執炎
2009年 05月 30日
実際になにをもってヨーロッパのスタンダード・ストーリーというのか、十分な根拠があって言っているわけではありませんが、裕福な貴婦人が貧しく酷薄な青年に恋をして、裏切られたすえに、棄てられて破滅するという物語は、スタンダードと思えるほど、ヨーロッパの映画や小説では、よく出会った物語のような気がします。
「夏の嵐」とか「ボヴァリー夫人」とか「赤と黒」など、みんなその手のタイプの物語ですよね。
フランソワ・オゾン監督の「エンジェル」は、まさに、そのようにしか生きることのできなかった女性の運命的な生と死の物語を、格調高く描き上げた作品だったと思います。
そして、この「エンジェル」を見ながら、日本独自のスタンダード・ストーリーといえるものが、果たしてあるだろうかという思いに囚われました。
それなら、もちろん、一も二にもなく「心中もの」だろうと、頭に浮かんできた作品を数え上げていきました。
「心中天網島」とか「曽根崎心中」とか、少し違うかもしれませんが、「近松物語」とか。
あれもこれも、と数え上げていくうちに、蔵原惟繕監督の「執炎」に辿りつき、そこで少し複雑な気持ちになりました。
むかし見てすごく感動した(と思い込んでいる)映画を、時間が経ってから再び見直してみると、この作品を当時どうしてあんなふうに感動したのだろうかと、ちょっと見当がつきかねる映画というのが結構あったりします。
僕にとってのそういう作品が、蔵原惟繕監督の「執炎」でした。
戦争によって相思相愛の男女の愛が、無残に引き裂かれる悲恋を、反戦の思いをこめてラディカルに描いたシリアスな映画です。
僕としてもリアルタイムでこの作品を見たわけではなく、封切りからかなり時間が経過してから並木座か文芸地下あたりで見たのだと思いますが、その頃も依然として評価の高かった作品だったという記憶はあります。
いまだって手近にある解説書をペラペラとめくってみれば、この作品を「蔵原惟繕監督の最高傑作」と謳いあげる賛辞を容易に見つけることができます。
そういう予備知識とか、当時の映画青年たちの熱い解説などにも影響されて、自分としてもなんとなく感動してしまったのかもしれませんが、つい最近になって、再びこの映画を見るチャンスがあって、意外なことに気がつきました。
今回も当時からずっと持ち続けている好印象に支えられて見たわけですが、しかし、このとき不意に出会った違和感を、まずは率直に書いておこうと思います。
若妻きよの(浅丘ルリ子が演じています。これが主演100本目の記念作だったそうです)は、戦地で負傷した瀕死の夫・拓治を、誰もが絶望視していた危険な状態から、必死の看病によって奇跡的に蘇らせた経験を持っており、それ以来、夫を奪う戦争というものに特別な憎悪を抱いています。
そして、夫との平穏な生活を守るために、人里を離れた山奥で2人だけの静かで幸せな生活を続けていました。
しかし、迫りくる戦況の悪化によって、再び拓治は召集されて戦地に連れ去られてしまいます。
愛する拓治(伊丹一三→十三が演じています)を兵隊に取られ、離れ離れに暮らさねばならないことを嘆き続けたきよのは、拓治のいない現実に耐えることができず、悲しみのあまりついに自失してしまいます、つまり心神喪失の状態でしょうか。
彼女がそんな心神喪失状態でいるある日、拓治の戦死の報が届けられます。
しかし、心神喪失の状態にあるきよのには、拓治の死を認識することができません。
きよのは拓治の死を知ることもなく、日々を自分だけの世界の中に閉じこもって軽やかに暮らし続けます。
このまま記憶が戻らなければ、この状態は、あるいは「幸い」といえる状態なのかもしれません、もし、このままの状態で彼女にも死が訪れたなら、確かにそれは、とても幸運なことだったかもしれません。
しかし、正気にかえってしまう日が、不意にきよのに訪れます。
正気に戻った彼女は、拓治のいない現実におびえ動転し、不吉な不安のなかを必死に拓治を求めて家へと走り帰りますが、彼女を待っていたものは、仏壇に飾られた拓治の遺骨と遺影でした。
かつて戦争によって愛する夫との別離を強いられ、悲しみに耐え切れないあまり我を見失い、そんなふうに心を閉ざさなければならなかったあの日と同じように、長い空白の時間をくぐりぬけてきた彼女の前に待っていたものは、さらに痛切な夫の死という無残な事実でした。
そして、そのあとで語られる絶望したきよのの自殺は、十分に説得力のある鮮やかなストーリー展開であり、僕の記憶のなかに極めて鮮やかな痕跡を残し続けたのだと思います。
しかし、今回この映画に再会した僕は、自分の記憶のすべてを裏切るような、とても意外で衝撃的な「もの」を見てしまったのだと思います。
それは、仏壇に飾られている「拓治の遺影」でした。
僕の記憶では、この遺影は、観客にきよのの悲しみを観客に更に印象付ける悲壮で重々しい効果的なものだったからこそ、この作品を強烈な印象と共に記憶してきたのだと思います。
しかし、そこにあった「遺影」は、僕の記憶の中にある「もの」とは、まったく別物でした。
そこにあった実際の映画の遺影は、僕たちがよく知っている皮肉屋でプライドが高い(プライドが傷つけられれば容易に死を選択できるくらいの「高さ」であったことが既に証明されています)伊丹十三そのままの、皮肉な薄笑いを浮かべた遺影でした。
きっと映画の意図からすれば、その遺影はきよのに優しく微笑みかけ、殊更に戦争の無残さを強調して、観客を物語のクライマックスへといざなう「微笑」のはずだったものが、すでに伊丹十三の華やかな成功と挫折、そして無残な結末を既に知ってしまっている僕たちにとって、この皮肉な笑みを、手放しの善良さとして額面どおり受け取れるわけもなかったからだと思います。
そして、その微苦笑ともつかない会心の笑みをよくよく見ていると、もしかしたら拓治は、きよのと離れて軍隊に入ったことで、はじめて心の平穏を得たのではないかと思えてしまうほどの微笑に見えてきました。
例えば、きよのが拓治を心から愛していたように、拓治は彼女の愛情に匹敵するだけの気持ちを持っていたのだろうか。
きよのの強引な求愛を前にして、拓治はたじたじと戸惑い、彼女に対して同意とか拒絶とかを表明する以前に、きよのの求愛に圧倒され、ただ引きずられたにすぎないのではないか、という気がしてきたのでした。
もし、あの写真が軍隊で撮られた写真なら、その会心の笑みは説明がつくような気がしました。
つねに愛されていないと気のすまない女に、脅迫的に絶えず付きまとわれ、あてつけがましく愛の応答を強いるきよのから逃れる唯一の場所が、この軍隊ではなかったのか、きよのの過剰な干渉から逃れることのできた唯一の場所・軍隊に身を置くことによって拓治の晴れ晴れとした開放感が微笑となって、あの遺影に写し出されていたのではなかったのかとまで考えてしまいました。
そんなふうに僕が考えたのは、あまりにも慌しく、そして呆気なく僕たちの前を走り去っていった伊丹十三という才人の早逝が悔やまれてならないことがあったからに違いありませんが、あるいは、この映画の中で図らずも遺された自嘲を湛えた「遺影」が、大衆の過剰な要求に、ついに最後まで応えを出し続けることができなかった伊丹十三の栄光と挫折を思い出させたからかもしれません。
(1964日活)企画・大塚和、監督・蔵原惟繕、脚本・山田信夫、原作・加茂菖子、撮影・間宮義雄、音楽・黛敏郎、美術・松山崇、録音・福島信雅、照明・吉田一夫、編集・鈴木晄、
出演・浅丘ルリ子、伊丹一三、芦川いづみ、平田大三郎、松尾嘉代、上野山功一、河上信夫、山田禅二、加原武門、入江杏子、石原初子、重盛輝江、紀原土耕、村田寿男、久松洪介、鈴木三右ヱ門、信欣三、細川ちか子、宇野重吉
1964.11.22 11巻 3,303m 白黒 ワイド