世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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雨月物語

映画を録画して、その作品を見てしまえば、だいたいは消去することにしていますが、見たあとでも、どうしても残しておきたい作品というのが次第に溜まってくると、結果的に自分の「ライブラリー」みたいなものになっていく感じがします。

意識的にではないにしても、それはそれで素敵なことかもしれないなとは思い、ある時期までは、自然に任せていました。

しかし、「保存」を意識しだすと、そこには微妙な問題も発生することが分かりました。

考えてみればどうでもいいことかもしれませんが、例えば、いちばん最初に録画した映画が、それ以後に収録する作品に微妙に影響するというか、つり合うだけの作品になかなか巡り合えないということに気がついたのです。

というか、だんだん欲がでてきて、当初の「なんでもいいや、片っ端から録画してしまえ」から、「少しは同レベルの作品を収録したい」という思いに変わっていったのかもしれません、う~ん、やっぱり「名作」には「名作」を続けて録画したくなるじゃないですか。

あまりにもチグハグな取り合わせではイメージが壊れるし、できれば統一的なイメージで一本のテープを完成させたいという欲がでてきたのだと思います。

深刻な社会派ドラマと破茶目茶なドタバタ喜劇の組み合わせの違和感を僕自身が感覚的にクリアできなかったのだと思いますが。

しかし、いざこの願望を実行してみようとすると、その名作に続くに相応しい作品というのが、タイミング的にもなかなか難しい要求であることが分かってきました。

いつも同じタイプの名作が安定的にTV放映されているわけではありません。

むしろ、こちか側がそんなことにこだわっていると、あらかじめ数多くのテープを用意してスタンバイしておかない限り、ジャンルの違う優れた作品をみすみす見逃す事態に直面します。

自分の意図した計画は、状況的にも物量的にも最初から無理があったのです。

そのことを最も痛感したのは、かなり以前に溝口健二の「雨月物語」を収録したときのことでした。

去年の後半に、BS2で溝口健二特集をしたとき、その「雨月物語」に続けて、他の溝口作品を録画しておけば何の問題もなかったのですが、根がズボラなうえに薄らぼんやりときているので、ついうっかり録るチャンスを逸してしまいました。

返す返すも残念でなりませんが、それ以来、いまだに「雨月物語」に続くに相応しい作品に出会えていません。

いろいろな作品の録画を試みてみたのですが、バランス的にどうしても納得できませんでした。

考えてもみてください、「雨月物語」と並べてみて遜色の無い映画なんて、そう滅多にあるものではありません。

結局「雨月物語」のあとに様々な作品を録画してみては、どれもあまりに不釣合いすぎ、我慢できず、消去しては、また別の作品を録画するということを繰り返しています。

しかし、この小文を書き残しておきたいと思った動機は、なにも「録画に耐える名作に巡り会えない」という愚痴を書くためではありません。

他の作品を録画し、保存するまでもないとテープを巻き戻すたびに、やや巻き戻し過ぎて「雨月物語」の最後のシーンを繰り返し見るということになり、ラストの部分を繰り返し見ているうちに、いままで見過ごしていたことに気がついたのです。

欲に駆られ戦場で一旗あげようとして、結局は失敗した夫・源十郎(森雅之が演じています)が、無一文の落ちぶれ果てた絶望のなかで故郷に帰ると、朽ち果てたあばら家で妻・みやぎ(田中絹代が演じています)は、子供を守り続けて夫の帰りを待っていました。

夫は妻との再会を喜び、そして安らかに寝ている子供を抱きしめ、喜びにむせび泣きます。

この喜びの姿には、夫にとって家族の掛け替えの無さと生きて在ることの歓びを深く思い知ったという描写であるとともに、自分の身勝手によって妻や子につらい思いをさせたことを詫びる贖罪の気持ちが、森雅之の深い演技によって示されていました。

そのことについては僕としても異論なく、ずっとそういう見方でこのシーンを鑑賞していましたので、自然と森雅之の演技ばかりを注視していたとしても、それは無理からぬことだったと思います。

しかし、このシーンを繰り返し見ているうちに、いままで何気無く見過ごしていたこのシーンの妻・みやぎが、既に死んでいる亡霊であることに意識が強く傾いて、今頃気がつくなんて本当に迂闊ですが、次第に田中絹代の演技の方に注視するようになりました。

夜半に夫が真っ暗なわが家に立ち帰ると、荒れ果てた家の中は閑散としていて誰ひとりいません。

夫は、妻の名を呼びながら、家の中から外へと必死に経巡り、再び戸口に立つと、そこに妻みやぎが座って火を起こしている姿が仄かな灯りを伴って忽然と現れます。

しかし、そこは、つい先ほど夫が妻の名を呼びながら通り過ぎた暗く荒れ果てた同じ場所だったはずですが。

妻の名を大声で呼び続けて戸口に立った夫の姿に、一瞬の間をおいて、妻は初めて気が付いたように、夫を見止めます。

それからの田中絹代の、片時も夫の顔から視線を逸らそうとしない鬼気迫る演技は、この映画が夫に棄てられた妻の怨嗟と許しの絡み合った薄幸な女の物語であることを教えてくれました。

夫が子を抱く姿を見つめる視線の、差すような非難と一瞬光る歓喜の厳しさ、夫のために鍋のなかの食べ物を椀に注ぐ顔のアップ(幽玄に迫る大胆な「寄り」です)にそれは現れていました。

しかし、なによりも驚嘆したのは、それに続く場面、したたかに酒に酔った夫が、「心が晴れ晴れとした。また格別の酒の味だ。・・・静かだな。」と呟きながら抱いていた子供を寝床に戻すシーンでしょうか。

背中を見せている妻・みやぎは、子供を寝かしつける夫に手を貸すでもなく、まるで置物のようにその影は微動だにしません。

その不吉な影は、確固たる存在感をもって画面の中央を不気味に占拠しています。

夫の「静かだな」という言葉が、既に夫には幽冥の妻を捉えられないことを示唆している深い場面であることを感じました。

(1953大映京都撮影所)製作・永田雅一、企画・辻久一、監督・溝口健二、助監督・田中徳三、原作・上田秋成、脚本・依田義賢、川口松太郎、撮影・宮川一夫、撮影助手・田中省三、音楽・早坂文雄、作詞・吉井勇、音楽補助・斎藤一郎、和楽・望月太明吉社中、梅原旭涛、美術監督・伊藤憙朔、装置・山本卯一郎、装飾・中島小三郎、背景・太田多三郎、美術助手・岩木保夫、録音・大谷巌、移動効果・山根正一、録音助手・鈴木暉、照明・岡本健一、照明助手・太田誠一、編集・宮田味津三、風俗考証・甲斐荘楠音、能楽按舞・小寺金七、陶技指導・永楽善五郎、製作主任・橋本正嗣、美粧・福山善也、結髪・花井りつ、衣裳・吉実シマ、擬斗・宮内昌平、スチール・浅田延之助、記録・木村恵美、演技事務・松浪錦之助、進行・大橋和彦
出演・森雅之、田中絹代、小沢栄、水戸光子、京マチ子、青山杉作、羅門光三郎、香川良介、上田吉二郎、毛利菊枝、南部彰三、光岡龍三郎、天野一郎、尾上栄五郎、伊達三郎、沢村市三郎、村田宏二、横山文彦、玉置一恵、藤川準、福井隆次、石倉英治、神田耕二、菊野昌代士、由利道夫、船上爽、長谷川茂、堀北幸夫、清水明、玉村俊太郎、大崎史郎、千葉登四郎、大美輝子、小柳圭子、戸村昌子、三田登喜子、上田徳子、相馬幸子、金剛麗子、
1953.03.26 10巻 2,647m 97分 白黒
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Commented by rhsy at 2017-05-05 14:49 x
読ませていただきました。宮木の背中のこと、ご達見と思います。
この7分余りの源十郎帰宅のシーンは本当にすごいですね。
最後の縫い物をする宮木の姿は何を象徴しているんでしょうか。ご意見を伺いたいものです。

Commented by sentence2307 at 2017-05-05 17:10
rhsyさん、こんにちは。
いつもありがとうございます。
自分的には、「雨月物語」について、折に触れてもっとたくさんのコメントを書いてきたつもりだったのですが、検索してみると、やはり、まとまったものは「これ」くらいしかないので、我ながら、ちょっと意外でした。
「最後の縫い物をする宮木の姿は何を象徴しているのか」とのお尋ねなので、自分も最後の7分間を改めて見直してみました。
かねてから宮木は、たとえ貧しくとも、家族がうちそろって暮らすことが、なによりもの幸せだと願っていた女性です。
そのために、たとえ亡霊となっても、夫が帰ってくるまで子供を守り続けてきました、そして、長い間、家を空けていたその夫が帰ってきた夜、夫と子供の安らかな寝息を聞きながら、宮木は、幸せな妻としての仕事(それが縫物でも料理でもなんでもよかったに違いありません)をする姿となったのだと思います。
あえて、縫い物が「何を象徴しているのか」と問われれば、やっと得ることのできた妻としての安らぎと幸せのカタチを象徴していたとお答えしたいと思います。
by sentence2307 | 2009-01-12 08:24 | 映画 | Comments(2)