき、やはり例の「会議・研修費」持ちの呑み会でのこと、いつものように大橋さんと隣り合わせました(一説では、私らが皆から煙たがられているので、自然にこの組み合わせに落ち着いてしまうのだとか、たぶんそういうことなら、それで十分と最近はその「自然のなりゆき」に身をまかせています。


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# by sentence2307 | 2016-09-19 21:04 | 映画 | Comments(0)

その夜は、こんな話から始まりました。

先年亡くなった小沢昭一が、終戦間際に海軍兵学校に入った話は有名ですよね、その理由ってのを知っていますか、と大橋さんが訊ねてきました。

僕の「知る」とか「知らない」とかの答えなんか待つこともなく、間髪をいれずに大橋さんは続けます、「実はね」と。

実はですね、海軍の鉄拳制裁って有名じゃないですか。
いまでもその伝統は、自衛隊に受け継がれているとかいわれてますよね。あれって新参者や弱者をいたぶり踏みつけにして鍛え上げるという日本独自の人間形成のためのいじめの伝統で(そういうのを「おためごかし」というのですが)、いまでも自衛隊では、そのシゴキに耐えられなくなって自殺者が出るとかいわれているくらいです。

そこで、小沢昭一は、「殴られるより、殴る方に回ろう」と思い、海軍兵学校に入ったというのです。

まともに徴兵検査で入営すれば、日々ぶん殴られたり、殴り合いをさせられて、あるいは柱にしがみついてミンミン鳴く蝉とか、両腕で体を支えて血の気がなくなるまで宙で脚を漕がされる自転車漕ぎとか、いじめの手段は幾らもあって、そうした地獄のような一日を終えた憔悴しきった新兵たちがやっと寝られるというとき、消灯を知らせるラッパの音が「新兵さんは可哀想だね、また寝て泣くのかよお」と聞こえたというのです。

「どうです、面白い話でしょう?」と大橋さんは得意気に言うのです、自分としては別に面白い話だとも思いませんが、「じゃあ、山本薩夫の『真空地帯』って、そういう映画だったわけですね」と振ってみました。

「そうですよ、あの作品で描かれていることが軍隊の実体だったんだ」と大橋さんは、感に堪えるように答えました。「そして、あの作品は、戦中に作られた雄々しい数々の国策映画に対するアンサー映画の意味もあったと思いますよ」

その言葉から、ふっと、遠い時間に埋もれたままになっていた「黒澤明だって、『一番美しく』という国策映画を撮っているじゃないか」というかつての言葉を思い出したのでした。「本当に、そうだろうか」という疑問とともに。

実は、自分が「一番美しく」という作品を思うとき、必ずいつも一緒に想起する映画があります。

水木荘也の「わたし達はこんなに働いている」というドキュメンタリー映画です。当時「国民映画賞」というのがあって、それを受賞した作品だとかで、それなりに優れた作品だったのだと思います。

そして公開はなんと日本が敗戦する一ヶ月前の1945628日、海軍衣糧廠で働く女子挺身隊の必死の働きぶり・生活ぶりをリアルに描いたもので、いわゆる「国民総動員映画」なので、国民の戦意を鼓舞する作為が込められているのは、たぶん確かでしょうが、しかし、それを差し引いても、ここには当時の逼迫した「状況の真実」が迫真の緊張感で描き込まれています。

資料から、この映画の解説部分を引用してみますね。

《海軍衣糧廠に働く女子挺身隊員の活動記録で、七つボタンの予科練服をはじめ、一日平均78枚の軍服を縫いあげるため、少女たちは一分一秒も無駄にしないようにと、必死の活躍である。カメラはそれを表象するかのように、齣おとしで撮影しているから、映写される画面は、人物がゼンマイ仕掛けの人形のように、起居進退ともに走り廻っている。アナウンスもややかすれた健気な少女の声で、「わたしたちはこんなに働いているのに、なぜ、サイパンは陥ちたのか」と、眼に見えぬ怒りをぶちまけており、仕事の最中にミシンの針が折れた少女の一人は、ミシンの上に突っ伏して泣き出す。

この映画が作られ公開された頃は、サイパンが陥ち、硫黄島が占領され、連日のようにアメリカ空軍機が編隊で来襲し、日本各地の都市や軍事基地が次々と爆撃されていたのである。五体満足の壮年男子はほとんど軍務に徴発され、隣組の婦人たちは竹槍訓練や防空演習に連日奔走し、少年少女たちはそれぞれの適性に応じて、軍需工場の労力奉仕にありったけの精根を尽くした。その間にも、敵は沖縄を陥として、本土の海ぎわにまで接近している。絶体絶命である。居ても立っても居られず、すきっ腹を抱えて走り廻らずにおられぬ状態を、齣おとしのフィルムは、痛ましいまでに表現している。

はたちになってもお嫁に行くなんて間違いだと思え、と監督教官が訓戒する。お嫁に行きたくとも、おじいちゃんや子供ばかりで、相手が居ないではないか。娘たちは文字通り一汁一菜の食事に餓えをしのぎながら、あの山のような仕事に、夢中になって取り組むことによって、明日なき現実を忘れようとしていたのであった。》

この切実な戦意高揚映画になんらかの「作為」があったとすれば、それは「齣おとし」くらしか思いつきませんし、それは彼女たちの奮闘振りを際立たせようとしたためなのでしょうが、ミシンに屈み込み縫製に奮闘する彼女たちの懸命さや、作業中に突然ミシンの針が折れて、切迫した緊張が一瞬途切れた少女が思わずミシンに突っ伏して悔しがる切実さのまえでは、そんな技術的な小手先の「作為」などなんら必要なく、ただうるさいだけの「無力さ」を明かし立てることでしかありませんでした。

むしろ、監督教官が少女たちに「(この戦時下に)はたちになってもお嫁に行くなんて間違いだと思え」と厳めしく訓戒する場面で、それまで謹聴していた少女たちが、思わず緊張がほどけてワッと恥らって笑う場面の瑞々しさ(少女たちにとって「お嫁にいく」こと、愛されて結婚することを夢見ることが、「戦時下」をさえ無力にしてしまうファンタジーであること)によって、この映画がきわめて健康な「戦意高揚映画」である以上の意味で、瑞々しい大和撫子たちの「高揚映画」であることを明かし立てています。

「一番美しく」の公開は1944413日、この「わたし達はこんなに働いている」公開に先立つ一年前とはいえ、すでに北九州では空襲があり、そろそろ本土にも拡大する兆しがみえてきて、いよいよ「本土決戦」の噂も囁かれはじめた時期です(サイパン玉砕は報道管制によって、事実はしばらく抑えられました)。

「一番美しく」は、精密なレンズの検査作業を任された作業において、気の緩みから未修正のレンズを紛らせてしまった少女たちが、作業員としての矜持をもって全員一丸となり徹夜で探し出す作業をやり遂げる、いわばスポ根ものみたいなストーリーです。

この物語において、黒澤明は、少女たちに「人間の矜持」や生きる姿勢としての「完全」を求めたのだと思いますが、しかしこの作品に、あの「わたし達はこんなに働いている」において、「お嫁さん」の話にワッと沸く少女たちの瑞々しさと生々しさがあったかといえば、それは少なからず疑問というしかありません。

その意味において、「一番美しく」は、「わたし達はこんなに働いている」以上の「戦意高揚映画」とはなり得なかったというしかありません。

わたし達はこんなに働いている(1945朝日映画社)演出・水木荘也、撮影・小西昌三、構成・高木たか、

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一番美しく(1944東宝・砧)監督脚本・黒澤明、製作監督助手・宇佐美仁、企画・伊藤基彦、撮影・小原譲治、音楽・鈴木静一、編集・矢口良江、美術・安部輝明、録音・菅原亮八、調音・下永尚、照明・大沼正喜、鼓笛隊指導・井内久、スチール・秦大三、

出演・志村喬(石田五郎)、清川荘司(吉川荘一)、菅井一郎(真田健)、矢口陽子(渡辺ツル)、谷間小百合(谷村百合子)、入江たか子(水島徳子)、尾崎幸子(山崎幸子)、西垣シズ子(西岡房枝)、鈴木あさ子(鈴村あさ子)、登山晴子(小山正子)、増愛子(広田とき子)、人見和子(二見和子)、山口シズ子(山口久江)、河野糸子(岡部スエ)、羽島敏子(服部敏子)、萬代峰子(阪東峰子)、河野秋武(鼓笛隊の先生)、横山運平(寮の小使)、真木順(鈴村の父)、

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# by sentence2307 | 2016-09-19 21:00 | 映画 | Comments(0)