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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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女ばかりの夜

12月に入ったばかりのある酒宴の席でのことでした、どうしてそんな話になったのか、いまとなっては話の流れや、その切っ掛けも忘れてしまいましたが、誰かが売春禁止法の話(ずいぶん古い話です)をしたことを受けて、溝口健二の最後の作品が、たしか「赤線地帯」だったなという話になりました。

そのひとことで、それまで論議していた法律論はそっちのけで、その話題で座が盛り上がってしまいました。

映画好きばかりが揃っている酒宴です、そこにいた誰もが、当然のことながら溝口健二の「赤線地帯」は見ていましたから、やはり、話が集中したのは、あの鬼気迫る最後の場面、まだ幼さが残る少女が、苦界に堕ちて初めての客をとるために、物陰から恐る恐る手招きをするという痛切なシーンです。

いたいけな少女が、力づくでレイプされたり、圧倒的な脅迫のもとで無抵抗で犯されてしまうというのとは違って(それもかなり痛ましいことには違いありませんが)、金の力でがんじがらめに縛られ、男たちのおもちゃになるために自分からすすんで手招きをして、男たちを招き入れる(そうせざるを得なくさせられてしまっている)という象徴的な場面の痛切さに衝撃を受けたことを、その場の誰もが口にしました。

あの少女が、おそらくは、まだ男を知らない処女であろうことが、あのシーンに殊更な意味を持たせているのだと誰かが熱く語りました。

まだ男を知らない処女が、金を得るために男を誘うあの仕草は、既に多くの男たちを相手にしてきた擦れた娼婦たちの仕草を真似た手招きそのものであり、単に仕草を「真似た」というところに、あのシーンの悲痛にして壮絶な意味があるのだと語っていました。

見様見真似で、みずからを苦界に身を堕すため、手招きの仕草を同僚たちから真似たであろうあの少女は、やがてその先輩たちから数々の淫らがましい性技を習得していくに違いないまず最初の痛ましい決意として描かれているのだと彼は話していました。

それはまた、少女の背後に控える多くの女たちの数々の悲しい決意の象徴としての仕草でもあって、ほんのひとつのたどたどしい手の揺らぎだけで描き切ろうとした溝口健二の意図は、正確にして鮮烈に観客に伝わったと思います。

もちろん僕も、それらの意見には、まったくもって同感しました。

同感はしていましたが、同時に、自分としては、この「赤線地帯」よりも「夜の女たち」の方を評価しており、そして、好意も持っていることを、あえて話しました。

たぶん、このひとことは、熱く盛り上がっていたその座を随分と白けさせたに違いありません。

もし、反論でもあれば、「夜の女たち」は、「西鶴一代女」に匹敵する田中絹代の熱演が印象に残る代表作であることを話そうかと身構えていたとき、誰かが唐突に田中絹代自身が監督した作品のことを語り始めていました。

ただ田中絹代自身が監督した作品といえば、そのときは「恋文」しか見ていなかったので、自分としては未見の彼の語った「女ばかりの夜」については、ただ聞き役に徹していました。

話の様子からすると、「女ばかりの夜」もなんだか赤線地帯の話のようです、ぜひ見てみたいと聞き返してみると、なんとその映画を録画したテープを持っていて(CS放送で録画したのだそうです)貸してくれることになりました。

なんでも話してみるものですね、その夜の物凄い収穫でした。

後日、借りた作品、田中絹代監督「女ばかりの夜」を見た感想を友人から求められました。

この作品は、溝口監督の「赤線地帯」や「夜の女たち」とは、明らかに異なる視点から撮られた作品です。

溝口健二作品が、娼婦たちの視点から(敵意に満ちて差別する世間を睨みかえすような視点です)撮られた作品だとすると、田中絹代作品は、世間の眼から娼婦たちを客観的(侮蔑的)に見すえた、眉を顰めて距離をとるような常識的な作品にすぎないといえるかもしれません。

「女ばかりの夜」に登場してくる更生を目指している娼婦たちは、カタギの一般市民にとっては、結局のところ、男たちに体を売って生活するしか能力のない異常で少し頭のオカシナ哀れな女たちだと決め付ける世間の眼差しに炙られるような描かれ方をしているにすぎません。

田中絹代という人が、女優としてはともかく、映画監督としてどのくらいの資質があったのか、この「女ばかりの夜」という作品に限って言えば、やはり、溝口健二が危惧したとおりのものだったのかと思わざるを得ないのだろうかというのが、僕の率直な感想でした。

僕の感じた彼女の「限界」が、まんざら見当違いでもなかったことは、その後、田中絹代が映画監督であり続けることができなかったことを見れば、分かるような気がします。

しかし、そういう思いが、女優としての田中絹代の評価にいささかでも影響を及ぼしてはならないことと肝に銘じました。

亡くなってから既にもう長年月を経過し、しかも、かなり晩年になってからのごく僅かな期間の田中絹代しか知らない自分ごときが、とやかくウンヌンできるようなことではありませんが、その生涯を女優として全うした彼女の意志の強さに対する強烈な印象が、いまだに僕の中で生き続けています。

若くて美しい盛りを過ぎた女優たちが、いつの間にか映画界から遠のいていくという現実が一方にあって、しかし、あえてなお、女優一筋で生涯を全うしようということが、どういうことなのかを痛切に考えたことがありました。

そこではきっと、若くて美しかったキャピキャピの娘時代の好印象をいつまでも抱いているファンの前に、あえて老醜をこれ見よがしに晒さねばならない決意と勇気が必要とされたはずですし、女優自信、ファンには美しいままの自分をいつまでも記憶していてもらいたいと思うことは、美しさや可愛らしさで売ってきた女優ならなおさら、当然に抱く思いのはずです。

しかし、田中絹代が、娘役を演じるには到底ふさわしくない自身の年代を徐々に意識しはじめたとき、「俳優」であり続けることの危機感をつのらせ、日頃身近に見てきた「映画監督」の途に思い至ったことは、「そうだろうな」という思いと同時に、あまりにも軽はずみで無謀な思いつきだという思いは禁じられません。

女優であり続けることの将来に対する危機感は抱くことができても、すぐにでも「映画監督」になれると安直に思いつく見通しの甘さ=将来への危機感の方は、まったく抱くことができなかったように見受けられます。

新藤兼人が書いた田中絹代の伝記を読んでいて随所に感じるのは、人生の大切な節目で生き方の選択を誤る彼女の軽率さと、人間性を疑うような底なしの楽観であり、「映画監督」になろうとして行為もまた、意地悪く見れば、あのアメリカかぶれの「投げキッス」と同質のものと考えることができるかもしれません。

しかし、彼女の軽率さを示す数々のエピソードを読んでいても、そこに少しも不快感を感じることがないという違和感に囚われるのも、また事実です。

たとえそれらが失笑を誘うような軽率な行為であり、確かに人気絶頂のさ中で限りなくのぼせ上がった、思いの浅い軽率で傲慢な田中絹代という女がそこには息づいてはいるのですが、しかしその「軽率さ」のどれもが、その「無思慮」のどれもが、むしろ不快感を抱かせないのは、きっと、そのすべての愚行が、「映画」に対する盲目的な愛と限りない信奉とによって吸収されてしまっているからではないかという感じがしてなりません。

映画に対する思いだけは十分に善良な、そして、映画にその生涯のすべてを捧げたひとりの女優がしっかりと存在していて、それこそが彼女の魅力なのだという思いがします。

若さを失えば、その老いを逆手にとって老醜を演じ切り、さらにトップ女優でいることの困難に直面すれば「映画監督」の途を模索したことも、あのアメリカかぶれの「投げキッス」などもひっくるめてさえ、すべてが許されるべもののようにも感じられてきました。

「俳優」でありつづけるために、大切な何かを失ってきたことが、彼女の「軽率さ」というのなら、その「軽率」はとても愛すべきもののような気がします。

それどころか、「映画」から外れそうになる自身を叱咤して、その一本道をひたすら歩むことの意思力は、きっと並大抵のものではなかったという畏怖のようなものさえ感じています。

初々しい美形の幼な妻の役から、憚ることなく老醜をこれでもかと大衆の前に晒すことに、女優として、むしろ自負をさえ抱いたのではないかと見えたのは、自分の演技に対する確固たる自信というよりも、「映画」に仕えている自負がなければ、到底なし得なかったのだろうなと思います。

あの「サンダカン八番娼館・望郷」が、演技の結実=集大成だったという当時の論調に接したとき、同時に、女優開眼という出発点として溝口健二の「西鶴一代女」が上げられていました。

そのような背景を見据えながら、年を重ねていく田中絹代が、女優としてこのままやっていくことに不安と限界を感じ、映画監督の途を模索したとき、彼女の転進を溝口健二が強硬に阻んだというエピソードを知った溝口健二は、その田中絹代の軽率で安直な映画監督への転進の思いつきに対して、侮辱されたと感情的に反応したのだと思います。

いろいろなところで読んだことのある、溝口健二が自分で作り上げた「女優・田中絹代像」を失うことを懼れたのだという憶測よりも、短気で直情的な溝口健二という監督を考えるとき、こちらの「反射」の方が遥かに説得力があるように思います。

しかし、強硬なその溝口健二の反対に対して、生涯のコンビを解消させてまで頑として従わなかった田中絹代の強情さ=意思の強さを、「一本筋が通った十分に納得できるもの」というような言い方をしてもいいのか、長い間疑問でした。

溝口健二が短気で直情的なら、田中絹代も短気で直情的でおまけに軽率だったからこそ、当然のような「決別」がもたらされたのだと思います。

日本映画界にとって、至宝といわれたコンビがこんなカタチで解消されてしまったことに、どんな理屈付けをしても始まらないような気がします。

ふたりの不仲がもたらした「気に入らない相手とは仕事はできない」ということの裏には、かつて「気に入った相手と次々と名作を生み出し続けた」という背景があったわけですから、つまり、なんだかツケを払わされたような感じのような気がしてきました。

しかし、もうひとつ長年抱いてきた疑問があります。田中絹代が、生涯を女優として昂然と生きたと同じように、なぜ「映画監督」として生き続けることができなかったのだろうか、という疑問です。

もっともこれは、彼女が撮った作品を一本も見ていない段階での素朴な漠然とした僕の疑問だったのですが、今回見た「女ばかりの夜」によって、その疑問の一端は氷解したかたちになりました。

(1961東京映画・東宝)監督・田中絹代、製作・永島一朗 椎野英之、原作・梁雅子、脚色・田中澄江、撮影・中井朝一、音楽・林光、美術・小島基司、録音・長岡憲治、製音・西尾昇、照明・今泉千仞、
出演・原知佐子、淡島千景、北あけみ、浪花千栄子、富永美沙子、田上和枝、関千恵子、田原久子、千石規子、春川ますみ、沢村貞子、岡村文子、中北千枝子、佐藤徳明、深沢裕子、夏木陽介、桂小金治、菅井きん、香川京子、水の也清美、平田昭彦
1961.09.05 6巻 2,530m 白黒 東宝スコープ
Commented by AV女優動画 at 2011-04-09 16:33 x
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Commented by clonecd023 at 2011-05-10 17:07 x
A fool may throw a stone into a well which a hundred wise men cannot pull out.
Commented by UKQOeEC at 2011-09-01 21:04 x
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Commented by viagra at 2011-09-06 15:12 x
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Commented by Sac Micheal Kros at 2014-02-12 06:57 x
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by sentence2307 | 2009-12-31 12:36 | 田中絹代 | Comments(5)