アニエス・ヴァルダ「5時から7時までのクレオ」
2004年 12月 03日
ですから、たいして期待もしていませんでした。
「見たことのない作品」ということ自体が気に掛かっていただけで、とにかく見さえすればそれだけで気が済む、つまり「がっかりしてしまえば、それで安心して、作品のことをすんなり忘れられる」という、いつものパターンです。
とにかく「見ていない」という脅迫観念から解放されるためには、このミソギを経るしかない、という感じです。
しかし、よく考えてみると、これって、僕の女性との付き合い方の原型かもしれないな、という気がしてきました。
どうにも気に掛かって仕方のない女性がいる→今までの経験から、きつと失望することは分かっている→でも、気に掛かって仕方ない→そんな袋小路に追い込まれたら、actionを起こして、あえて失望を確かめるしか道はない、という感じなのです。
多分こういう歪んだ心理状態のことを、「倒錯」とでもいうのかもしれませんね。
映画の見方としてもこんな不謹慎な見方は、非難されても仕方ないのですが、しかし、あまりにも多くの作品に失望し続けたことが、僕に映画というものに対して、こうした「不謹慎」な身構え方をいつの間にか身に付けさせたことも事実なのです。
この作品「5時から7時までのクレオ」は、1961年の作品ですから、予備知識はいっぱいありました。
検査結果を告知されるまで、癌かもしれないという恐怖に怯えながら過ごす美人のシャンソン歌手(コリンヌ・マルシャン)の2時間を描いたという作品です。
死を意識しながら、極限の、いわば執行猶予の時間を「末期の目」を持って生きるというヤツですよね。
例えば、この設定の同種の作品にルイ・マルの「鬼火」などが思い浮かびますが、しかし、ルイ・マルのものは1963年度の作品ですから、このアニエス・ヴァルダ「5時から7時までのクレオ」の方が遥かに先行していたわけなのですね。
これには、ちょっと驚きました。
実は、昔から手元に置いて繰り返し見ている映画のガイド・ブックがあるのですが、そこには、この作品の最後の部分をこんなふうに紹介していました。
「アルジェリア戦線から休暇で帰っていた若い男と会い、お互い死と隣り合わせにいるからか、親近感を覚える。クレオは癌ではなかった。」
しかし、ラストで会う医師は、はっきりと「放射線治療を施せば大丈夫だ」みたいな言い方をしていましたから、クレオは癌だったのだと思います。
彼女は、ずっと自分が癌ではないかと中途半端の状態のなかで不安に思い続けていたからこそ、「あなたは、癌だ」と宣告されることによって、はっきりと病気と闘うフンギリが付いたのだと思います。
不安なままに、蛇の生殺しみたいな猶予の時間を生きるよりも、たとえマイナス要因でしかなくても、克服すべき目標がはっきりした闘いの時を生きることの充実感をこの映画は言おうとしているのだと思いました。
見た後の爽やかな感じは、きっとこの映画が、「困難に直面したとき、逃げることではなく、すべてを受け入れて闘うことの充実感」を教えてくれているからかなと思いました。