革命児サパタ
2004年 11月 20日
しかし、僕は、その谷間で撮られたような「革命児サパタ」がとても気になるのです。
この作品は、一言でいえば、革命家は統治者にはなれないとか、革命家は革命家ありつづけることはできない、ということを悲惨なリアリズムで描いた寓話のような作品です。
革命に目覚めていく若きサパタに危険を感じた時の統治者が、サパタの名をブラック・リストに書き込む場面が、そのまま、革命に成功し今や統治者になったサパタが反抗的な青年の名をブラック・リストに書き込もうとして、はたと自分がいかに堕落した統治者に成り下がったかを悟るという見事なシンメトリーを形作っている場面でした。
彼は、罠と承知で敵の只中に飛び込んでいきます。
永遠に革命家であり続けるためには、壮絶な死が必要なことを誰よりもサパタ自身が知っており、その死によって彼は伝説の革命家になることができたのです。
この作品は、こなれていない図式的な映画かもしれませんが、「こなれていな」くとも「図式的」でも、人を感動させる映画を、僕たちは数多く知っているはずです。
「赤狩り」によって転向声明を出した後に作ったこの「革命映画」が、僕の知る限り世評は、まるで無視の態度をとっているみたいに、この作品についてのコメントがあまりに少ない気がして仕方ありません。
「革命に対する裏切り者のくせに、いけしゃあしゃあと革命映画なんか撮りやがって」という受け止められ方だったのでしょうか。
何を描こうと、今更なにを言ってんだという素直には受け入れられない強固な嫌悪の壁が既に出来上がっていて、拒否とか無視とかの対応を受けたのかもしれません。
作品そのものの価値を素直に受け入れられない嫌悪感がまず先立って、とにかく拒絶されたのでしょうか。
また、例えば、カザンに前非を食い、あらためて映画界に受け入れてもらいたいという気持ちがあったのなら、何故もっと受け入れられやすい政治色のないソフトな作品を作らなかったのか疑問が起きませんか。
「革命児サパタ」では、ナーバスになっている関係者にたいして、まるで神経を逆撫でするような行為といわざるを得ません。
僕は、エリア・カザンは、確信を持って非米活動委員会に「密告」したのであり、意図的に「革命児サパタ」を作ったに違いないと思っています。
「紳士協定」で描かれたアメリカ社会に根強く存在する偏見に対する不信や批判が、彼のこの一連の行為の底をしっかりと貫いているように思えてなりません。
もしかすると、マーロン・ブランドのアカデミーに対する姿勢にも、共通するものがあるのではないか、などと考えています。