刺青 ⑪
2004年 11月 22日
その小論の書き出しは、こんな感じで始められています。
「自分の作品は、ドライで情緒がないと言われている。
また、人物が喜劇的に誇張されてすぎて、軽佻の感が勝りすぎていて真実味が足りないと評されたうえで、いたずらにテンポのみ速くて、環境描写や雰囲気描写が皆無で、味も素っ気もないとさえ言われている。
もっとも、これらの批判は、ある意味ではすべて正しい。
しかしもし、弁明することが許されるなら、あえてこう言いたい。
私は、意識的に情緒を捨て、真実を歪め、雰囲気を否定している、と。」
そして、続いて増村監督の映画に対する考え方がひとつひとつ説き起こされていくわけですが、この小論が書かれた時期は、増村監督が初監督作「くちづけ」を撮って幾らも経ってない頃ですから、立場をはっきりさせねばならない「弁明」をあえて書かなければならない雰囲気(評価と批判と)が、既に監督の周囲に明確に形成されていたのでしょう。
特に「私は情緒を嫌う。」と書き出される部分に増村監督の作家性がよく出ていると思います。
ここでいう情緒とは、「日本的」情緒のことを示していて、さらに具体的にいうと、それは、否定的で消極的な感情のこと、つまり抑制であり、調和であり、諦めであり、哀しみであり、敗北であり、逃走のことだと言っています。
日本人が、愛を果敢に要求する女と、控えめに訴える女性とでは、どちらに情緒を感じ、かつ好感を持つかといえば、それは当然抑制された表現の方に軍配が上がるだろうと前置きして、日本における映像表現の主流もまさに、抑制を伴うことによって技巧的に洗練され一種の美にまで高められ、また他愛的であることによって苦しみとささやかな喜びを分かち合う人間性の謳歌に繋がっていったと論じています。
それまでの日本の映画界が営々と築いてきたそうしたリアリズムの質そのものに真正面から挑戦するような果敢な姿勢が、そこには溢れていました。
そして、その「挑戦」が何故なのか、続いて論じられていくことになります。