だいたいは賛辞の方が多かったこの作品「剱岳 点の記」ですが、中にはボロカスにけなす人も、別にいなかったわけではありません。
もちろん、僕の友人のなかにも、遠まわしにそんなふうな言い方をしていた人もいました。
理由はきっと、この作品が原作と随分と印象が違うところがあるじゃないか、実際の剱岳の容易に人を寄せ付けない冷厳な威容はスクリーンで見るようなあんなペラペラしたものじゃないとか、明治の日本男子や大和撫子は、いくら新婚だからといって、あんなふうにのべつまくなしデレデレいちゃついているわけがないとかといったもので、小説の熱烈な読者や剱岳をこよなく愛する登山家、あるいは厳密な時代考証にこだわる人など、その苦言のポイントはそれぞれ異なるとは思いますが、しかし、小説を映画化するに際して、繰り返し言われ続けてきたこの問題について、なにも製作者側を弁護するわけではありませんが、考えてみれば、ない物ねだりの無理難題みたいなもので、本来「忠実な再現」なんてものがあるわけもないし、できるとも思えません。
開き直って、むしろ映画というものが完全無欠な再現でなければならないのだとしたら、それこそつまらない敢えて見る必要もないものに堕してしまうような気がします。
映画は、それ自体で独自に完結した世界観によって表現されていればいいものだと思うし、観客もまた、それぞれの立場からの先入観なく、提示された独自の映画世界に身を委ねて浸り切る方が、余程得策なのではないかと考えるようになりました。
しかし、「忠実な再現」などできるわけでもないし必要でもないとはいっても、それは、その小説が持っている主題を崩してしまうということではありません。
むしろ、最終的に有している小説世界と同等な「感動」まで映画が観客をどこまで引き上げることができるのか、つまり、製作者は虚構の再構築によって、観客がすでに持っている「感動」を損わないことはもちろん、さらに上回るくらいの力量を見せなければならないという絶対条件があるだけに、オリジナル作品の製作よりも、一層困難な作業と努力とを強いられているというべきなのかもしれません。
それは、観客のすでに思い描いているに違いない「感動」を圧倒してしまうくらい遜色ない感動を、まったく異なる視点による切り口で見せられるかに掛かっていて、その手腕というか、力技が試されるところでもあるのだと思います。
観客は、自分たちの過剰な期待を満たされなければ裏切られたと判定し、過酷にして容易に「失望→酷評」してしまうのもしかたのないことなのかもしれません。
そのくらい、小説を映画化するということは、オリジナル作品を撮るのとは比較にならないくらいのリスクを背負った行為ということになるのだと思います。
そういう意味で「剱岳 点の記」は、誠実にその困難な努力と作業を十分にクリアできた作品だったと感じました、ほんのかすかな失望を除いては。
その「ほんのかすかな失望」のことを書いてみようと思います。
そういう視点から、この「剱岳 点の記」が、虚構世界のエッセンスをいかに再構築できているかと見ていくこと、物語の四本柱の力点(「主人公」たちの扱い)を、どういう位置関係で描こうとしているのかを押さえていくことが、早い理解につながると信じて以下のように整理してみました。
つまり、
①陸軍陸地測量部・柴崎芳太郎の職務に対する義務感
②「日本陸軍」の威信
③日本山岳会・小島烏水の時代の先取性
と、いうことになり、最後は当然
④案内人・宇治長次郎の・・・
となるのですが、その「・・・」に入るべき文字がどうしても思い浮かばないのです。
実は、「どうしても思い浮かばない」と打ち込んだあと、次に打つべきキーをボードから探し出せないまま、数日が経ってしまいました。
他の人物に付けたような言葉を、案内人・宇治長次郎にも付そうと思ったのですが、その言葉「なぜ剱岳に登ったのか」という行為の意義づけとか、理由づけるべきそのひとことが、どうしても思いつきません。
①~③の「主人公たち」には、それぞれ明快な理由が存在します。
職務に対する強烈な義務感、軍隊の威信を掛けた面子、そして登山をスポーツと考える新たな欧米的な理念を先取しようという意欲などでしょう。
しかし、少し経って、そもそもこれら三者の理念や価値観に対応できるものが、はたして案内人・宇治長次郎にあったのだろうか、という疑念に駆られました。
最初から存在しないものを必死に見出そうとしているだけではないかという徒労感に見舞われたのです。
映画後半のシーンに、剱岳登頂を目前にして、柴崎芳太郎(浅野忠信が演じています)が小島烏水(仲村トオルが演じています)に「あなたは、なぜ山に登るのか」と尋ねる場面がありました、そして、その問いは、そのまま烏水から返されるという場面、お互いに向けられた問いに、それぞれ口ごもって明確に答えることができないというシーンによって、登山に魅せられた男たちの言葉にできないくらいの思いと、一層の戸惑いを描いて、剱岳に対する畏怖と憧れを余すところなく示唆した場面です。
しかし、このふたりだけの間でやりとりされたこの不毛な会話の背後に、無言でたたずむ案内人・宇治長次郎(香川照之が演じています)の存在を意識することで、この一見素晴らしい会話の場面が一変するような感じを持ちました。
その「あなたは、なぜ山に登るのか」という問いは、決して荷運び人足・宇治長次郎には向けられることのないものであることが、はっきりしていたからだと思います。
宇治長次郎にとっての登山とは、栄誉ある国家事業の職務の遂行行為でも軍隊の威信を掛けた威圧的な権力行為でもなく、ましてやスポーツとしての欧米的登山の晴れがましい先駆的行為でもない、それは単なる「生活の糧」を得るために必要から為される、肉体を酷使するだけのきわめて直接的な単純労働にすぎないからだと思います。
そのことは、ほかの誰もが十分に認識していて、自分たちの国家的事業としての「登頂」とは比較にならない低俗な日常的な労働行為に従事する者、単純労働者にすぎない宇治長次郎に対して公的事業に携わる高級官吏が、「あなたは、なぜ山に登るのか」などと尋ねることなど到底あるわけがなかったのです。
この作品は、柴崎芳太郎と宇治長次郎との関係をきわめて理想的に描いていて、彼らの間に交わされた信頼関係と交情はとても好感のもてる爽やかなものとして心に残りました。
しかし、いかにその関係を美化して好意的・拡大解釈的に描こうと、映画の中に描かれている幾つかのシュチエーション(例えば、頂上を目前にして、案内人・長次郎は一番乗りの座を柴崎芳太郎に譲ろうとする場面など)や、後世の残された文献の中のそれは、新婚夫婦のあのイチャツキ場面同様、必ずしも映画で描かれたような理想的な関係ではなかったかもしれない、そういう補完資料が残されていることに改めて戸惑いを感じてしまいました。
文献によると、のちに柴崎芳太郎は、宇治長次郎という人物など記憶にないし、まったく知らないと否定し、残された公的文書にも、本来宇治長次郎の名前が書かれるべき箇所には、「氏名不詳」の荷物運び人夫1名というような書き方がされているそうです。
霊峰・剱岳初登頂の栄誉は、日本国陸軍にも、陸軍参謀本部陸地測量部測量手・柴崎芳太郎にも、日本山岳会・小島烏水にも与えられることはありませんでした、山頂には、すでに何者かが剱岳初登頂を成し遂げた証し(かなり古い時代の錫杖と鉄剣)が残されていたからです。
しかし、奇妙に感じたのは、物語を語り上げる「映画」の姿勢として、その証しについては全然重きをおいていないことにありました。
登山を成功させるための設備も用具も持たない古代人が、千年もの以前に剱岳初登頂に成功したことについて、なんの「驚き」も描きこまれていないことが、とても奇妙で異常な印象を与えました。
それは、陸軍参謀が、一番乗りできなかった剱岳初登頂への試み自体を、なかったことと全否定する無視の姿勢に通じる同質のものを感じたからかもしれません。
剱岳登頂というほとんど絶望的な困難を克服しようした努力の過程が描かれた最後に、すでに古代人が初登頂に成功していたのだと知って、その古代人に思いをはせることなく、物語の勢いは、まるで撤退するかのように萎んでしまいます。
その黙殺は、信仰に生きる行者なら、それくらいのことはやりかねない、まるで、日常の苦しみを信仰に紛らわすような庶民の異常性や狂気など、最初から相手になどしない、そんなものに駆られて成し遂げられた無名の者の行為など、偉業でもなんでもないぞとでもいうかのような、権力的で頑なな無視の姿勢を感じました。
公権力が、人夫・宇治長次郎に「氏名不詳」の称号を与えて黙殺したように、初登頂に成功した古代人にも「氏名不詳」の無名を与え、一庶民として歴史に埋め込んでしまった権力の姿勢と同じようなものをこの映画のなかに感じたのかもしれません。
これが、この作品に対して、僕の持った「ほんのかすかな失望」の中身です。
もとより、大方は感動したことを、ぜひとも付け加えておかなければならないのは、もちろんです。
(2009東映)監督・撮影:木村大作、脚本:木村大作、菊池淳夫、宮村敏正、編集:板垣恵一、照明:川辺隆之、録音:斉藤禎一、石寺健一、美術:福澤勝広、装飾:若松孝市、山岳監督:多賀谷治、音楽監督:池辺晋一郎、製作統括:生田篤、製作:坂上順、亀山千広、製作プロダクション:東映東京撮影所
出演・浅野忠信、香川照之、松田龍平、モロ師岡、螢雪次朗、仁科貴、蟹江一平、仲村トオル、小市慢太郎、安藤彰則、橋本一郎、本田大輔、笹野高史、國村隼、小澤征悦、田中要次、宮崎あおい、鈴木砂羽、タモト清嵐、石橋蓮司、新井浩文、井川比佐志、夏八木勲、役所広司、藤原美子、藤原寛太郎、藤原彦次郎、藤原謙三郎、
ロケ地・立山連峰、立山博物館、博物館明治村、岩峅寺駅、日石寺、浮田家住宅
第33回日本アカデミー賞最優秀監督賞(木村大作)、最優秀助演男優賞(香川照之)、最優秀音楽賞(池辺晋一郎)、最優秀撮影賞(木村大作)、最優秀照明賞(川辺隆之)、最優秀録音賞(石寺健一)、優秀作品賞、優秀脚本賞(木村大作、菊池淳夫、宮村敏正)、優秀主演男優賞(浅野忠信)、優秀美術賞(福澤勝広、若松孝市)、優秀編集賞(板垣恵一)、第83回キネマ旬報ベスト・テン2009年日本映画第3位、日本映画監督賞(木村大作)、第22回日刊スポーツ映画大賞、石原裕次郎賞、第52回ブルーリボン賞作品賞、新人賞(木村大作)、第64回毎日映画コンクール日本映画優秀賞、撮影賞(木村大作)、録音賞(石寺健一)、2009年度日本映画ペンクラブ賞(木村大作)日本映画ベスト5第3位、第1回TAMA映画賞特別賞(木村大作)、第5回おおさかシネマフェスティバル2009年度日本映画ベストテン第2位、監督賞(木村大作)、撮影賞(木村大作)