この森で、天使はバスを降りた
2004年 12月 11日
見る前に接したこの作品の感想には、「心温まる映画」いうコメントが結構多く、そのために少し違ったイメージをもっていたので、見た後の印象とはあまりにも違いすぎ少し驚きました。
この映画のどこに、心温まるような救いが描かれているといえるでしょう。
見終わった後、僕の気持ちを苦々しいもので満たしたものは、殺人罪の前科のある少女が、再起を賭けたごく小さなコミュニティにとけ込むことさえ叶えられずに、盗みの嫌疑を受けたまま失意の中で死んでいくという、なんとも救いのない結末と受け取れましたが、むしろ、「おかげさまで」寂れた街が活気を取り戻しましたみたいな教訓的なラストシーンの方にあります。
あれでは、まるで平和な社会を維持するために結束を確認するためには、ぜひとも愚かなよそ者の死という「生贄」が必要なのだ、とでも理解するしかありません。
僕にとって、この明るすぎるラストシーンの描き方は、本当にショックでした。
目配りに欠けるこのラストシーンの処理は、まるで虫けらのように悲惨すぎるままに終わったパーシーの人生とは一体なんだったんだと考え込ませずにはいられないものがありました。
少女パーシーは酒乱の義父に強姦同然に犯され、妊娠させられます。
実の母親は、その男を失いたくないために、娘に欲情を向ける男を容認しています。
無理やり妊娠させられたとはいえ、少女は自分の胎内で徐々に成長していく小さな命に深い愛情を抱き始めました。
しかし、酒に酔った男は依然としてパーシーの体を求め、パーシーは拒みます。
男は自分の意に従わず拒む娘に、果たせない欲情に苛立ちを募らせて暴力を振るい、パーシーに宿った子供を流産させしまいます。
そのとき、少女は、男の残酷な「赤ん坊が死んで、口減らしになってちょうどよかったんだ。」という一言にキレて、男を殺してしまいます。
この物語のどこが「心温まる」のか、僕には理解できません。
「生贄」を「天使」と祭り上げて命名し、作品自体を見誤らせることとなったタイトルの考え方にも同意できません。