世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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原題「Der Staat gegen Fritz Bauer」と邦題「アイヒマンを追え!」では、見る前の観客に相当見当違いな、あるいは、誤った先入観を与えてしまったのではないかと危惧しています。

その副題の「ナチスがもっとも畏れた男」だって、原題の不正確さを補完するために慌てて付け足したかのような蛇足感をまぬがれません、かえってメイン・タイトルが言葉足らずなことを、逆に証明してしまっているようなもので、それだけでも責任ある命名者(興行者)として作品のイメージをそこない、さらに営業戦略としても、ずいぶんな失策だったのではないかと思いました。

自分の受けた感じからすると、これは単に「フリッツ・バウアー」(どうあろうと、この映画の主人公なのです)という名前を出すよりも、世間的に遥かに浸透している「アイヒマン」とした方が、宣伝効果があるに違いないという短慮から、このような見当違いな邦題の命名に至ったというなら、それは、この作品に対する根本的な認識不足というしかありません。

原題「Der Staat gegen Fritz Bauer」を「フリッツ・バウアーをめぐる状況」とでも訳すれば、このサブ・タイトル「ナチスがもっとも畏れた男」の方だって、相当あやしいものになってくると思います。

だってそうですよね、この原題が指向しているものは、戦後、いまだに国内の司法にはナチの残党・抵抗勢力が残っているという中で、ナチの戦争犯罪を追及しょうというユダヤ人検事長の苦労話なわけですから、ここで描かれているものは、少なくとも「人=アイヒマン」なんかではなかったというのが本筋です。まあ、言ってみれば、アイヒマンという設定は、ユダヤ人検事長にとっての「困難な状況」を説明する単なる素材にすぎなかったわけで、タイトルに掲げられた「アイヒマン」を注視していた観客には、見当違いの道しるべを与えられたような、なんとも迷惑な話だったかもしれません。

それは、検事長の職務にあるフリッツ・バウアーが、ブエノスアイレス市民からの投書によって、アイヒマンが彼の地に潜伏しているらしいことを知り、それが本人であるという更なる確証を得たあとで、検事長としての権限でドイツ本国に連行し裁きを受けさせたいと上申したときに、強硬に拒否された抵抗勢力(当時のドイツ司法に占める多数の元ナチス党員や関係者たち)のことを「状況」と表現しているのですから、それを「アイヒマン」という見当違いな人名をタイトルの前面にだしてしまったら、タイトルに引きずられた観客が戸惑い幻惑されるのも、そりゃあ当然のことだったと思います、「作品を損なう」と言われても決して言い過ぎなんかではない、むしろ「暴挙」とさえ言い得るタイトルの命名だと思いました。

検事長フリッツ・バウアーがユダヤ人であるために国内で受けなければならなかった困難が、具体的な数字として残されています、つまり、当時の西ドイツ司法部(裁判官と検察官)には戦前からの元ナチス党員・関係者というのが、まだ1,118人いたと、東ドイツのキャンペーンの数字としてwikiには記載されています。(注)


(注)「だが実際には1945年のナチス党の解散時にナチス党員は約850万人、協力者は300万人以上にものぼっており(合計で当時のドイツ総人口の約2割)、また官僚や政治家、企業経営者など社会の中核をなす層にも浸透していたことから、ナチスの追及は敗戦で荒廃したドイツの戦後復旧を優先した結果としておざなりなものとならざるを得なかった。加えて直接の関係者はもとより親族などの反対もあり、ナチス追及は不人気な政策であった。
1950年代末には、西ドイツに対して「血に飢えたナチ裁判官」キャンペーンが東ドイツで行われている。そこでは元ナチス関係者(党員か協力者)の裁判官や検事など司法官僚が1,118人も西ドイツにはいると非難されており、これらの元ナチス司法官僚はナチスの追及に大きな障害となった。最終的に有罪になったナチス関係者は、罰金刑のような軽い罪を含めても6000人あまり、関係者全体の0.06%に過ぎない。」


当時のドイツにおけるこの元ナチの残党1,118人という数字が意味する「逆境」において、「ナチの戦犯を追及」することの困難と、公正な法の支配とその執行など、そもそも最初から望むべくもなかった状況にあったことは明らかでした。

だからこそ、フリッツ・バウアーは窮余の一策として、ドイツ国内法の「国家反逆罪」のリスクを負ってまで、秘密裏にイスラエルの秘密警察モサドに助力を仰がざるを得なかった、そして、この事実(第三国への協力と通報の行為)が明らかにされたのが、彼の死後数十年も経ってからのことだったと、この映画の最後で語られていました。

自分は、このナニ気に付け足された「彼の死後数十年も経ってから」という部分に強く惹かれました。

つまり、「数十年経たなければ」このユダヤ人検事長の犯したドイツにおける「国家反逆罪」の嫌疑は薄まることなく、ずっと有効だったわけで、いまになってやっと語られるこの「美談」風な衝撃の事実は、逆に、彼が生きている限りは容認されなかったし、彼が死に、さらにその影響が薄らぐまで語るのを憚られてきたということのアカシにほかならないと理解してみました。

このシチュエーションを日本に当て嵌めて考えてみれば、その「トンデモナサ」は明らかですが、フリッツ・バウアーのしたことは、「他国」と気脈を通じ、そして利するために「自国」を裏切るという背信行為なのであって、少なくとも、国家から国の秩序の安定をはかるために全面的に権力を託された検事長・公務員にとって(この全面的な権力の委託=なんでもできる強権を受諾する見返りが、国家への限りない忠誠でなければ)、その裏切り行為は、とても深刻な事態だというしかありません、たとえそれが「一民族の正義」のために行われたことだったとしても、みずからの属する国家を一蹴し、あるいは飛び越えるという違和感は、どうしてもぬぐえません。

それは「正義」のために躊躇なく決行した第三国への協力・通報の行為(裏切り)は、この映画にあっては、称賛されこそすれ、いささかも問題にされていないという視点です、そこに自分はこのストーリーにも、このフリッツ・バウアーという人物にも、嫌悪に近い限りない違和感をもちました、この映画には、わが意に反して生きなければならない者の、迷いや葛藤はことごとく無視され、「正義は我にあり」という被害者意識に満ちた踏み絵をかざし、讒言と密告も、そして国家ぐるみの誘拐も拉致も当然視され、そのうえでなされる裁判と処刑も、何でもアリという、目をそむけたくなるような思い上がりに対する、限りない嫌悪です。

それは、最後のこんな場面でも感じました。

フリッツ・バウアーが協力を要請した部下の検事・カールが、同性愛者のクラブ歌手との淫行(「彼女」に嵌められたのですが)の写真を盗撮されて当局に脅迫され、屈服しないカールはやがて自首します。

カール検事を拘束したと上席検事クライトラー(ナチ側です)からの報告を受けた検事長フリッツ・バウアーとの素っ気ない会話が、この映画のラストで描かれています。

カール検事拘束の報告を聞いて、検事長フリッツ・バウアーはこう言います。

「考慮したまえ。彼は猥褻行為に及んだが自首したんだぞ」

「本件に、なにか拘りでも?」

「ない、仕事に戻りたまえ」そして「覚えておけ。私は自分の仕事をする。私が生きている限り、誰にも邪魔をさせん」

たった、それだけ!? あんたねえ、仮にも無理やり協力を強いて働かせた部下なんでしょ、抵抗勢力を抑えてあれだけのことができたわけですから、検事長の権限でオカマの検事ひとりくらい助けるくらいわけなくできそうなものじゃないですか。

彼のこの冷ややかな対応は、「自分にもそのケはあり、国外でやらかすなら罪にならないぞと、だから国内ではアレは決してやるなよってあれほど言ったろう。ドジ・まぬけ・バカヤロー」くらいしか窺われません。

わが身可愛さで、結局彼は、のうのうというか、ぬけぬけと職務を全うしたっていうじゃないですか。

なんか他に言いようがないんですかね、言うに事欠いて「私は自分の仕事をする」だって?
アホか。
役に立たなくなった人間は、そうやってどんどん切り捨てて、戦犯追及の大義名分のもとに、ぬけぬけと自分だけ生き抜いていくというわけですか。なるほどね。あんたという人も、この映画も、よく分かりました。


この小文を書くまえに、手元にあるアイヒマンについて書かれた幾つかの論文に目を通しました。

そのなかのひとつ、広島大の牧野雅彦という人が書いた論文「アレントと『根源悪』―アイヒマン裁判の提起したもの―」(思想2015.10)のなかに興味深い部分があったので、どこかで活かせるかなと思いながら、念のためにタイプしておいたのですが、結局、活用する機会を逸してしまいました。

むげに捨てるのも、もったいないので、「参考」として記載することにしました。

「悪事をなす意図を前提として始めて法的責任と罪を問うことができる―意志を持たず善悪の弁別能力を持たない無能力者は処罰の対象にならない―というのが近代刑法の原則であるとするならば、アイヒマンの犯罪はそれを超えた―いやそれ以前の、というべきか―いわば世界とその法的・道徳的秩序そのものを破壊するような悪なのであった。そうした悪に対しては極刑をもって対する以外にない。アレントは仮想の裁判官に託してアイヒマンに対して次のような裁きを下している。

『君が大量虐殺組織の従順な道具となったのは、ひとえに君の逆境のためだったと仮定してみよう。その場合にもなお、君が大量虐殺の政策を実行し、それゆえ積極的に支持したという事実は変わらない。というのは、政治とは子供の遊び場ではないからだ。政治においては、服従と指示とは同じものなのだ。そしてまさに、ユダヤ民族および他の幾つかの国の国民たちとともにこの地球上に生きることを拒む・あたかも君と君の上官がこの世界に誰が住み、誰が住んではならないかを決定する権利を持っているかのように・政治を君が支持したからこそ、何人からも、すなわち人類に属す何者からも、君とともにこの地球上に生きたいと願うことは期待し得ないと我々は思う。これが君が絞首刑にならねばならぬ理由、しかもその唯一の理由である。』」

あらためて読んでみると、論旨は至極まっとうで、やはり、自分のコラムのなかに、この文章を生かせる箇所は、なかっただろうなという思いを新たにした次第です。自分もやはり、当初、タイトルの「アイヒマン」に引きずられた被害者のひとりにすぎなかったことを示している見当違いな残骸を前にして、しばし呆然の感じでいたかもしれません。

(2015ドイツ)監督脚本・ラース・クラウメ、製作・トマス・クフス、脚本オリビエ・グエズ、撮影・イェンス・ハラント、美術・コーラ・プラッツ、衣装・エスター・バルツ、編集・バーバラ・ギス、音楽・ユリアン・マース、クルストフ・M・カイザー、製作・ゼロ・ワン・フィルム、原題・Der Staat gegen Fritz Bauer

出演・ブルクハルト・クラウスナー(フリッツ・バウアー)、ロナルト・ツェアフェルト(カール・アンガーマン)、セバスチャン・ブロムベルグ(ウルリヒ・クライトラー)、イェルク・シュットアウフ(パウル・ゲプハルト)、リリト・シュタンゲンベルク(ヴィクトリア)、ローラ・トンケ(シュット嬢)、ゲッツ・シューベルト(ゲオルク=アウグスト・ツィン)、コルネリア・グレーシェル(シャルロッテ・アンガーマン)、ロベルト・アルツォルン(シャルロッテの父)、マティアス・バイデンヘーファー(ツヴィ・アハロニ)、ルーディガー・クリンク(ハインツ・マーラー)、パウルス・マンカー(フリードリヒ・モルラッハ)、ミヒャエル・シェンク(アドルフ・アイヒマン)、ティロ・ベルナー(イサー・ハレル)、ダニー・レヴィ(チェイム・コーン)、ゼバスティアン・ブロンベルク(ウルリヒ・クライトラー)、


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# by sentence2307 | 2017-12-09 17:50 | 映画 | Comments(0)

ある天文学者の恋文

まるでなにかの罠に嵌まってしまったみたいに、同じようなタイプ(それも取り分けレアなテーマです)の映画を立て続けに見てしまい、そのまるで計算しつくされたような奇妙な符合に、これってなにかの不吉な予告とか祟りのタグイなのかと、思わず不安になるなんて経験したことってありませんか。

先日、ジュゼッペ・トルナトーレ監督の「ある天文学者の恋文」(2016)を見ていたときに、そのオゾマシイ霊感とやらに突然金縛りにあってしまいました。

ジュゼッペ・トルナトーレ監督作品なら、それがどのように不評な作品であろうと、とりあえずは見てみたいと思っている自分にとって、この「ある天文学者の恋文」もそのうちの1本でした、それもこれも数多くの幸福な映画の記憶をトルナトーレからいただいているからこその、そしていまもなおその「保証期間」が継続中であることの証しみたいなものなのかもしれません。

しかも主演が、超繊細な演技が売りのジェレミー・アイアンズとくれば、もうそれだけで一見の価値があります、最近では、見るからに弱々しい繊細さで売るこういう男優って稀有な存在になってしまいましたし、思えば、かつてはこのタイプの男優はすぐに思いつくくらいに多くいて、例えばジェラール・フィリップだとか、モンゴメリー・クリフトだとか、ジェームス・ディーンなんかも、そういうタイプの役者の代表格でしたよね、むしろマッチョで猛々しいタイプの俳優よりも、「こっち系」の男優の方が、はるかに主流だったような気がします、あの時代がそういう軟弱な俳優を求めていたからかもしれません。

ほら、例のフィリップ・マーロウの「If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.(強くなければ、生きられない。優しくなければ、生きている資格がない」なんて言葉が象徴していたあの雰囲気です。

自分としては、それを聞いた当時だって、ずいぶん甘々で、それを平気な顔して言う相手の顔をまじまじと見てしまうくらい、なんだか気恥ずかしくてたまりませんでしたが。

しかし、今の時代、優しいばかりでウジウジなどしていたら、無視されて放っておかれるどころか徹底的に干渉されて生き場を失い叩き潰すまで追い詰められて秒殺されるという過酷な時代なのであって、現代がそれだけハードで容赦ない時代になったからだと思います。

でも、自分としては、むしろこの本音の現代の方が、ずっと生き易くて気に入っています。

さて、この「ある天文学者の恋文」ですが、天文学者の大学教授エド(ジェレミー・アイアンズ)と教え子の女学生エイミー(オルガ・キュリレンコ)は不倫の関係にあって、この映画の冒頭でも、さっそくふたりの「くんずほぐれつ」の情事の描写から始まっている始末です、私見ですが、こういうのって実にけしからんと思いませんか。老いぼれとピチピチの女子大生が、あっちを舐めたり、こっちを吸ったりなんかしたりして、なんなんだこの野郎という感じです。そんなことして、気持ちいいだろ、てめ~。

自慢じゃありませんが、自分はこのようなことにただの一遍だって遭ったことがありません、悔しくて悔しくてたまりませんよ。

まあ、それはさておいて話を続けますね。

ある日、大学の講義を受けていたエイミーは、エド教授が急逝したことを知らされます。

しかし、エド教授から旅行に行くと知らされていたエイミーのもとには、依然として彼からなにごともなかったかのようなメールが継続的に入ってくるし、それに、まるでタイミングを計ったような郵便物も届くので、彼女にはどうしても教授の死を信じることができません、そして、エド教授の死を確かめるための彼女の旅が始まるというちょっとミステリーっぽい物語です。

しかし、このミステリー仕立ての物語の根底にあるものは、たとえ自分が死んでも、愛する者をどうにかして、いつまでも見守り続けたいという痛切な深い思いがあって、たぶんそれが観客を感動させずにはおかないのでしょうが、自分としては、この手を替え品を替えの「仕掛け」の部分がどうにも引っかかって、しっくりと受け入れることができませんでした。

はたして教授が思っているほど、彼女が将来にわたって「永遠の愛」を信じ続けることができて、そして、教授の見守りをいつまで必要とし、彼女の歓迎を保てるか、愛の企みを夢中になって仕掛けていた死期の迫った教授が、「そのこと」に少しの不安も抱かなかったのかという疑問です。まあ、少しでも疑問を持ってしまったら、こんな企みができるわけもありませんが。

自分としては、教授が仕掛けたこれらすべての企みは、教授のエゴから発した未練にすぎないもので、決して生き残る愛する者を思いやってのことではない、つまり、「余計なお世話だ」という感想を持ちました。

たぶん、最愛の人を失った彼女は、しばらくの間、そりゃあ悲しむでしょうし、相当な「喪失感」に苦しむには違いありません。

しかし、時が経てば、いつまでも悲しんでいることの空しさを悟り、やがて時間が、過去の辛いことを少しずつ忘れさせ、立ち直ることができるものだと思います。

しかし、そこに相変わらず「教授のメール」が届いたりすれば、それは彼女の立ち直りを阻む効果しかないことは明らかです。

彼女が自由に生きることは許されないのか、という思いを持ちました。

そして、この映画を見た少しあとに、「愛を積むひと」(2015、朝原雄三監督)を見ました。

心臓病で余命幾ばくもないことを知った妻(樋口可南子)は、夫に幾通もの手紙を、まるで「仕掛け」のように残していきます。

まだ十分に若い彼女には、この世に思いを残すことは、きっと数多くあったに違いありません。

夫(佐藤浩市)を見舞うはずの困難な事態を予測して、妻は、的確な場所に明快な手紙を残して迷う夫に天国から助言を与え助けます。

この部分を見ながら、ふっと小学生か中学生だった頃に流行った小噺を思い出しました。

ある男がトイレに貼ったら、正面の壁に「左を見ろ」と書いてあるので左を見ると、左の壁には「右を見ろ」と書いてあったので、今度は右を見ると「上を見ろ」と書いてある。天井には、「きょろきょろするな、バカ」と書いてあったという滑稽噺です。

「愛を積むひと」は、きっと良質な作品には違いないとは思いますが、たとえドラマにすぎないとしても、死者の傲慢というか、人の人生に身勝手に立ち入る「お節介」さには、耐え難いものがあります。

以前、「ニライカナイからの手紙」(2005、熊澤尚人)を見たときに感じたことですが(以前、このブログに書きました)、早世する母が、娘を気遣って、自分の死を知らせずに、まるで生きているかのように成人するまで誕生日に手紙を送り続け、娘を励ました行為に疑問を抱いたのは、そんな歪んだかたちで「母の死」を隠されたこと自体を娘はどのように感じたか、という疑問でした。

たとえ遺された娘が、「母の死」を知らされたとしても、一時は悲しみ、苦しんで、しかし、それに耐え、跳ね返す力を持つことが、「生きること」なのではないか、と思ったからでした。こんなことは、社会一般のごく常識なことにすぎません。

家中で自分だけが知らされていないことがある、しかもそれが「母の死」だとすれば、その歪んだ関係は、すこぶる異常だと言わざるを得ません。

(2016イタリア)監督・ジュゼッペ・トルナトーレ、製作・イザベラ・コクッツァ、アルトゥーロ・パーリャ、脚本・ジュゼッペ・トルナトーレ、撮影・ファビオ・ザマリオン、美術マウリッツォ・サバティーニ、衣装デザイン・ジェンマ・マスカーニ、編集・マッシモ・クアリア、音楽・エンニオ・モリコーネ、プロダクション・デザイン・マウリツィオ・サバティーニ
出演・ジェレミー・アイアンズ(エド・フォーラム)、オルガ・キュリレンコ(エイミー・ライアン)、ショーナ・マクドナルド(ヴィクトリア)、パオロ・カラブレージ(オッタヴィオ)、アンナ・サヴァ(アンジェラ)、イリーナ・カラ(エイミーの母親)、



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# by sentence2307 | 2017-11-26 22:23 | 映画 | Comments(0)

ある日の原節子

ちょっと前の土曜日の昼過ぎに、借りていた本を返しに図書館に行ったときのことでした。

ここは図書館のほかに集会場や300席くらいのホールなど、それなりの施設が入っているものの、なにせ小さな市なので、さほど大きな建物ではありませんが、平日でも多くの市民が利用しているとても賑やかな場所です(他に適当な施設がないということもありますが)、図書館はその建物の1階部分を占めており、建物に入ってすぐの玄関ホールには市の広報紙やセミナーのパンフレットが置いてある場所があります。

毎年、確定申告の時期ともなれば、自分もここに「暮らしの税情報」(国税庁)を貰いに来たり、そのほか県の広報紙や市の広報をはじめ、NPO法人の地域のボランティア活動報告とか、認知症予防講座の参加募集とか、ウォーキングを兼ねた郷土史研究会のご案内だとか、高齢者のインフルエンザワクチンのお知らせのタグイだったりするので(いまのところは、幸いにして、そのどれにもお世話にならずに済んでいます)、それなりの時間つぶしにはなりますが、緊急の必要事でもなければ、わざわざここに立ち寄ることは滅多にありません。

いつもならさっさと通り過ぎてしまうその場所ですが、その日はなんだか、誰かに見られているようなヘンな視線を感じて(胸騒ぎとでもいうのでしょうか)、思わず足を止めてしまいました。

自分は、かなりの近視なので、少しでも距離があったりするとぼやけてよく見えないのですが、ある一枚のパンフレットに写っている女性が、行きかう人の足を思わず止めさせるほどの物凄い美形であることだけは、遠目にもはっきりと分かりました、これがまさに「オーラ」を発しているということなのだなと実感しました。

引き寄せられるように近づくと、その美人が、尋常でない美しさであることが、ますます、はっきりとしました。

ほら、よく言うじやないですか、ぱっと見、美人と思わせるための大きな要素として「柔らかな微笑」というようなものが必須だとか(七難隠す、みたいな)、そのパンフレットに掲載されている女性は、背後やや上方の肩越しの位置から撮られていて、振り向きざまになにかを真剣に凝視しているその横顔には、その「柔らかな微笑」などというタグイの俗世的な固定観念に真っ向から挑むような・否定するような、容易に人を寄せ付けない毅然として固く厳しい、それでいて、それが「美しさ」を少しも損なってないという完璧な表情です。

これが、足を止めさせるほどの「オーラ」の意味だったみたいです。

いわば「いやん、ばかん」ではなく、「何なさるんですか!!」みたいな。

よく分かりませんが。

まあ、このセリフがどのようなシチュエーションのもとで発せられる種類のものであるかは、ご妄想(ご想像だろ)にお任せしますが、いやはや「処女性」ということで、つい連想が暴走してしまいました。

さっそく、そのパンフレットを手に取ると、それは「原節子選集」(特集・逝ける映画人を偲んで 2015-2016)というフィルムセンターの宣伝チラシであることが分かりました、そこに写っていたのが、今まで見たこともないような美しい原節子です。いやいや、この言い方は少しおかしいか。

原節子が美しいのは、いまさら始まったことではないので、ここは「美しい原節子の今まで見たことのない写真」というべきでした。
裏返してみると、最下端右隅に小さな活字で「表紙・わが青春に悔いなし」と記されています。それなら自分が見てないわけがないじゃないか。自慢じゃありませんが、「わが青春に悔いなし」なら両の手の指をすべて折ってもまだ足りないくらいは見ていますし、このブログにもコラムを書いたことがあります。

しかし、こんなシーンあったかなと、パンフレットをひっくり返して、また原節子の写真をじっと見入りました。

艶やかな黒髪に縁どられたその凛とした表情には、「潔癖」という言葉が自然と思い浮かぶくらい微塵の隙も緩みもありません。

眉をきりりと引き締めた鋭い瞳には幾分の潤いがあって、それが緊張と感情の高ぶりを表していることは判然・分かるものの、それが悲しみのためなのか、それとも怒りとか不安のためのものなのかはともかく、迫りくる過酷な「時代」に立ち向かおうと身構えている緊張感の鬼気迫るものであることだけは確かです。

きっと、自分が、すでに本編を繰り返し見ていて「わが青春に悔いなし」という映画のストーリーを隅々まで知悉している(勝手にそう思い込んでいるだけかも)既知の記憶に沿って原節子の表情を当て嵌めようとしているだけなのかもしれませんが、しかし、いずれにしても、そんなあれこれの考えを巡らしたのは、結局のところ、しばらくの時間、じっとその美しい顔に見とれていたかったことの言い訳でしかなかっただけだったような気がします。

これ以上見つめていると、写真にキスでもしそうな勢いなので(ここは公共の場で傍目もあり、すでにほとんど「危ないおじさん」になっていると思います)そのパンフレットを2枚いただいて、あとでゆっくり鑑賞することにしました。

しかし、それにしても、やや横を向いてじっと彼女が見据えている先にあるものが、いったいなんなのか、すぐにでも知りたくなりました、さっそく家に帰って、我がライブラリーから「わが青春に悔いなし」を探し出し、このシーンを確認しようと思いました。

いやいや、実際に映画で確認するというのもいいのですが、その前に、この場面がストーリーのどのあたりのシーンなのか、見当をつけておくことも必要です、少しでも手掛かりを得ようと、道々、画像の隅々まで目を走らせて必死になって考えを巡らせました。

この写真からすると、きれいに撫でつけられている髪型から、生活感のない良家の子女という感じなので、ストーリー後半で描かれている村民の迫害と生活苦に疲れた「農婦」でないことは一目瞭然です。ならば、前半に描かれている自由奔放な「お嬢さん」風かといえば、その落ち着いた雰囲気とか黒地のスーツの隙のない着こなしから見ると、どうも付け回す特高に毅然として対峙する中盤の原節子だろうなという見当をつけました。

それに、彼女が美しい横顔を見せて座っている場所は、どうも池か川のほとりの野原という感じです。

これだけの情報をもとに、帰宅してすぐに「わが青春に悔いなし」を見るはずだったのですが、実は、あっ、結論から申し上げますと、我がライブラリーから、カノ「わが青春に悔いなし」を探し出すことに、結局、失敗しました。

というのは、その映画が「あったのか・なかったのか」よりも先に、手の付けられない未整理の混沌・テープの山のカオスから、目的のものを探し出すことなどとても不可能で、早々に断念せざるを得なかったというのが、最も相応しい説明ということができるかと考えています。

思い返せば、常日頃、自分にしてからが、たまたま山の頂上にあるテープを手に取って順番に見ているだけなので、「何かを見たい」などという大それた我欲に満ちた俗世の欲望というか煩悩などすでにして超越しているというか(せざるを得ない)境地に至っていることを早々に思い出すべきだったかもしれません。

なので、映画「わが青春に悔いなし」の「確かめ」は、ついに果たされなかったことを、遅ればせながらここにご報告する次第です。ならば、うだうだ言わずに最初からそう言えば良かったじゃん、とか言われてしまうやもしれませんが(「かもしれません」を多用したので、少し言い方を変えてみました)、今回見られなかったのは残念ですが、でも、自分のこの推理は間違いないと思うけどな。

もう一度見たい作品もあるので、フィルムセンターで11月9日から開催されている原節子特集の11本の上映作品を以下に記しておきますね、とにかく、ものすごく楽しみです。



【魂を投げろ】
原節子の出演第3作で、現存作品としては最も古い。オリジナルは65分のサウンド版だが、本篇途中部分のみが無声で残存している。甲子園を目指す旧制中学の野球部を描いた青春スポーツ映画で、原はエース投手の妹役。当時15歳ながら、その美貌が深い印象を残す。脚本の玉川映二はサトウハチローのペンネーム。プラネット映画資料図書館所蔵プリントからの複製。
(1935日活多摩川)監督・田口哲、原作・飛田穂洲、脚本・玉川映二、撮影・福田寅次郎、
出演・伊沢一郎、中村英雄、和歌浦小浪、原節子(女学生)、東勇路、大島屯、名取功男、正邦乙彦、松本秀太郎、
(26分・35mm・24fps・無声・白黒・部分) 1935.09.26 富士館 8巻 白黒 サウンド版


【生命の冠】
北海道の漁港を舞台に、米国輸出用の蟹缶詰を製造する会社のオーナー・有村恒太郎(岡譲二)の奮闘を描く。原節子は恒太郎の妹役。オリジナルは94分のトーキーだが、現存プリントは無声の短縮版。皮肉にも当時まだあった無声映画館のためにサイレントにした版だけが残った。ほとんど失われた作品のもっとも悲惨な例として戦前の日活作品がよく例にあげられるが、内田吐夢の日活多摩川時代の諸作品もあげられるほか、村田実、伊藤大輔、溝口健二、山中貞雄、伊丹万作、田坂具隆、稲垣浩、熊谷久虎、倉田文人、阿部豊などの日活時代の名作のほとんどが失われた。この作品について佐藤忠男は「千島は1936年の内田吐夢監督の『生命の冠』で蟹漁場の港や蟹缶詰工場のある漁場基地として描かれた。この戦前の北洋漁場は1953年の山村聰監督の『蟹工船』でも描かれた。日本映画における北辺、さいはての苛烈な労働の場というイメージである。」(日本映画史④81)と記している。マツダ映画社所蔵16mmインターネガからの複製である。
(1936日活多摩川)監督・内田吐夢、原作・山本有三、脚本・八木保太郎、撮影・横田達之、
出演・岡譲二(有村恒太郎)、滝花久子(妻昌子)、伊染四郎(弟欽次郎)、原節子(妹絢子)、見明凡太郎(片柳玄治)、伊沢一郎(北村英雄)、菊池良一(漁夫)、鈴木三右衛門(漁夫)、光一(漁夫)、長尾敏之助
(53分・35mm・24fps・無声・白黒)  1936.06.04 富士館 9巻 2,588m


【冬の宿】
豊田四郎得意の「文芸物」の一本。元松竹蒲田のスター・勝見庸太郎が、落ちぶれてもなお見栄を張る中年男の悲哀を全身で演じている。原節子は勝見演じる嘉門がほのかに想いを寄せる清楚なタイピスト役。他にムーラン・ルージュ新宿座の水町庸子も出演。脚本は、豊田四郎の重要な作品「若い人」「泣虫小僧」「鶯」などを書いた八田尚之で「第二次大戦に突入する直前の時期の不安に満ちた市井の世相風俗をユーモアと哀感と知性的な態度でさらりと描く作品に巧みさを見せ」、「この作品は当時、奇妙な性格異常者を描いた掴みどころのない作品のように受け取られて、野心作ではあるがおおむね失敗作というふうに受け取られていた。しかしいま見れば、このせっぱ詰まっていながら、そういう自分たち自身の状況を認識できず、ますます愚行を重ねていく彼らこそ、まさに日中戦争の翌年というこの映画の製作時の日本の無自覚的な混迷ぶりを象徴する人物のように見える。あとからつけた理屈であるかもしれないが、芸術家の直感が時代の本質をとらえているとは言えないか。・・・情緒に流れることを排した小倉金弥の撮影も素晴らしい。」(佐藤忠男)オリジナルは95分で現存プリントは5巻目が欠けている。
(1938東京発声)製作・重宗和伸、監督・豊田四郎、脚本・八田尚之、原作・阿部知二、撮影・小倉金弥、音楽・中川栄三、津川圭一、美術・進藤誠吾、録音・奥津武、照明・馬場春俊
出演・勝見庸太郎、水町庸子、原節子、北沢彪、林文夫、藤輪欣司、島絵美子、堀川浪之助
(84分・35mm・白黒・不完全) 1938.10.05 日比谷劇場 10巻 2,534m


【美はしき出發】
叔父からの仕送りで何不自由なく暮らしている北條幹子(水町)と3人の子供。だが叔父は破産し、彼らは自分の生き方の見直しを迫られる。原は画家になる夢を捨てきれない長女の役。一家のために奔走する次女を演じる高峰秀子との初共演が話題となった。ニュープリントによる上映。
(1939東宝東京)製作・武山政信、監督脚本・山本薩夫、脚本・永見柳二、撮影・宮島義勇、音楽・服部正、美術・戸塚正夫、録音・村山絢二、照明・佐藤快哉、
出演・原節子(北條都美子)、高峰秀子、月田一郎、水町庸子、三木利夫、清川荘司、嵯峨善兵、柳谷寛
(66分・35mm・白黒) 1939.02.21 日本劇場 8巻 1,808m


【東京の女性】
丹羽文雄の同名小説を映画化。生活能力のない父に代わって一家を支えるため、節子(原)は自動車会社のタイピストから“セールスマン”へと転身し、次々と成功を収める。能動的で溌剌とし、男性社会を脅かしさえする女性を演じた原は、当時の映画評で「東宝入社以来おそらく最も生彩のある演技」と高く評価された。ニュープリントによる上映。
(1939東宝東京)製作・竹井諒、監督・伏水修、脚本・松崎与志人、原作・丹羽文雄、撮影・唐沢弘光、音楽・服部良一、美術・安倍輝明、録音・下永尚、
出演・原節子(君塚節子)、立松晃、江波和子、水上怜子、藤輪欣司、水町庸子、水上怜子、外松良一、鳥羽陽之助、深見泰三、如月寛多、若原雅夫
(82分・35mm・白黒) 1939.10.31 日本劇場 9巻 2,281m


【青春の氣流】
新鋭旅客機を設計した若き技師・伊丹(大日方)が、その製造実現に向け突き進む姿を、喫茶店で偶然出会った女性(山根)との恋愛を絡めつつ描くメロドラマ。社内で伊丹を支持する進歩派の専務(進藤)の令嬢に原が扮し、伊丹と添い遂げようと積極的にアプローチする姿が目を引く。ニュープリントによる上映。
(1942東宝)製作・松崎啓次、代田謙二、演出・伏水修、脚色・黒澤明、原作・南川潤「愛情建設」「生活の設計」、撮影・伊藤武夫、音楽・服部良一、美術・松山崇、録音・宮崎正信、照明・横井総一
出演・出演・大日方伝(伊丹径吉)、山根寿子(馬淵美保)、英百合子(その母)、中村彰(その弟章)、進藤英太郎(由定専務)、原節子(その娘槙子)、清川玉枝(その叔母)、清川荘司(竹内専務)、真木順(橋本設計部長)、藤田進(村上)、矢口陽子(喫茶店の女の子)、御舟京子[加藤治子](喫茶店の女の子)、永岡志津子(喫茶店の女の子)、
(87分・35mm・白黒) 1942.02.04 東宝系 10巻 2,389m


【緑の大地】
中国・青島に長期ロケを敢行した国策映画。運河建設をめぐり、日本人技師(藤田)やその妻(原)、女教師(入江)、悪徳商人(嵯峨)、反対派の中国青年(池部)たちが衝突するさまを描く。原は、女教師が夫の初恋相手であると知り、友情と嫉妬の間で揺れる妻の役を演じる。
(1942東宝)製作・田村道美、演出原作・島津保次郎、製作主任・関川秀雄、脚色・山形雄策、撮影・三村明、音楽・早坂文雄、演奏・東宝映画管弦楽団、美術・戸塚正夫、録音・下永尚、照明・平岡岩治、編集・長沢嘉樹、現像・西川悦二、後援・青島日華映画製作委員会、
出演・入江たか子(井沢園子)、丸山定夫(伯父井沢尚平)、藤間房子(母みね)、英百合子(尚平の妻すみ)、里見藍子(娘歌子)、江川宇礼雄(園子の弟幸造)、千葉早智子(呉女子)、藤田進(上野洋一)、原節子(妻初枝)、汐見洋(楊鴻源)、林千歳(楊劉子)、池部良(楊克明)、斎藤英雄(克明の友朱)、進藤英太郎(堺)、高堂国典(尹)、草鹿多美子(鄭秀蘭)、清川玉枝(南夫人)、沢村貞子(張嘉雲)、嵯峨善兵(宮川信成)、真木順(建設局長)、小島洋々(劉校長)、恩田清二郎(副校長)、鬼頭善一郎(取引所理事)、坂内永三郎(取引所理事)、大崎時一郎(宮川の友人)、松井良輔(木谷理事)、佐山亮(救済院長)、
(118分・16mm・白黒) 1942.04.01 紅系 12巻 3,217m


【母の地圖】
没落した旧家の母と子供たちが、東京で新たな生活を始める。しかし、長男(三津田)は満洲で一旗あげると飛び出し、次男(大日方)は出征してしまう。三女の桐江(原)ら女性だけが残され、一家の生活は逼迫していく…。植草圭之助の映画脚本第1作で、ヒロインの原節子も植草の指定によるものだった。文学座の俳優陣の手堅い演技が脇を固めた。
(1942東宝)演出・島津保次郎、演出助手・杉江敏男、脚本・植草圭之助、潤色・島津保次郎、撮影・中井朝一、音楽・早坂文雄、美術・戸塚正夫、録音・下永尚、照明・平岡岩治、編集・長沢嘉樹、現像・西川悦二、
出演・杉村春子(岸幾里野)、三津田健(長男平吾)、一の宮敦子(妻直子)、大日方伝(次男沙河雄)、千葉早智子(長女槙江)、花井蘭子(次女椙江)、原節子(三女桐江)、徳川夢声(舘岡一成)、東山千栄子(一成の妻)、丸山定夫(与田専務)、英百合子(与田の妻)、斎藤英雄(与田隆三)、中村伸郎(筧英雄)、森雅之(北野二郎)、若原春江(タイピスト)、立花潤子(タイピスト)、進藤英太郎(紳士)、嵯峨善兵(課長)、龍岡晋(課長)、深見泰三(村長)、横山運平(伊作老人)、
(102分・16mm・白黒) 1942.09.03 紅系 11巻 2,825m


【怒りの海】
ワシントン軍縮会議によって決定された主力艦保有数の制限を、米英による陰謀と強調した時局映画の一本だが、一方では「軍艦の父」と呼ばれ巡洋艦の開発に死力を注いだ平賀譲中将を描いた伝記映画で日本海防思想の発展を説いた。原節子は父である中将(大河内)の健康を気づかう娘の役。本作は、内閣情報局より、「国策遂行上啓発宣伝に資する」として国民映画選定作品に指定された。この年、ほかに選定作品に指定されたものに「勝鬨音頭」「決戦」「不沈艦撃沈」「水兵さん」「三太郎頑張る」「君こそ次の荒鷲だ」「あの旗を撃て」「加藤隼戦闘隊」「一番美しく」「命の港」「敵は幾万ありとても」「雷撃隊出動」「剣風練兵館」「菊池千本槍」「雛鷲の母」「肉弾挺身隊」「かくて神風は吹く」がある。ニュープリントによる上映。
(1944東宝)製作・佐々木能理男、藤本真澄、監督・今井正、脚本・八木沢武孝、山形雄策、撮影・小倉金弥、音楽・山田和男、美術・平川透徹、録音・安恵重遠、照明・平岡岩治、特殊技術・円谷英二
出演・大河内伝次郎、原節子(平賀光子)、月田一郎、河津清三郎、山根寿子、黒川弥太郎、村田知英子、志村喬、
(89分・35mm・白黒) 1944.05.25 白系 9巻 2,435m


【北の三人】
原、山根寿子、高峰秀子らスター女優が、女性通信兵として北方の航空基地で活躍する姿を描いた時局映画。戦争も末期を迎え、「銃後の守り」を主としていた映画の中の女性像も、戦地で積極的に活動するものへと変わっていた。1945年8月5日に封切られた戦中最後の劇映画。残存フィルムは不完全(オリジナルは72分)。
(1945東宝)製作・田中友幸、監督・佐伯清、脚本・山形雄策、撮影・中井朝一、美術・平川透徹、音楽・早坂文雄、特殊技術・円谷英二、
出演・原節子(上野すみ子)、高峰秀子、山根壽子、藤田進、河野秋武、佐分利信、志村喬、田中春男、淺田健三、光一、小森敏、羽鳥敏子
(41分・35mm・白黒・部分) 1945.08.05 白系 8巻 1,972m オリジナル72分


【わが青春に悔なし】
占領軍の民主化政策に沿って、戦前の京大滝川事件とゾルゲ事件を題材にして製作された民主主義啓蒙映画。学生運動弾圧の犠牲となって獄死した愛人・野毛(藤田進)の遺志を継いで社会意識にめざめるブルジョア令嬢(原節子)の革新的な熱情を描く黒澤明の戦後第一作。令嬢が愛人だった貧農学生の母を訪れて、みずから百姓生活に飛び込みスパイの汚名を受けながら陰湿な迫害の下で泥まみれになって働くという強烈な女性像は、戦争直後、民主化の機運の高まりに高揚していた当時の青年たちに多大な感銘を与えた。
(1946東宝)製作責任・竹井諒、製作・松崎啓次、監督・黒澤明、演出補助・堀川弘通、脚本・久板栄二郎、撮影・中井朝一、音楽・服部正、美術・北川恵笥、録音・鈴木勇、音響効果・三縄一郎、照明・石井長四郎、編集・後藤敏男、現像・東宝フィルム・ラボトリー
出演・原節子(八木原幸枝)、藤田進(野毛隆吉)、大河内伝次郎(八木原教授)、杉村春子(野毛の母)、三好栄子(八木原夫人)、河野秋武(糸川)、高堂国典(野毛の父)、志村喬(毒いちご)、深見泰三(文部大臣)、清水将夫(筥崎教授)、田中春男(学生)、光一(刑事)、岬洋二(刑事)、原緋紗子(糸川の母)、武村新(検事)、河崎堅男(小使)、藤間房子(老婆)、谷間小百合(令嬢)、河野糸子(令嬢)、中北千枝子(令嬢)、千葉一郎(学生)、米倉勇(学生)、高木昇(学生)、佐野宏(学生)、
(110分・35mm・白黒) 1946.10.29 12巻 3,024m



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# by sentence2307 | 2017-11-12 09:05 | 映画 | Comments(0)

オーバー・フェンス

先日、社員食堂でひとりランチをとっていたら、背中合わせに座っていた若い4人の女子社員たちが、にぎやかに映画の話で盛り上がっていたので、思わず耳を傾けてしまいました。

話しているその映画というのは、どうも山下敦弘監督作品「オーバー・フェンス」らしいことが、彼女たちの会話の内容からすぐに分かりました。

最近自分もwowowでこの作品を見たばかりだったので、なおさら興味を惹かれました。

いつもランチなど5分もあれば十分というくらいの早食いが身上の自分ですが、彼女たちのこの面白そうな話を聞くために、当然ここはゆっくりとした咀嚼にギアチェンジした次第です。

彼女たちの会話を盗み聞きながら、その内容のまえに、「へぇ~」と思ったのは、その4人が4人とも、このやたらに地味でシリアスな作品「オーバー・フェンス」を皆が実際に見ているらしいということがだんだん分かってきたので、ちょっと意外な感じを持ちました。

この作品は、どう考えても女性客に魅力を感じさせるような内容の映画とは、到底思えません。

なにしろ、重厚で暗く悲壮感にみちた原作です、どのように味付けしてみたところで、その根にあるのは「生きよう」という意欲を失った悲観と絶望に満ちた、いわば「死」に魅入られた失意の視点から描かれた、あまりにも弱々しすぎる佐藤泰志の作品です。

生きる意欲に満たされた「繊細さ」ならともかく、悲観と絶望に満たされた「繊細さ」など、いささかたりとも理解したいとは思いません。

仮に、なんらかの希望をほのめかしたラストシーン(この実作品もそうかもしれません)を付け足そうとも、そこに描き出される風景は、結局のところ、すでに死を決している者・これから死していこうとしている自殺予定者の見る捨て鉢で投げやりな荒廃した死の風景に変わりなく、正直、自分など見ていて胸苦しくなるばかりで、まともに対峙などしたくない、ギスギスした世界が描かれているばかりで、できれば敬遠・遠慮したいというのが正直な気持ちですが、だからなおさら、こういう作品を若い女性があえて見ようとしたことがなんとも意外でした、きっと、それもこれも主演のオダギリジョーという役者の集客力のタマモノなんだろうなと感じました。

ひとりの女性が、友だちに盛んに疑問を投げかけています、それは、映画の中でたびたび唐突に演じられる聡(蒼井優)の「鳥の求愛」の所作の意味が、さっぱり分からないと話しているのでした、「あれって、なんなん?」。

なるほど、なるほど、たびたび挿入される聡の「鳥の求愛」みたいな奇妙な踊りには、自分も引っかかるものがありましたが、むしろシラけが先に来て、いちいち考えるのもなんか億劫で面倒くさくて、あえて意識的に見過ごしたのですが、それだけに彼女の素朴な疑問に虚を突かれたような感じを受けました、迂闊です。

それにしても、この女性、実にいいところをついていると思いました。

こういう「素朴な疑問」こそ見過ごしにせずに、しっかりと向き合うという姿勢が、とても大事なんですよね。

彼女、たぶん、これがなにかの象徴らしいとは感じているのですが、なんの象徴なのかが分からないので、なおさら、その意味を知りたがっているのだと思います。

真向かいに座っていた女性が、「ああして彼女、いつも誰かを求めていたんじゃない? つまり、求愛のサインとか」と返すと、別の女性が、「でも、どう見ても『求愛』じゃないところでも、彼女、踊っていたわ」「うん、あった、あった、酔った店の客にもね」と、話はどんどんヒートアップしています。

そういえば、白岩(オダギリジョー)が、はじめて聡を見かけた場面、路上で妻帯者らしき男となにやら揉めていて、男をなじり、苛立ちをあらわにしながら鳥の動作で奇声(鳥の鳴き声だと思います)を発して男の周囲を踊り廻っていたという場面は、少なくとも「求愛」ではなかったと思いますが、しかし、別の場面では、知り合ったばかりの白岩に「鳥の求愛はどんなふうにするの?」と問われ、突如スーパーの駐車場で踊り始め、しかし、踊りながらだんだん気分を害した聡が憮然として立ち去ってしまうという場面には、彼女が本心からではない形ばかりの踊りを踊ることでその「空疎感」に堪えきれなくなって(好意を抱き始めた白岩の前だからこそ)苛立ちのあまり立ち去ったのだと考えれば、逆に、その裏には、踊る真の目的を貶められ汚され、そのことを理解できない白岩に彼女が憤ったと考えるのが順当なのかもしれません。

たぶん、この映画でもっとも重要な場面は、聡にキャバクラへの同伴出勤を依頼された夜、白岩がカウンターで飲んでいるところに、同じ職業訓練校に通っている訓練生・代島(松田翔太)が不意にあらわれ、そこに白岩を見止めてちょっと驚き、さらに自分のキープしているボトルを白岩が飲んでいるのにも気が付きます、その不審顔の代島のもとにすぐに聡が駆け寄って弁解するという、3人が揃うこの場面に、この映画のすべてのエッセンスが集約されているのだと感じました。

代島は、白岩に、聡と本気で付き合っているのかと問いつめます、傍らで聡は、水割りを作りながら、代島の話を聞いて終始ヘラヘラとニヤついているという場面です。

その場面をちょっと再録してみますね。

「白岩さん、この女と本気で付き合ってるんすか。本気じゃないですよね。こいつはただのヤリマンっすよ。」

「ちょっと、やめてよ」

「お前が、やめろや。白岩さんは、真面目なんだからよ。お前に、嵌まってっけよ」

「嵌まってるの?」

「白岩さん、この女はマジでそういう女じゃないんすよ。俺がやったときなんか、あれ、クスリかなんかで決まってた? 外でやってんのに声出してたべ。やばかったんですよ。白岩さん純粋だから、そういう女だって分かんねえんだよなあ。こういう商売、向いてないかもしんないですね。ああ、他に誰かいねえかな。学校の奴らにろくなのいねえからな。」

聡は、卑屈とも見えるニヤニヤ笑いを崩すことなく、カウンターの奥に音楽をかけてくれと声を掛けてその場を立ち去り、店の奥で流れる曲に乗って激しく踊り始めます、きっと、いつもそうするように。

その聡の踊る姿を見ながら、さらに代島は白岩に話し続けます。

「頭おかしいんですよ、あいつ。白岩さん、女で失敗するタイプだから、気を付けたほうがいいっすよ」

聡の踊る姿をじっと見つめながら、その話を聞いていた白岩は、代島に答えます。

「心配ないよ。俺、なくすものなんか、なんにもないから」

そう答えて白岩は立ち上がり、聡が引く架空の引き綱に引き寄せられるように彼女に近づいて、そして不意に彼女の細い体を深く抱き締めます、社会からはじき出され、裏切り傷つけられ続け、ついに行き場を失った男と女が、もう二度と傷つけられまいと身構えた疑心暗鬼のすえの、薄汚れた場末の飲み屋で始めて心かよわせることができた痛切な場面なのだなと気が付きました。

あの終始保っていた聡の卑屈ともいえるニヤニヤ笑いは、この社会で二度と傷つくまいとする、負け犬なりの「武装」だったのに違いありません。

そしてそれなら、あのとき、職員食堂で女子社員たちが疑問として語り合っていた「求愛の踊り」にしても、かつて傷つけられた者が、他人とまともには接したくないという必死の「武装」だったのかもしれないと思えてきました。


(2016)監督・山下敦弘、原作・佐藤泰志、脚本・高田亮、撮影・近藤龍人、製作・永田守、製作統括・小玉滋彦、余田光隆、エグゼクティブプロデューサー・麻生英輔、企画・菅原和博、プロデューサー・星野秀樹、アソシエイトプロデューサー・吉岡宏城、佐治幸宏、米窪信弥、キャスティングディレクター・元川益暢、ラインプロデューサー、野村邦彦、撮影・近藤龍人、照明・藤井勇、録音・吉田憲義、美術・井上心平、編集・今井大介、音楽・田中拓人、
出演・オダギリジョー(白岩義男)、蒼井優(田村聡)、松田翔太(代島和久)、北村有起哉(原浩一郎)、満島真之介(森由人)、松澤匠(島田晃)、鈴木常吉(勝間田憲一)、優香(尾形洋子)、塚本晋也(義男の元義父(声))、



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# by sentence2307 | 2017-11-03 16:14 | 映画 | Comments(0)

バナナの数え方

新聞を読んでいて、その時の自分の気持ちにピタリとくる一文に出会ったりすると、破棄できず、そのまま捨てずに保存してしまうのですが(だからといって特別にどうするということもしていません)、結果的に新聞がまたたく間に溜まり続けてしまいます。

そこで、その処理方法(断捨離です)について考えてみました。

つまり、捨てられないというのは、その記事だけのことではなくて、それを読んだ時に感応した自分の気持ちもあって、そのまま「捨てる」ということができないわけですから、就寝前のほんの数分間を利用して、チェックした部分を片っ端からパソコンに打ち込んでみたらどうか・そして、それを読んだときに感じた自分の気持ちというのもそこに付け足すようにすれば自分の気が済むのではないかと考えてみました。

そこでアットランダムに選んだ最初の一枚、これは日経新聞の読書欄(2017.9.23朝刊)に掲載されていた、政治学者・宇野重規の書いた定期記事「半歩遅れの読書術」のなかの「『ふたつの世界』生きた人・失われたものの懐かしさ」と題された記事です、故須賀敦子を回顧したエッセイの冒頭部分ですが、ちょっと転記してみますね。

《本を読む人の話を聞くのが好きだ。もちろん、本は自分で読むものだが、本について語る人の話に耳を傾けるのは、また、別の喜びがある。あの本をこんな風に読むのか、そんな素敵な本があるのか。本はそれ自体に滋味があるだけでなく、本を読むことがまた別の世界を形作る。》

実にいい文章だと思いました、自分など、「読んだ本について語るのが好きだ」という自分の立場ばかりに固執し、いつの間にか人の話に耳を傾ける喜びも謙虚さも失っていたのかと思うと、なんだか耳が痛く、気恥ずかしさで顔が赤らみ、いままで書き散らしてきた雑文を改めて読み返すのも怖くなってきたくらいです。

しかし、考えてみると、身勝手で独善的くらいでないと、何かを書いて人目にさらすなどという大それたことなど、ただ恐ろしく、とてもできるものではないとも思うのですが、この一文は、そこに、「人の話を聞くという喜び」を付け加えていることで、「身勝手で独善的」という部分を和らげることができるだろうし、また、そういう部分を失ってしまったら、たかが「書く」などという行為に、なにほどの意味があるのか、しかも、そんなふうに孤立した「持続」など、ただの空しい「暴走」でしかないし、それで自分の感動を誰かに伝えようなど、チャンチャラおかしな話で、はなから望むべくもないことなのだと思い知らされました。

たぶん、これって、なにについても言えるわけで、それが音楽でもいいだろうし、もちろん映画を見たり芝居を見たりして、その感動を誰かに伝えるということに通ずるのかもしれませんよね。

つづく一枚は、同じく日経新聞の夕刊(2017.9.21)の定期コラム「プロムナード」に掲載されていた森山真生の「素直な感性」という記事です。

筆者は、時折、頼まれて小学生低学年に数学の授業をしているのだそうですが、この年齢の子供たちの素直な感性にいつも驚かされると書き出して、あるエピソードを紹介しています。

引用してみますね。

《小学校から帰ってきた子供が母に、「ねえお母さん、今日学校で足し算を教わったよ! リンゴ2つとリンゴ3つを足すとリンゴ5つ。ミカン1つとミカン3つはミカン4つ」。得意気にそう言う彼に、母は「偉いわねえ。じゃあバナナ2つとバナナ3つを足すといくつ?」と聞いた。すると、子供は困った顔で「バナナはまだ教わってない」と答えたというのだ。
1万年以上前の古代メソポタミアでは、羊を数えるために羊のための、油の量を数えるためには油専用の「トークン」という道具が使われていたという。リンゴも、ミカンも、羊もバナナも、みな同じ記号で数えられるという認識に至るまでには、何千年にもわたる試行錯誤の歴史があった。「バナナはまだ教わってない」とうつむく子供は案外、知識に染まる前の人間の素直な感性を代弁しているのかもしれない。》

まだまだ読まなければならない新聞の山を前に呆然としながらも、なんだかとても不思議な気持ちに捉われました



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# by sentence2307 | 2017-10-22 08:32 | 徒然草 | Comments(0)
この作品を見る前も、そして見た後も、やはり原題の「Assassination(暗殺)」では、作品の全容を伝えるタイトルとしては、なんだか相応しくないのではないかという思いにずっと捉われていました、

この映画が描いているものを「暗殺」と言い切ってしまったら、なんだか元も子もないような気がしたのです、この映画が描いているものは、社会から疎外された孤独な青年がずっと抱いてきた夢としての偶像(義賊ジェシー・ジェームズ)をただ汚すものでしかない現実に存在する卑小な者(びくびくと追手から逃げ回る無様で小心な犯罪者)を否定する行為として、あの殺害があったわけですから、ここは無理な直訳に捉われず、ずばり「否定」でもよかったと思うし、具体的に「殺害」としてもよかったのではないかと思ったのです。

いままでだって映画のタイトルをつけるうえで「直訳」に拘ったり囚われたりしたことなんて、ただの一度もなかったじゃないかという思いも当然ありました。

なにせ、アメリカから遥か遠く隔たっている極東の、肌が真っ黄色な東洋人からすると、「暗殺」ときたら、そりゃどうしてもリンカーンやケネディを思い描いてしまうわけで、地政学的ギャップから逃れられないという悲しい現実もあり、その思考の東洋的限界が、「暗殺」などという大そうな政治的なタイトルになじめず、極端に言えば拒否したい(いまでも、ですが)気持ちになったのだと思います。

追われる犯罪者ジェシー・ジェームズの疑心暗鬼をブラッド・ピットが暗く重厚に演じ、その「偉大な」犯罪者の疑心暗鬼に、まるで炙られ追い立てられるようにして、「義賊・ジェシー・ジェームズ」への失意を殺意にまで変質させる暗殺者ロバート・フォード(ケイシー・アフレックの名演が光ります)の苛立ちと深い孤独を繊細に描いたこの死の影に覆われた物語が、そのまま当時のアメリカの国情・「時代の苛立ち」を反映したものでもあったことがよく分かりました。

この物語の背景には、北軍に敗れた南部の鬱積と憎悪のはけ口として、南北戦争に参加した犯罪者ジェシー・ジェイムズを、まるで鼠小僧のように崇拝し、「義賊」としてイメージすることで、当時の沈滞の中にあった南部の救いとして社会的な必要性から生み出された妄想だったとすれば、たとえそれが仮に「ジェシー・ジェイムズ」でなかったとしても、ほかの誰かでもよかったのだというその「空虚」を、この作品「ジェシー・ジェームズの暗殺」は精密に描きだしているのだと思いました。

深い劣等感のなかで社会から疎外され傷ついた孤独な青年が、唯一の心の支えとして仰ぎ見た「義賊ジェシー・ジェームズ」が、追手から逃げ回る小心な疑心暗鬼に囚われている臆病者にすぎないことの失意と失望が、やがて「射殺」という否定にまで高揚していく孤独な復讐の物語として見れば、やはりこの映画のタイトルは、「ジェシー・ジェームズの暗殺」などではなく、理念をも込めて「落ちた偶像」的なものにすべきだったのではないかと考えた次第です。

こんなふうに自分としては、この作品に深く思い入れ、また、感動もしたのですが、しかし、この作品に対する感想の多くが、まずはどれも「長い割には、とても退屈だった」という前置きから始められていることを知り、とても驚き、そして愕然としました。

しかし、この「愕然」は、なんだか以前にも似た経験をした思いがあったので、ちょっと考えてみて、そしてすぐに思い出しました。

テレンス・マリック監督の衝撃作「ツリー・オブ・ライフ」2011です、きっと同じブラッド・ピットが主演した重厚な演技に通い合うものがあって、すぐに連想することができたのだと思いますが、あのときも、多くの人の意見は「なんだ、こりゃ」みたい感想が多かったと記憶しています。

もちろん、この「なんだ、こりゃ」は、そのままこの作品に「ドン引き」した観客の辛辣な評価と惨憺たる反応に直結したわけですが。

「ツリー・オブ・ライフ」の評判がすこぶる悪かった理由のひとつには、善良な好人物しか演じてこなかったあのブラッド・ピットに、親に逆らう子供に逆ギレして子供を殴りつけ徹底的に痛みつけるという暴力的で横暴な父親を演じさせ、作品を鑑賞する以前に、その異常さが多くのファンをげんなり(嫌悪です)させて最初から拒絶の姿勢を誘発させてしまったからに違いありません。

子供への暴力描写は、自分をも含めて、多くの鑑賞者を居たたまれない思いにさせ、その拒否反応は、作品そのもの・トラウマを抱えた子供たちが煩悶し、自殺の衝動を超えながら成長し、やがて再生をはたすという、映画の内実を鑑賞させることもなく、物語の核心に至る以前に、観客の気持ちを閉ざさせてしまったことにあるからかもしれません。

この「子供への暴力」の場面は、「ジェシー・ジェームズの暗殺」にもありました。

疑心暗鬼になったジェシー・ジェームズが、裏切り雲隠れした男を追って、父親の行方を否定するその息子(少年です)に、感情を失ったような冷ややかさで、仲間が止めるのも聞かずに執拗に何度も殴りつけ痛みつける場面です。

狂気にでも囚われていないかぎり、そんな惨いことは、とてもできるものではないという演出の思いが込められた場面なのは分かりますが、見る側としてはその現象自体に堪えられないものがありますし、ブラッド・ピットが二度までもこの「親からの暴力」に執拗にこだわるのは、もしかしたらここに、ブラッド・ピット自身のトラウマがあって、彼の「なんらかの訴え」が込められているのではないか、などと勘ぐってしまうし、それがどのようなものであれ、それ自体の重さが鬱陶しく感じてしまったくらいでした。

しかし、いわば、ここまでは、この作品に感動した表向きの「公式的な」感想です。

実は、自分の感激した部分は別にありました、この映画の付録のように付け足された暗殺者フォード兄弟の後日談の部分です。

ロバートとチャーリー兄弟は、ジェシー・ジェームズを射殺した顛末を芝居に仕立てて巡業します。

いまから見れば、そのグロテスクさは相当なものがあるのですが、娯楽の乏しかった当時とすれば、巡業芝居のなかでも多くを占めた「きわもの芝居」のひとつだったかもしれませんが、事件の当事者が演じるというその異色さで、客を呼びこむ話題性としては、とびぬけたものがあったのだろうと思います。

しかし、実際は、映画の中でも描かれているとおり、客の反応としては、世評そのままの、どこまでも「義賊」を後ろから射殺した「卑怯者」という非難の込もった関心以上のものではありませんでした。

兄弟は、観客のその冷ややかな視線に常に晒され、非難に徐々に追い詰められ、兄チャーリーは自らの銃で脳髄を撃ち抜き、ロバートも市民のひとりに撃ち殺されます。

せめてもの救いは、かつて自分が背中を撃ち抜いて殺したジェシー・ジェームズと違い、正面から撃たれたことで、少なくとも自分が殺される瞬間をその目で確認することができたくらいの差しかありませんでしたが。

この「事件の当事者が、その事件を芝居仕立てにして巡業した」というクダリに大変興味を持ちました。

いやいや、そもそも芝居の成り立ちとは、多かれ少なかれ、そうしたキワモノから成り立っているのではないかという思いを強く持ちました。

そして、このような芝居なら、日本にもあったのではないかと、ちょっと調べてみたくなりました。

しかし、どのように調べ始めたらいいのか、その取っ掛かりが掴めません。

あれこれ思い悩んだすえに、思いついたのは、中川信夫の「毒婦高橋お伝」でした、あの映画の最後は、どうだっただろうか、

あの阿部定だって、劇団を組織して、自分の関わった「あの事件」を芝居にして地方を巡業したなんてこともちょっと聞いたことがあるような気もしてきました。

そこで手始めにwikiで「高橋お伝」を検索してみました。

そして、すぐに自分の見込みが、甘すぎたことを痛感させられました。

まず、こんなクダリがありました。

「(高橋お伝の)処刑の翌日から「仮名読新聞」「有喜世新聞」などの小新聞が一斉にお伝の記事を「仏説にいふ因果応報母が密夫の罪(「仮名読」)」、「四方の民うるほひまさる徳川(「有喜世新聞」)」といった戯作調の書き出しで掲載した。読売の自演により、口説き歌として流行した。これが後の「毒婦物」の契機となる。明治14年(1881年)4月、お伝三回忌のおりに仮名垣魯文の世話で、谷中霊園にもお伝の墓が建立された(遺骨は納められていない)。」

そして「十二代目守田勘彌、五代目尾上菊五郎、初代市川左團次、三遊亭圓朝、三代目三遊亭圓生らがお伝の芝居を打って当たったのでその礼として寄付し建てたという。」くらいですので、こういう話を芝居がほっておくわけがないのは当然だったのです。

それに、映画としても、以下に掲げる作品がつくられているのですから、なにをかいわんやです。

『高橋お伝』(1912年 福宝堂)
『お伝地獄』前中後編(1925年、監督:野村芳亭、高橋お伝:柳さく子 松竹下加茂撮影所) 
『高橋お伝』前後篇(1926年、監督:山上紀夫、高橋お伝:五月信子 中央映画社)
『高橋お伝』(1929年、監督:丘虹二、高橋お伝:鈴木澄子 河合映画製作社)
『お伝地獄』(1935年、監督:石田民三、高橋お伝:鈴木澄子 新興キネマ京都撮影所)
『毒婦高橋お伝』(1958年、監督:中川信夫、高橋お伝:若杉嘉津子 新東宝)
『お伝地獄』(1960年、監督:木村恵吾、高橋お伝:京マチ子 大映東京撮影所)
『明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史』(1969年、監督:石井輝男、高橋お伝:由美てる子 東映京都撮影所)
『毒婦お伝と首斬り浅』(1977年、監督:牧口雄二、高橋お伝:東てる美 東映京都撮影所)
『ザ・ウーマン』(1980年、監督:高林陽一、高橋お伝:佳那晃子 友映)
『紅夜夢』(1983年、監督:西村昭五郎、高橋お伝:親王塚貴子 にっかつ=アマチフィルム)


まあ、最初は、高橋お伝で思わしい結果が得られなければ、すぐさま「夜嵐おきぬ」にあたりをつけて、それでも駄目なら「鳥追お松」に立ち寄ってから、「花井お梅」まで行ってみようかななどと考えていたのですが、こうまでポピュラーな存在なら、あえて検索してみるまでもないかと、なんだか意欲も気力も失せました。

しかし、負け惜しみではありませんが、これって、どれも「本人」が演じたものってわけじゃありませんよね。

自分が当初目指したのは、「事件の当事者が、その事件を芝居仕立てにして巡業した」という事例検索なのですから、やっぱりこれとはちょっと違うわけで、と考えていた矢先、リアルタイムで読んでいた吉村昭の小説「赤い人」(講談社文庫)の末尾で、こんなクダリに遭遇しました。

少し長くなりますが、重要なので転記してみますね。

「樺戸集治監開設と同時に収容された五寸釘寅吉の異名を持つ西川寅吉は、空知監獄署でも7回の脱獄を企て、捕えられて網走監獄署に服役していた。かれは無期が3刑、有期徒刑15年が2刑、懲役7年、重禁錮3年11月それぞれ1刑の罪を課せられていた。
その後、かれは別人のように穏和な人物になり、同囚を親身になって世話し、看守にも礼儀正しく接し、読書を好んだ。その傾向は年を追って強まり、行状査定は良から最良に進み、賞を受けることもしばしばで、署内屈指の模範囚になった。
大正13年9月3日、72歳という高齢と悔悟の念が極めて強いことが認められ、異例ともいうべき仮釈放が彼に伝えられ、出獄した。それは新聞にも報道されたが、たちまち彼の周囲に興行師が群がった。そして、札幌に事務所を持つ新派連続劇を上演していた新声劇団大川一派の誘いを受けて参加した。
かれは、浪曲師のように布を垂らした机を前に、自らの一代記を述べる。その脚本は警察の保安課の許可を得たもので、犯罪予防の社会奉仕と唱われていた。
かれは、興行師から興行師に渡され、「五寸釘寅吉劇団」と称して東京の人形町喜扇亭、三ノ輪三友亭、八丁堀住吉をはじめ九州、台湾にも巡業し、武州鴻の巣で興行師に捨てられ、故郷の村に帰った。昭和10年、網走刑務所からの問い合わせに、村役場から、
「・・・現在ニ於テハ老衰シ労働不能ノ為、本籍自家ニ閑居シ温厚ナリ。而シテ本人ハ元ヨリ無産ニシテ辛ウジテ生活ヲナス」
と、回答が寄せられ、その後、老衰による死が伝えられた。」

ほらね、あったでしょ、自分が言いたかったのは、これなんですよ、これ!


(2007 WB)監督脚本・アンドリュー・ドミニク、原作・ロン・ハンセン、製作・ブラッド・ピット、デデ・ガードナー、リドリー・スコット、ジュールズ・ダリー、デヴィッド・ヴァルデス、トム・コックス、マーレイ・オード、ジョーディ・ランドール、製作総指揮・ブラッド・グレイ、トニー・スコット、リサ・エルジー、ベンジャミン・ワイスブレン、音楽・ニック・ケイヴ、ウォーレン・エリス、撮影・ロジャー・ディーキンス、編集・ディラン・ティチェナー、カーティス・クレイトン、衣装デザイン・パトリシア・ノリス、製作会社・ワーナー・ブラザース、プランBエンターテインメント、ジェシー・フィルムズ、スコット・フリー・プロダクションズ、アルバータ・フィルム・エンターテインメント、バーチャル・フィルムズ、原題: The Assassination of Jesse James by the Coward Robert Ford
出演・ブラッド・ピット(ジェシー・ジェームズ)、ケイシー・アフレック(ロバート(ボブ)・フォード)、サム・シェパード(フランク・ジェームズ)、メアリー=ルイーズ・パーカー(ジー・ジェームズ)、ジェレミー・レナー(ウッド・ハイト)、ポール・シュナイダー(ディック・リディル)ズーイ・デシャネル(ドロシー・エバンズ)、サム・ロックウェル(チャーリー・フォード)、ギャレット・ディラハント(エド・ミラー)、アリソン・エリオット(マーサ・ボルトン)、マイケル・パークス(ヘンリー・クレイグ)、テッド・レヴィン(ティンバーレイク保安官)、カイリン・シー(サラー・ハイト)、マイケル・コープマン(エドワード・オケリー)、ヒュー・ロス(ナレーション)、

第64回ヴェネツィア国際映画祭男優賞(ブラッド・ピット)
ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 (2007年)助演男優賞(ケイシー・アフレック)
全米批評家協会賞助演男優賞(ケイシー・アフレック)
サンフランシスコ映画批評家協会賞作品賞、助演男優賞(ケイシー・アフレック)
シカゴ映画批評家協会賞撮影賞(ロジャー・ディーキンス)
セントルイス映画批評家協会賞助演男優賞(ケイシー・アフレック)、撮影賞(ロジャー・ディーキンス)
第12回フロリダ映画批評家協会賞:撮影賞(ロジャー・ディーキンス)
ヒューストン映画批評家協会賞:撮影賞(ロジャー・ディーキンス)
第80回アカデミー賞助演男優賞(ケイシー・アフレック)
第80回アカデミー賞撮影賞候補(ロジャー・ディーキンス)


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# by sentence2307 | 2017-10-15 16:30 | 映画 | Comments(0)

哀愁

むかし、ある映画を見ていたときのことですが、その映画が相当につまらない作品だったらしく、すっかり集中力を欠いてしまい、傍らに置いてあった文庫本に手を延ばして、いつしか映画そっちのけでその本を夢中で読んでいました。

映画に「END」マークが出てからも、ビデオを停止する気さえ起きず、そのままテープを回転させていたら、突然、画面にジョン・フォード監督作品「怒りの葡萄」の、あの感動のラストシーンが映し出されたので、びっくりしたことがあります。

つまり、一本のテープに何度も映画を重ね録りしていた結果、上映時間の長い作品のラストシーンの部分だけが残った状態になっており、消去されなかったそのわずかな最後の場面が連続して(というのは、「怒りの葡萄」のほかに「道」と「哀愁」のラストシーンが続いて録画されていました)流れてきたというわけです。

それはまるで、感動のラストシーンばかりを集めたダイジェスト版を見ているような、ちょっとしたサプライズ体験でした。

いままで見ていた映画が印象の薄い「いまいち作品」でテンションが下がりまくっていただけに、なおさら印象を強くしたのかもしれません。

ちょうど、「ニュー・シネマ・パラダイス」のラストシーン・神父が風紀上よろしくない場面をカットした上映禁止の「キス・シーン」が立て続けに流れたあの感動の場面をじっと見つめている感じとダブルものがあったからでしょうか。

その「怒りの葡萄」、場面はジョード一家が、やっと自由で公平な国営キャンプに落ち着くことができて、さあこれから暮らしも安定すると思っていた矢先、真夜中に巡回している警官たちの密談を聞いてしまったトム(ヘンリー・フォンダ)が、身元を警察に嗅ぎつけられ明日にも逮捕されるかもしれないと知り(彼は前にいたキャンプ地で殺人を犯しています)、夜陰に乗じて逃げようとする直前の僅かな時間に、母親(ジェーン・ダーウェル)と濃密な言葉を交わす緊迫した別れのシーンです。


「トミー、黙って出ていくのかい」

「どうすべきか分からない。外へ出よう。警察が車のナンバーをチェックしていた。誰かにバレたんだ。でも心の準備はできているよ」

「座って」

「一緒にいたかったよ。住むところを見つけて、母さんに喜んで欲しかった。幸せな顔が見たかったけど、もう無理だ」

「お前ひとりくらい、かくまえるよ」

「殺人犯をかくまうと、母さんまで罪に問われる」

「わかったよ、これからどうする気なの」

「ずっと考えていた、ケーシーのことをね。彼が言ったことや、彼がしたこと、そして彼の死にざま、目に焼き付いている」

「いい人だったからね」

「俺たちのことも考えていた。豚のように生きる人間と眠っている豊かな土地、広大な地主の土地。10万の飢えた農民・民衆が団結して声を一つにすることができれば」

「そんなことしたらケーシーの二の舞だ」

「遅かれ早かれ、俺は捕まるよ、そのときまで・・・」

「えっ、トミー、誰かを殺すんじゃないだろうね」

「そんなつもりはないよ、だが俺は、いずれにせよ無法者さ。でも、こんな俺にもできることがあるはずだ。それを探し求めながら不正を正していきたいんだよ、自分でもまだはっきりとは分からないんだ、なにをすればいいのか。まだ力不足だからね」

「この先、どうなるのかしら。もし、お前が殺されても、母さんには分からないじゃないの」

「ケーシーがいつも言ってたよ。人間の魂は大きな魂の一部なんだとね。この大きな魂は皆につながっている。そして・・・」

「だから、何」

「たとえ暗闇の中であろうと、俺はいつでも母さんの見える所にいるよ。飢えている人が暴動を起こせば、俺はそこにいる。警察が仲間に暴行を加えていたら、そこにもいる。怒りで叫ぶ人の間にもいるさ。夕食が用意されて喜びに満ちた幸せな子供たちの所にも俺はいる。人が自分で育てた物を食べて、自分が建てた家で安らぐ時にも俺はそこにいるんだ」

「よく分からないわ」

「俺もだよ。でも、ずっと考えていたことさ。手を出して。元気でね、母さん」

「お前もね。ほとぼりがさめたら、また戻ってきてくれるだろうね」

「もちろんだとも」

「あまりキスなんか、したことないけど」

「じゃあ、母さん、行くね」

「元気でね。トミー、トミー」


何度でも繰り返して見てきた素晴らしい場面です。

これらのセリフを筆写しながら初めて気がついたことですが、このラストが僕たちに与えた高揚感は、決して「言葉の羅列」だけにあるのではなく、ヘンリー・フォンダの抑えた名演があったからだと今更ながら実感しました。


つづいてフェリーニの「道」のラストシーンが映し出されています、いまではすっかり老いたザンバーノ(アンソニー・クイン)が侘しい夜の海岸で泥酔し、悲しみの果てに寂しく死んだという捨てた女・ジェルソミーナの思い出に打ちのめされて、その失ったものの大きさと、神に見捨てられた絶望的な孤独の深さとに慄然として号泣する場面です。

おびただしい凡庸な作品に取り囲まれ、ほとんどが失望と嫌悪しか経験できないような繰り返しの毎日の中で、なぜ自分は相も変わらず映画を見続けようとしているのか、かつて自分を決定的な感動で映画に引き寄せた「感動と動機」の原点に生で触れる思いがして、改めて思いを新たにした素晴らしい体験でした。


そして、続いて映し出されたのが、マーヴィン・ルロイ監督の「哀愁」です。

実は、自分は、今でもこのラストシーンの部分だけはyou tubeで繰り返し見ています。

バレエの踊り子マイラ(ヴィヴィアン・リー)は、ウォータールー橋でロイ・クローニン大佐(ロバート・テイラー)と出会って恋に落ち、しかし、大佐はすぐに出征しなければならないために、慌ただしく結婚を約して、ふたりは別れます。

やがて、待ち続けるマイラの目に飛び込んできたのはクローニン大佐の戦死記事。

絶望し、生きる意欲も失い、「もう、どうでもいい」という虚脱と、そして生活苦から、マイラは娼婦となって夜の街頭に立ち始めます。

そんなある夜、駅の雑踏で適当な客を探すマイラの前に突然、戦地から戻ってきたクローニン大佐が現れます。「僕が帰ってくるのが、よく分かったね」と彼は微かに訝りながらも、喜びでたちまち掻き消されてしまうその「真の理由」が、後々に彼女の破滅・自殺の原因として暗示されている、なんとも痛切なラストシーンです。

どんな好色な相手の淫らな要求にも、いかようにも応じることができるしたたかな娼婦の、客を淫らに誘う薄笑いの表情が、クローニン大佐の突然の出現によって、一瞬にして清純だった「あの頃の乙女」に立ち戻るヴィヴィアン・リー生涯の名演技です、何度見ても見飽きることも色あせることもありません。

しかし、あの時、この突然の出会いがよほど嬉しかったにしろ、娼婦として客待ちしている人間が、あんなふうに突然豹変できるものだろうかという疑念に微かに捉われたことがありました。

自分の頭の中にはそのとき、卓越した日本の映画監督の幾つかの作品が交錯していたのかもしれません。

例えば、溝口健二演出なら、喜びのあまり駆け寄って抱擁するなんてことは、まずはあり得ません。

それでは、大佐と別れたあとで彼女が体験しなければならなかった過酷な過去を、すべて無視し・否定することになる、溝口健二のリアリズムにとっては到底考えられない理不尽な演出になってしまいます。

自分が娼婦にまで身を落とさなければならなかった原因のひとつは、荒廃した戦時下の社会にひ弱な女性が、なんの手当もされずに突如無一文でひとり放り出されたことにあります。

裕福らしく見える大佐なのですから、婚約した以上、もう少しどうにか生活に困らないだけの手当をしてあげることもできたのではないか、経済力を持たない踊り子にやがてどのような過酷な未来が待ち受けているか、少しも想像できなかったクローニン大佐の迂闊と無邪気さが、マイラの苦痛と堕落の因となったわけで、その意識をマイラもまた少しでも持っていたとしたら、まずは「憤り」をぶつけて掴みかかるくらいが当然で、溝口健二もそのように演出したに違いありません、少なくとも「喜びのあまり抱き着く」なんて演出は、まずはあり得ない・理不尽な行為と考えたはずです。

それなら、小津演出なら、どうだったか、駆け寄る大佐に冷笑を浴びせ、客として一夜を共にし、金を受け取ってウォータールー橋で別れさせたかもしれません。別れがたく後ろを何度も未練がましく振り返る男と、一度も振り返ることもなく毅然として立ち去る女、架空の小津作品を妄想しながら、これも違うなという思いもまた、意識のどこかにありました。

実は、自分の気持ちは、ずっと、成瀬巳喜男監督作品「驟雨」のラストシーンに占められていました。

妻(原節子)は、夫とデパートの屋上で待ち合わせますが、遠目から、夫が上司の夫婦と話している姿を見つけます。

華やかに着飾っている上司の妻に引き換え、自分のみすぼらしいナリを恥じて、妻は物怖じしながら物陰に身を隠すというシーンです。

それを思うと、娼婦として客を誘っていることの意識がマイラにあれば、その延長線上で考え得る行為は、「憤激」や「冷笑」よりも、むしろ「物陰に身を隠す」方が、なんだか最も相応しいように思えてきました。

あえてドラマを動かさずに、日常の揺れを繊細に撮り続けた成瀬監督が、果たして全編にわたるヴィヴィアン・リーのヒステリックな演技をどう抑え込むことができたかは、ちょっと想像することはできませんでしたが。


哀愁 (1940 MGM)
監督製作・マーヴィン・ルロイ、製作・シドニー・A・フランクリン、原作戯曲・ロバート・E・シャーウッド、脚本・S・N・バーマン、ハンス・ラモー、ジョージ・フローシェル、撮影・ジョセフ・ルッテンバーグ、美術・セドリック・ギボンズ、編集・ジョージ・ベームラー、挿入曲・別れのワルツ
出演・ヴィヴィアン・リー(マイラ・レスター)、ロバート・テイラー(ロイ・クローニン大佐) 、ルシル・ワトソン(マーガレット・クローニン) 、ヴァージニア・フィールド(キティ) 、マリア・オースペンスカヤ(オルガ・キロワ) 、C・オーブリー・スミス(公爵) 、ジャネット・ショー(モーリン)、レオ・G・キャロル、ジャネット・ウォルド(エルサ)、ステフィ・デューナ(リディア)、ヴァージニア・キャロル(シルヴィア)、レダ・ニコヴァ(マリック)、フローレンス・ベイカー(ビータース)、マージェリー・マニング(メアリー)、フランシス・マクナーリー(ヴァイオレット)、エレノア・スチュワート(クレイス)、



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# by sentence2307 | 2017-10-01 10:26 | 映画 | Comments(0)
半年に一度くらい、繰り返しなのですが、期間をおいて放送されているNHK制作の「映像の世紀」を楽しみに見ています。

このプログラムがまとめて放送されたのは相当以前のことで、その当時、放送を見ながらリアルタイムで録画もしていて、そのテープは大切に保存してあるのですが、ヒストリー・チャンネルなどで頻繁に放映されるので、録画したものを見るまでもなく、そのテープは、文字通り永久保存状態で御蔵入りになっています。

また、そういう放送を待つまでもなく、you tubeなどでいつでも手軽に見られるので、放送すら待つ必要がないというのが実態です。

そう簡単には見ることのできない相当貴重な歴史的映像であることを考えると、実に素晴らしい時代になったものだという狂喜や感心を通り越して、空恐ろしくなるばかりです。

放送された年月日だとか、その構成・内容などについて、どれも記憶が曖昧なので、さっそく「映像の世紀」と打ち込んでネット検索を試みました。

放送は、1995年3月から1996年2月にかけて、毎月第3土曜日にNHK総合テレビの「NHKスペシャル」で全11集にわたって放映されたと書かれていました。

へえ~、もうカレコレ20年以上も前の放送だったんですね、自分としては、CS放送やネットなどでたびたび接しているので、そんなに古い放送だなんて、なんだか実感がわきません。

検索の結果は以下の通りです。


第1集「20世紀の幕開け」カメラは歴史の断片をとらえ始めた 1995.3.25 放送
第2集「大量殺戮の完成」塹壕の兵士たちは凄まじい兵器の出現を見た 1995.4.15 放送
第3集「それはマンハッタンから始まった」噴き出した大衆社会の欲望が時代を動かした 1995.5.20 放送
第4集「ヒトラーの野望」人々は民族の復興を掲げたナチス・ドイツに未来を託した(第1集放送時の予告仮題「国家の狂気」)1995.6.17 放送
第5集「世界は地獄を見た」無差別爆撃、ホロコースト、そして原爆 1995.7.15 放送
第6集「独立の旗の下に」祖国統一に向けて、アジアは苦難の道を歩んだ(第1集放送時の予告仮題「革命いまだならず」)1995.9.16 放送
第7集「勝者の世界分割」東西の冷戦はヤルタ会談から始まった  1995.10.21 放送
第8集「恐怖の中の平和」東西の首脳は最終兵器・核を背負って対峙した 1995.11.18 放送
第9集「ベトナムの衝撃」アメリカ社会が揺らぎ始めた(第1集放送時の予告仮題「超大国が揺らぎ始めた」)1995.12.16 放送
第10集「民族の悲劇果てしなく」絶え間ない戦火、さまよう民の慟哭があった(第1集放送時の予告仮題「さまよえる民」)1996.1.20 放送
第11集「JAPAN」世界が見た明治・大正・昭和 1996.2.24 放送


なるほど、なるほど。

第二次世界大戦の戦後50周年とNHKの放送開始70周年、さらに加えて映像発明100周年記念番組ということで制作されたドキュメンタリー番組で、NHKとアメリカABC放送の国際共同取材で制作された壮大な企画だったわけですね。とにかく凄い。感心しました。

でも、なぜ自分がいま「映像の世紀」のことを思い出したかというと、つい先週、ファティ・アキン監督の「消えた声が、その名を呼ぶ」を見たときに、たしか「映像の世紀」の中で20世紀の難民の歴史を扱ったものがあったことを不意に思い出したからでした。

そして検索した結果、それは第10集の「民族の悲劇果てしなく」であることが分かりました。

その冒頭部分で、20世紀最初に映像が捉えた難民としてほんの瞬間的に紹介されていたのが、まさにこの映画「消えた声が、その名を呼ぶ」で描かれていた「アルメニア難民」だったのです。

思えば、現在に至るまで、世界における地域紛争は絶え間なく起きていて、おびただしい数の難民が生み出されており、国境を越えて他国に逃れた彼らを、建前的には人道上(実際のところは、大国の過去の植民地経営の負の歴史的遺産です)あるいは、安価な労働資源としてそれら難民を受け入れるまでは良かったものの、やがて飽和状態となって国内の富の分割・社会保障などの矛盾と歪みを露呈し、やがて自国民の失職を招いて不満を増大させた結果、難民とのあいだに軋轢を生じさせて、やがて欧米各国に右傾化政権を次々と生み出した経緯を考えると、これは歴史的必然でもあり、ひとつの象徴としての顕著なのがアメリカのトランプ政権(貧困の不満の吸収)誕生なのではないか、しかし、それは、それ以前のオバマの優柔不断・現状の諸矛盾からことごとく直視を避けた無責任な政策運営・偽人道主義にも重大な過失はあったはずだと考えています。

当時日本でも、民主党の一部議員が、人道上「難民を受け入れよう」などと馬鹿げた論陣を張っていましたが、歴史的定見を欠いた唐突な痴言(その愚劣と愚鈍は「トラストミー」で既に世界では経験済みです)は世界的に冷笑を買っていることさえ認識さえできなかったというテイタラクでした。

まあ日本の政治家のレベルでは、せいぜい「いかがわしい不倫」をこそこそやらかすか、「政党助成金ころがし」で私腹を肥やすか、「政策活動費のちょろまかし」に精を出すくらいが似合っています。まあ、これじゃあまるでハエか、ゴキブリですが、やれやれ。

そんな淫乱女や立場の弱い者とみると居丈高に罵倒しまくる頭のおかしな勘違い女か、もしくはコソ泥野郎のために汗水たらした金をせっせと税金に持っていかれるのかと思うとハラワタが煮えくり返ります。

さて、自分がこの映画「消えた声が、その名を呼ぶ」の感想を書きたいと思ったのには、もうひとつの理由があります。

あるサイトでこの作品の感想を読んで、思わず愕然としたからでした。

ちょっと引用してみますね(引用も何も、これですべてなのですが)。

《戦時下に差別と虐殺から生き延びた男が家族と再開するために旅をする話。
面白いけど、少し冗長で飽きてきた頃感動の再開…と思いきや、あっさり声が出ちゃうし、「今までどこに…」って、なんだそれ?
しかも大した盛り上がりもなく終了。
何とも締まらず残念過ぎる。》

「なんだそれ?」って、あんたが「なんだそれ?」なんだよ、馬鹿野郎。

「あっさり声が出ちゃう」のは、たとえ声を失っても最愛の娘にだけは聞こえた「ささやかな奇跡」を描いているからだし、「今までどこに…」は、祖国を追われ故郷を失った者たち(あるいは、父娘)が、遠い異国の地でお互いを求め合っていた思いの深さを「そう」表現しているからだよ、馬鹿野郎。

大量虐殺から奇跡的に逃れられた父親が、これも奇跡的に生き残った愛娘を異国の地で執念で探し当てたんだぞ。

「お父さんが探し当ててくれた」って言っていたろう?

それに「しかも大した盛り上がりもなく終了」って、あんたね、今までなに見てたんだよ、えっ?

こういうヤカラは、たとえ馬にされた母親が自分の前で、血の出るくらい死ぬほど鞭打たれ、苦しみの叫び声を上げても、へらへら笑っていられる無神経な野郎なんだ、きっと。

う~ん、もう! おまえなんか、金輪際、映画見なくともいい。オレが許す。

今日は、映画のコラムなんて書ける状態じゃない、これじゃ。

だから。今日はこれでオシマイ。


(2014独仏伊露ほか)監督脚本製作・ファティ・アキン、共同脚本・マルディク・マーティン、製作・カール・バウムガルトナー、ラインハルト・ブルンディヒ、ヌアハン・シェケルチ=ポルスト、フラミニオ・ザドラ、音楽・アレクサンダー・ハッケ、撮影・ライナー・クラウスマン、編集・アンドリュー・バード、美術・アラン・スタルスキ

出演・タハール・ラヒム(ナザレット・マヌギアン)、セヴァン・ステファン(バロン・ボゴス)、ヒンディー・ザーラ(ラケル)、ジョージ・ジョルジョー(ヴァハン)、アキン・ガジ(ヴァハン)、アレヴィク・マルティロシアン(アニ)、バートゥ・クチュクチャリアン(メフメト)、マクラム・J・フーリ(オマル・ナスレッディン)、シモン・アブカリアン(クリコル)、トリーネ・ディアホルム(孤児院院長)、アルシネ・カンジアン(ナカシアン夫人)、モーリッツ・ブライブトロイ(ピーター・エデルマン)、ケボルク・マリキャン
第71回ベネチア国際映画祭コンペティション部門ヤング審査員特別賞受賞



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# by sentence2307 | 2017-09-24 16:52 | 映画 | Comments(1)

揺れる大地

先日の朝、いつものように出社前の慌ただしい身支度をしながらテレビのニュースをチラ見していたら、いま稚内港ではスルメイカが豊漁で、全国のイカ釣り漁船がこの最北の港に集結し、港町全体が大いに賑わっているというニュースを流していました。

意外でした、確かつい先だっては、今年は全国的にスルメイカの不漁が続いており、函館では、そのアオリを受けて老舗の水産加工会社が廃業するなど、事態はずいぶん深刻化しているというニュースを聞いたばかりだったからです。

そこには中国船・韓国船が出張ってきて不法に乱獲していることもかなり影響していると報じていたことも、うっすら記憶しています。

久しぶりの豊漁に恵まれた稚内のニュースでは、いまの水揚量が1604トンで、市の試算によると経済効果は実に2億3800万円だとか、そして、稚内の町では関連の周辺産業(発泡スチロールの出荷量は既に1年分を超えた)だけでなく、スーパーマーケットやコインランドリー、飲食店、はては銭湯などまで広くその好影響が及んで繁盛していると報じていました。

ひと月前の暗いニュースから一変したずいぶん景気のいい話になっているので(函館の方はどうなっているのか分かりませんが)、思わず食事の手を止めて、テレビの画面に見入ってしまいました、テレビに映し出されていた市の職員(経済効果を試算した人です)は、「この豊漁がこの先、何か月も続いてくれるといいのですが」とホクホク顔でインタビューに応じています。

そのニュースのなかで、誰もがやや訝しそうに、なぜこんなふうにイカが大量に押し寄せてきたのか分からない、とちょっと首をかしげながら話しているのがとても印象的でした、しかし、その怪訝な表情も一瞬のことで、すぐに晴れ晴れとした顔に戻り、「まあ、いずれにしろ、この豊漁なので、どちらでもいいようなものですが」と笑って答えていました。

何年も不漁続きだったのに、ある日突然、不意に大量の魚群が浜に押し寄せてきて、寒村が狂喜に沸き返る、というこの感じが、以前どこかで体験した=読んだような気がするのですが、それがどの本だったのか、どうしても思い出せません、気になって通勤途上もずっと考え続けたのにもかかわらず、結局、思い出せないまま会社につき、伝票の整理に取り掛かったときに、不意に記憶がよみがえってきました。
そうだ、これって、以前読んだ吉村昭の「ハタハタ」という小説の一場面です。

短編ながら、自分に与えたインパクトは実に強烈で、あのニュースの内容とどこか「共鳴」するものがあったに違いありません。

夜、帰宅してから、さっそく本棚から文庫本を探し出して読み返しました。

数頁読むうちに記憶が鮮明に戻ってきました。

東北の貧しい漁村、主人公は少年・俊一、漁師の祖父と父、母と赤ん坊とで暮らしていて、母親は妊娠しています。

貧しい漁村の生活の糧といえばハタハタ漁ですが、ここ何年も不漁続きです。

沖に回遊しているハタハタ(メス)は、海藻に卵を産み付けるために「どこかの浜」に群れを成してやってくる、そしてオスは、その卵に精液をかけるためにメスを追ってさらに大挙して押し寄せてくる、このときハタハタに選ばれた幸運な浜が「豊漁」となるのですが、俊一の暮らす浜は、この僥倖からここ何年も見放されていて、慢性的な貧しさに囚われています。

そしてまた、そのハタハタ漁の季節がやってきます。

今年こそハタハタが大挙して押し寄せてくるという「夢」を信じて、漁師たちは随所に定置網を仕掛け、番小屋で夜通し「その時」を待ち続けています。

しかし、次第に嵐が激しくなり、海がシケり始めます、網の流失を心配した網元が、ひとまず網を引き揚げることを漁民に訴えます。

その網の引き上げのさなかに、修一の祖父と父親ほか何人かの漁師が、粉雪舞う寒冷の海に投げ出され行方不明になってしまいます。

緊迫した空気のなかで行方不明者の捜索が必死に続くなか、遠くの方から微かなどよめきが聞こえてきます。

それは、ハタハタの群れが大挙して浜に押し寄せてくるという狂喜の叫び声でした。

一刻を争う人命救助を優先しなければならないことは十分に承知しているとしても、ここ何年もなかった「豊漁」の兆しを目の前にして、漁民たちは動揺します。

人命救助の建前の前で身動きできなくなってしまった漁師たちは、「死んだ者は、もどりはしねえじゃねえか。生きているおれたちのことを考えてくれや」という思いを秘めて、夫を失った俊一の母の動向をじっとうかがっています。

そういう空気のなかで母親は決断します。

「ハタハタをとってください」

漁村に暮らす者のひとりとして決断した母親のこの必死の選択も、「豊漁」の狂喜に飲み込まれた村民たちにとっては、むしろ鬱陶しく、ただ忌まわしいばかりの「献身」として顔を背け、無理やり忘れられようとさえしています。

身勝手な村の仕打ちに対して憤りを抑えられない俊一は、母親に

「母ちゃん、骨をもって村落を出よう。もういやだ、いやなんだ」と訴えます。

しかし、母親は、「どこへ行く」と抑揚のない声で答えて、赤子に父を含ませる場面でこの小説は終わっています。

最後の一行を読み終え、本を閉じたとき、次第に、この物語で語られる豊漁への「期待と失意」、嵐の中での「絶望」などから吉村昭の「ハタハタ」を連想したのと同時に、もしかしたら、ヴィスコンティの「揺れる大地」を自分は思い描いたのではないかと考えてた次第です。

なお、この吉村昭の「ハタハタ」は、「羆」というタイトルの新潮文庫に収められている一編ですが、「羆」ほか「蘭鋳」、「軍鶏」、「鳩」も憑かれた者たちを描いたとても素晴らしい作品です。


揺れる大地
(1948イタリア)監督脚本原案・ルキノ・ヴィスコンティ、脚本・アントニオ・ピエトランジェリ、製作・サルヴォ・ダンジェロ、音楽・ヴィリー・フェッレーロ、撮影・G・R・アルド、編集・マリオ・セランドレイ、助監督・フランチェスコ・ロージ、フランコ・ゼフィレッリ、
出演・アントニオ・アルチディアコノ(ウントーニ)、ジュゼッペ・アルチディアコノ(コーラ)、アントニオ・ミカーレ(ヴァンニ)、サルヴァトーレ・ヴィカーリ(アルフィオ)、ジョヴァンニ・グレコ(祖父)、ロザリオ・ガルヴァトーニョ(ドン・サルヴァトーレ)、ネッルッチャ・ジャムモーナ(マーラ)、アニェーゼ・ジャムモーナ(ルシア)、マリア・ミカーリ(マドーレ)、コンチェッティーナ・ミラベラ(リア)、ロレンツォ・ヴァラストロ(ロレンツォ)、ニコラ・カストリーナ(ニコラ)、ナレーション・マリオ・ピス、



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# by sentence2307 | 2017-09-18 11:05 | 映画 | Comments(0)

エレファント・マン

名作として世評も高いし、いままで知人の誰と話しても悪く言う人なんて一人としていなかったこのデヴィッド・リンチ監督作品「エレファント・マン」ですが、しかし、そうした情勢の中で、それでもなおこの作品を悪く言う人が、果たして、この世界に存在するだろうかというのが、自分の長年の疑問でした、というのは、この自分もその「果たして」のうちの一人だったからです。

例えば、友人が、オレ感動して見たあと泣いてしまったよ、などと興奮ぎみに告白するのを前にしながら、まるで相手の神経を逆撫でするみたいに「俺なんか退屈で、最後の方は眠気が差した」などと、そんなこと、どうして言えます? たかが自分のつまらない映画の感想ごときに拘り、意地を張ってまで言い張り、長年つちかってきた親友とかの人間関係をむざむざ壊し、失っても構わないなどと思ったことは一度もありません、処世のためなら「踏絵」くらいどんどん踏んでみせてしまうタイプです。

キリストの顔がデザインされた足ふきマットを玄関に敷いて朝夕踏んで見せてもいい(なんなら2度くらい往復して踏み直してもいいデスヨ)と思っているくらいだし、さらにキリストの顔がデザインされた便座カバー(そんな物があるのかどうかは知りませんが)に腰を落ち着け、毎朝のルーティン(頻尿ですが、便秘ではありません)に勤しむことも一向に差し支えないと思ってはいるのですが、しかし、やはり躊躇するものがないではありません。

批判する作品が、人畜無害な「恋愛もの」とか「アクションもの」、あるいは「伝記もの」などならともかく、映画「エレファント・マン」は、19世紀の話とはいえ、いわば身障者を扱った「ヒューマニズム」映画です、軽い気持ちで「エレファント・マン」という作品をこき下ろし軽々に罵倒するあまり、チカラ余って「良識を踏み外して失言する→炎上」なんてことになったら、それこそ本末転倒です。

そのためには、この現代という時代、実に微妙で複雑なので、そこのところは注意が必要ですし、相当な覚悟が求められるということは十分に承知しています。

そして最近、wowowで改めてこの作品を見直す機会があって、ある感銘を受けながらも、またその違和感というのも改めて思い知らされました。

この映画が、自分には、どうしても共感できない部分がある、その「部分」というのが自分にとってどういうものなのか、この機会に、じっくり考えてみたいと思いました。

まずは、このデヴィッド・リンチ監督作品「エレファント・マン」についての記事をweb検索していたら、wikiでこんな記述に遭遇しました。

それは、表題「エレファント・マン」の「批評」という小見出しに記されていました。

「アカデミー賞8部門ノミネートなどから、日本ではヒューマンな映画として宣伝されたが、一部の評論家は悪趣味な内容を文芸映画風に糊塗しているだけだと嫌悪感を表明した。なかでも森卓也は、その後リンチ監督の前作『イレイザーヘッド』が公開された際に、結局ヒューマニズムより猟奇趣味の方がこの監督の本質だったのだと述べている。」

という記述です。

そういえば、この手の記事なら、自分も今まで少なからず読んだ記憶があります。

手元にあるコピーの綴りのなかに、北島明弘という人が、デヴィッド・リンチについて書いたものがあり、その中にもそんな感じの記述はありました、確かこれは「世界の映画監督」について幾人もの批評家が分担して書いた解説書かなにかに載っていたと記憶しています。

余計なことですが、実は、自分は、本を読んでいる際、「ここはぜひ記憶しておきたい」と思う箇所は、すぐに複写して50音順に並べて綴るということを励行しています。

この「50音順に編綴」という方法、コラムを書くうえでなかなかの優れもので、意外な機動性を発揮して、とても便利に活用していますが、しかしその際、うっかり原典を書き添えておかないと、今回のように出展元不明のまま、書名を特定できず「解説書かなにか」みたいな情けない書き方になってしまうことも多々あるので、そのときは小ネタ程度の使用という浪費しかできないこともあるのですが。

さて、その北島明弘のコメントです、こうありました。

「次いで、(デヴィッド・リンチは)メル・ブルックスに認められて、彼の会社ブルックスフィルムで『エレファント・マン』を撮った。19世紀のイギリスに実在した象のような顔の持ち主ジョン・メリックと彼をみとる医者との交流を中心にしたドラマだ。彼を見舞う女優には、ブルックス夫人であるアン・バンクロフトが扮していた。彼女の部分にエセ(似非)ヒューマニズムの印象を受けたので、来日した際に問いただしたところ、むっとした顔をしながら『私はそうは思わない』と答えたものだった。のちにブルックスは、彼のことを『火星から来たジミー・スチュアート』と評している。モノクロ画面がヴィクトリア朝のイギリスを見事に再現していた。」

なるほど、なるほど。

女優アン・バンクロフトはボスの奥さんでもあるところから、その役を設定するにあたり、ひたすら「善人」として描かざるを得ず、だから「彼女だけ物凄くいい人に描いたのではないか」などと、わざわざ極東の島国くんだりまでやってきて、芸能記者だか批評家だか訳のわからないアジア人に突然こんな腹の底を見透かされたような因縁をつけられたのですから、そりゃあ、誰だってむっとするのも無理ありません。

しかし、このふたつのコメントをよく読めば、前記・森卓也の「悪趣味な内容を文芸映画風に糊塗しているだけでヒューマニズムより猟奇趣味の方がこの監督の本質だ」というコメントと、後記・北島明弘の「エセ・ヒューマニズム論」は、一見隔たっているようにみえて、その実、そこにはとても似通ったものがあることが分かります。

まあ、ざっくり言ってしまえば、「ヒューマニズムの仮面をかぶった猟奇趣味のイカサマ野郎」と腐しているのと、一方は、「あんな意に反した気取ったヒューマニズムを描き込むなんて君らしくないじゃないか、君の本質は、あんなものじゃないだろう」と持ち上げている隠れヨイショのミテクレだけ違うだけで、言ってることはまるで一緒というのは一目瞭然です。

そして、自分的にこのミテクレだけは分裂したように見えるふたつの見解を象徴する場面を上げるとすれば、フレデリック博士(アンソニー・ホプキンス)が、異形の人ジョン・メリック(ジョン・ハート)を始めて見たときの反応(あまりの悲惨と同情から思わず落涙します)に対する、後半に描かれている下層の民衆の奇形を食い物にする執拗な悪意の描写に自ら圧し潰され、バランス的に上流社会の善意を過剰に描いてしまった、いわば、この「不毛な二元論」(実は同じもの)に困惑してしまったデヴィッド・リンチは、ついに「本質」を見失ってしまった、手放しの善意を描いてしまったために、分かりにくくしてしまったものがあったのではないかと思うようになりました。

つまり、「上流階級の庇護」も「下層民・民衆の虐待」も、結局は、根の一つのものという「真実」から目を逸らさねばならなかったリンチの困惑(もしかしたら自分の違和感もリンチの困惑をそのまま感じ取ったのかもしれません)を示唆しているような気がします、そして、それがそのまま、アカデミー賞の完敗(候補8部門・作品賞、主演男優賞、監督賞、脚本賞、美術監督・装置賞、作曲賞、衣装デザイン賞、編集賞)に序実に反映されたのではないかと。

そしてまた、その一方で、アヴォリアッツ国際ファンタスティック映画祭グリンプリ受賞という現実も、その答えを示したものといえるかもしれませんよね。

さらに、「日本で大ヒットした」という現実も見過ごしにはできません。

僕たちは、実在のエレファント・マン(ジョン・メリック)が、たまたま奇形に生まれついたために醜悪な動物のような見世物小屋で晒し物とされ、悪意の虐待を受けて人間性を蹂躙されたことに対して、デヴィッド・リンチが、いかなる同情を示し、いかなる憤慨を現しているのかを、その作品として、どこまで描き得ているのか、それとも、リンチの描いたものは、結局のところ、この映画自体が、身障者を晒し物として奇形を売りにした単なる悪意に満ちた「見世物小屋」でしかないと見るかというところまで追い込まれたとき、そこで「ヒューマニズム」を示されたとしても、あるいは、かたや「醜悪な見世物小屋」を示されても、自分はいずれにも「違和感」を覚えたことを唯一の手掛かりにして、この一週間ずっと考え続けてきました。

実はその間、ふたつの映画に出会いました。

ひとつは、伝説の映画、トッド・ブラウニング監督作品「フリークス (怪物團)」、1932

トッド・ブラウニング監督作品「フリークス (怪物團)」は、実に驚くべき映画ですが、しかし、見ていくうちに、その「実に驚くべき」は、実は自分が「常識」から一歩も抜け出せなかった硬直した感性の持ち主であることに気づかされたからにすぎません。

いわば、そこには「奇形」を普通に撮り続けたために、狡猾な健常者たちからの侮蔑と虐待に対する怒りの報復が描かれていく過程で、人間の正常な在り方が示されているラストの爽快感が余韻として残るのに比べたら、いじめ抜かれて死んでいく「エレファント・マン」の救いのない無力で陰惨なリンチの描き方は、逆に実在のジョン・メリックを、その最後まで人間性を放棄した惨めな小動物に貶めたというしかありません。

そしてもう一本は、本多猪四郎「マタンゴ」1963です。

嵐に遭遇し、漂流のすえに絶海の孤島に流れ着いた男女7人が、飢えに耐えきれず、ついに禁断のキノコを食べたことから、巨大で醜悪なキノコに変身していくというストーリーですが、醜悪なのはカタチだけで、巨大キノコに変身した彼らは実に満足げに快楽のなかに陶酔していることを描いています。

あの「エレファント・マン」にあっては、他人の視線にさらされ、他人に映る「エレファント・マン」は終始描いていたとしても、はたして、巨大キノコ「マタンゴ」自身が(未来には破滅しかないと分かっていながら)陶酔のなかで持ったような快楽を描けていただろうか、たぶん自分の違和感は、そこにあったのだと思います、つまり、「だからリンチさあ、エレファント・マン自身は、どうだったんだよ」みたいな・・・。

★エレファント・マン
(1980パラマウント)監督脚本・デヴィッド・リンチ、脚本・クリストファー・デヴォア、エリック・バーグレン、原作・フレデリック・トリーブス、アシュリー・モンタギュー、製作・ジョナサン・サンガー、製作総指揮・スチュアート・コーンフェルド、メル・ブルックス 、音楽・ジョン・モリス、撮影・フレディ・フランシス、編集・アン・V・コーツ、プロダクションデザイン(美術)・スチュアート・クレイグ、衣装デザイン・パトリシア・ノリス、編集・アン・V・コーツ、音楽・ジョン・モリス、製作会社・ブルックス・フィルムズ・プロ
出演・ジョン・ハート(John Merrick)、アンソニー・ホプキンス(Frederick Treves)、アン・バンクロフト(Mrs. Kendal)、ジョン・ギールグッド(Carr Gomm)、ウェンディ・ヒラー(Mothershead)、フレディ・ジョーンズ(Bytes)、ハンナ・ゴードン(Mrs. Treves)、マイケル・エルフィック(NightPorter)、デクスター・フレッチャー(バイツの連れている少年)、キャスリーン・バイロン、フレデリック・トレヴェス、
124分 アスペクト比・シネマ・スコープ(1:2.35)、モノクロ、35mm

★フリークス (怪物團) Freaks
(1932MGM)監督製作・トッド・ブラウニング、脚本・ウィリス・ゴールドベック、レオン・ゴードン、エドガー・アラン・ウルフ、アル・ボースバーグ、撮影・メリット・B・ガースタッド、編集・バシル・ランゲル、
出演・ウォーレス・フォード(フロソ)、レイラ・ハイアムス(ヴィーナス)、ハリー・アールス(ハンス(小人症))、デイジー・アールス(フリーダ(小人症))、オルガ・バクラノヴァ(クレオパトラ)、ロスコー・エイテス(ロスコー(吃音症))、ヘンリー・ヴィクター(ヘラクレス)、ローズ・ディオン(マダム・テトラリニ(団長))、デイジー&ヴァイオレット・ヒルトン(シャム双生児)、エドワード・ブロフィー(ロロ兄弟)、マット・マクヒュー(ロロ兄弟)、ピーター・ロビンソン(骨人間(るいそう))、オルガ・ロデリック(ひげの濃い女性)、ジョセフィーヌ・ジョセフ(半陰陽者)、クー・クー(クー・クー(ゼッケル症候群))、エルヴァイラ・スノー(ジップ(小頭症))、ジェニー・リー・スノー(ピップ(小頭症))、シュリッツ(シュリッツ(小頭症))、ジョニー・エック(ハーフボーイ(下半身欠損))、フランシス・オコナー(腕の無い女性)、プリンス・ランディアン(生けるトルソー(手足欠損))、アンジェロ・ロシェット(アンジェロ(小人症))、エリザベス・グリーン(鳥女)、
64分(1932年製作、1996年国内リバイバル上映、2005年国内再リバイバル上映)

★マタンゴ
(1963東宝)監督・本多猪四郎、特技監督:円谷英二、製作・田中友幸、原案・星新一、福島正実(ウィリアム・H・ホジスンの海洋綺譚『闇の声』より)、脚本・木村武、撮影・小泉一、美術・育野重一、録音・矢野口文雄、照明・小島正七、音楽・別宮貞雄、整音・下永尚、監督助手(チーフ)・梶田興治、編集・兼子玲子、音響効果・金山実、現像・東京現像所、製作担当者・中村茂、特殊技術撮影・有川貞昌、富岡素敬、光学撮影・真野田幸雄、徳政義行、美術・渡辺明、照明・岸田九一郎、合成・向山宏、監督助手(チーフ)・中野昭慶、製作担当者・小池忠司
久保明(村井研二・城東大学心理学研究室の助教授)、水野久美(関口麻美・歌手、笠井の愛人)、小泉博(作田直之・笠井産業の社員)、佐原健二(小山仙造・臨時雇いの漁師)、太刀川寛(吉田悦郎・新進の推理作家)、土屋嘉男(笠井雅文・青年実業家。笠井産業の社長)、八代美紀(相馬明子・村井の教え子で婚約者)、天本英世(マタンゴ・変身途上)、熊谷二良(東京医学センターの医師)、草間璋夫(警察関係者)、岡豊(東京医学センター医師)、山田圭介(東京医学センター医師)、手塚勝巳(警察関係者)、日方一夫(警察関係者)、中島春雄(マタンゴ)、大川時生(マタンゴ)、宇留木耕嗣(マタンゴ)、篠原正記(マタンゴ)、鹿島邦義(マタンゴ・変身途上)、伊原徳(マタンゴ・変身途上)、林光子(東京医学センター看護婦)、一万慈鶴恵(東京医学センター看護婦)、



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# by sentence2307 | 2017-09-02 22:04 | 映画 | Comments(0)