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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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小津作品の「奇妙さ」の意味

トリュフォーが小津作品を最初に見たとき「生気のない、まるで死んだ映画だ」と感じたという彼の直感に、実はひそかに同感しています。

「映画の本質は、動」みたいなトリュフォーの意図したもの(「ピアニストを撃て」の奇矯さには、形骸化したフランス映画界の権威に対する揶揄や挑発的なアザケリが前提となっていることをある程度承知していないと、この映画の時代的な位置づけを見失うオソレがあると思っています)と少しズレるかもしれませんが、その言い回しを借りれば、小津作品は「ことごとく生気を抜き取った死の影に覆われた映画」という印象から僕はどうしても自由になれないのです。

全体の表情は動かさないまま、顔の一部分だけを微かに歪めて喜怒哀楽を微妙なところで表現する俳優たち、あるいは原節子のあの唇を強張らせる独特の笑みの不気味さ(何回か繰り返し見ていくうちに、じきにそれが「美しい」のだと気づかされますが)は、小津監督がいかに彼ら演技者から「人間臭」を剥ぎ取ろうとしたか、俳優たちが日常的な表情を放棄することに気がつくまで、何度もリハーサルを繰り返させ、その「死」を演じ切れるまでじっと待ったのだと考えられます。

思えば小津作品が「相当変な映画だ」という言い方を、単なる言葉や知識としてなら、これまで随分聞いてきたような気がします。

その「変」とは、例えば、正対しない登場人物たちが、同一方向を向きながら顔を背けあって話すというようなちょっと奇異なシーンの指摘にとどまっているだけで、それ以上踏み込んだまとまったものを読んだ記憶がありません。

だからでしょうか、以前オリベイラの「晩春」における壷の性的な解釈を読んだとき、なぜかこれは違うなという拒否反応が強くて、小津作品を解釈すること自体の違和感を猛烈に感じてしまったのは、きっと僕たちが、その小津の「変」(=例えば、性)が、解明や理解を必要としない「死」という大きな観念のひとつの属性にすぎない、ほんの小さな一部分でしかないものと分かっていたからかもしれません。

あがらいようもなく、ただあるがままに静かに受け入れるしかない「死」というものを、僕たちは、最初から「あえて分かろうとする必要がない」ものとして小津作品を了解していたのだと思います。

すべてのドラマの背後に死の地肌が常に仄見える小津作品の本質とは、そういう虚無と荒廃の果てに滅び行く人間の静かな諦念の軌跡の物語といえるような気がします。

いままで出版された「小津」本のほとんどが、小津監督の荒涼たる内面に踏み込むことなく、まるでキリストの足跡と奇跡をたどる聖書のような畏敬に満ちた回想記が多いというのも頷けるような気がします。

小津世界の奥行きの深さがどれほどのものかは見当もつきませんが、その不吉な「変」の世界に無条件でどっぷりと浸かり込むことの心地よさだけは、実感として確かに分かります。

小津作品においては、それが失意であり、絶望でもあり、そして諦念に耐えるしかない寒々しく乾いた生活が待ち受けているだけのラストシーンに、(突き放されたり置き去りにされたりという感じとは程遠い)すがすがしいもの、あえて言えば「救い」のような安らかな心地よさを感じてしまうということは、冷静に考えてみれば、とても怖いことのような気がします。
by sentence2307 | 2004-12-12 13:06 | 小津安二郎 | Comments(0)