女の暦
2008年 12月 28日
なんでそんな挑発するみたいな無謀で軽率なことを言ってしまったのか、実は、その切っ掛けというのも、はっきりと記憶しているのです。
雑談のなかで、好きな映画監督と、その代表作を幾つか上げていこうという話の流れになって、まずはじめに庶民を描くことに卓越した映画監督を幾人か上げていったとき、たまたまほんのツイデみたいに久松静児監督の名前が出て、誰かが言った「代表作といっても、『警察日記』くらいしかないだろう」という言葉にカチンときて(相手も不機嫌だったのかもしれませんが、そのとき当方としても相当ムシの居所が悪かったのだと思います)、とっさに上記の「『女の暦』は、『東京物語』に匹敵する作品だ」という断定の言葉が出てしまいました。
そして、そのあとの「映画十字軍」の総攻撃に対して自分がどう答えたのかは、全然記憶にはありません。
きっと僕のことですから、相当な詭弁を弄して反論したに違いありませんが、しかし、いまにして思えば、「女の暦」が「東京物語」に匹敵すると言ったのには、まったく根拠がなかったわけではないと、最近になって論証できるような気がしてきました。
「東京物語」は、老夫婦が東京で暮らす子供たちを訪ねて行く話ですが、久松静児の「女の暦」は、小豆島で暮らす二人の姉妹の元に、東京や大阪で離れて暮らしている三人の姉妹が両親の法事のために戻ってくるという物語です。
「東京物語」の老夫婦は、親として期待していたのとは裏腹に、実は東京で厳しい生活を強いられている子供たちから邪険にされ(子供たちが「そう」しなければならなかったことを十分に理解したうえで)、落胆と失望の気持ちを抱えて故郷・尾道に帰ります。
「女の暦」の、それぞれに都会の暮らしに疲れ切った姉妹たちは、両親の法事に集まり懐かしい昔話に興ずることで元気を取り戻し、再び都会へ帰っていくというラストでした。
子供たちへの期待がことごとく裏切られ、失望し、まるでその代償のように掛け替えのない伴侶さえも失うという絶望の果ての孤独のなかで閉じられる「東京物語」と、厳しいけれども微かな希望が暗示されるという終わり方をする「女の暦」とに、なにか「共通するものがある」と見るのか、「まるでない」と見るのか、「小津ファンからの総攻撃」に逢ってから、ずっと考えてきたことでした。
そして、最近、少しだけ見えてきたものがあるのです。
このラストの終わり方は、両監督の資質の違いというよりも、ストーリーをどこから語り始め、そして、どこで断ち切るかという、最初から求められていた「作品」のタイプによって選択されたその違いだけだったように思えてきました。
こう書くと、なんだかまた論客の方々に反論されそうです。「あなたねえ、芸術作品の『東京物語』と、たかがプログラムピクチャーの『女の暦』とが、『最初の選択』ということだけで出来あがるとでも思っているんですか」と。
もし「ええ」とでも言ったら彼らの憤怒逆上する顔が見えるようですが、僕はやっぱり「ええ」と言うしかありません。
そうなんですよ、小津安二郎が映画会社から求められていたもの・許されていたものが「東京物語」であったように、端的にいってしまえば、久松静児が映画会社から求められていたもの・許されていたものこそが「女の暦」だったのだと思います。
求められていたものが違っていて、描き方、括られ方が違っていただけであって、描こうとしていた本質は同じものだったのではないか。
「東京物語」のラストで、伴侶を失い一人きりになってしまった失意の老父が遠い眼差しを虚空に投げかけ、虚脱してじっと座り続けているその姿が、まさに、徐々に迫り来る死を待つしかない諦観そのものだったように、一見希望に満ちたラストをもつ「女の暦」もまた、姉妹たちの和気藹々とした交歓の華やぎを大きく覆っているものが、既に死んだこの世にいない5人の亡き姉妹たちの眼差しに絶えず捉われていることを思えば(存命の5人姉妹の意識には亡き5人の姉妹の思い出が、まるで霊のように絶えず甦ってきます)、やはり、久松静児の「女の暦」は、「東京物語」に匹敵する作品なのだ、といっても言いすぎではないという気がしてきました。
(1954新東宝)製作・坂上静翁、監督・久松静児、原作・壼井栄「暦」、脚本・井手俊郎、中河百々代、撮影・鈴木博、音楽・斎藤一郎、美術・下河原友雄、録音・片岡造、照明・小山正治、助監督・小野田正彦
出演・杉葉子、香川京子、田中絹代、十朱久雄、花井蘭子、三島雅夫、轟夕起子、細川俊夫、大谷伶子、鮎川浩、新井麗子、永井柳太郎、三好栄子、小高まさる、清川玉枝、鳥羽陽之助、藤村昌子、舟橋元
1954年日本映画 上映時間:1時間39分