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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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紳士協定

アカデミー賞の8部門にノミネートされ、そのうち作品・監督・助演女優の3部門を受賞したエリア・カザンの演出力を存分に見せ付けた「紳士協定」を見たとき、いくら名作の折紙つきの作品とはいえ、実はあまりいい印象は受けませんでした。

反ユダヤ人主義を告発する記事を書くために、ユダヤ人を装ったルポ・ライターが、表面的にはリベラルな市民のなかに根深く潜む差別の存在に直面してショックを受け、社会の深奥にある差別の実態を苦しみながら暴いていくという衝撃的な告発映画なのですが、しかし、その描き方にどうしても賛同しかねる部分が最後まで鼻について仕方なかったというのが、実感でした。

アメリカ社会の奥深くに巣食うユダヤ人差別を告発していく過程で、人々の差別への無関心こそが、差別という存在を許容し、助長し、ひいては加担さえしているのだと憤る相手を、あろうことか、自分の婚約者にぶつけ彼女自身の問題として問い詰めていくという、なんともやりきれない描き方なのです。

いくら彼女が「自分は、いままで人を差別などしたことはない」と強く否定しても、彼はさらに彼女のその無意識こそが「無意識ゆえの差別」なのだと糾弾し、そのことを「自己批判」しないかぎり、あなたはその無責任という重大な罪からは決してのがれることができないなどと執拗に問い詰め、さらには彼女との婚約の解消さえちらつかせ、彼女を怯えさせます。

彼女がいくら弁明しても、非を認めるまで、彼は決して許そうとはしません。

彼女自身、自分のどこに「非」があるのかさえ分からないうちに、とにかく謝りさえすればいいのかという心境にまで追い込まれ、しかし、それさえ「どういう理由であなたは謝ろうとするのだ。そういうところが、差別を知らぬ間に容認しているあなたの罪なのだ」と詰られる始末です。

これでは、まるで転向を迫る戦前の特高警察か、どこかの党の党員が政治的失態について査問委員会で追及されているのと同じです。

ユダヤ人差別を自分たちの恋愛感情にまで持ち込もうとする彼は、いわば差別の問題はふたりの愛情の問題でもあるのだと無理難題を押し付けて、彼女をぎりぎりのところまで脅迫的に追い詰めていくのですが、この粘着質の執拗な描写には、見ているだけでうんざりさせられてしまいました。

いくら差別の告発映画とはいえ、このような物語の作り方に、いささか疑問符を投げかけざるをえません。

思い返せば、この執拗さは、「極左のオルグが、対立者を論破し、徹底的に屈服させて自己批判させたうえで思想に服従させるあの方法と同じ論法ではないか」という嫌悪感に辟易させられたというのが正直な感想です。

それも、ごく身近なものに対する「内部告発」という姿勢を疑問も無く進めていく強引さに、フツーこのようなことを最愛の恋人に対して本当にするだろうかという疑問を持ちました。

切迫した極限状態を設定して、ぎりぎりの心理状態に役者を追い込み将棋の駒のように動かす方法は、演出家エリア・カザンが役者に対して演技力を磨かせるために推奨したメソッドのひとつかもしれませんが、それはあくまでも、チョッピリ政治臭をおびた訓練のハウツーでしかないために、当然そこには尋常でない嘘っぽさが伴わざるを得ません。

その意味では、非米活動委員会が、カザンの物語口調に敏感に容共の臭いを感じ取って反応したのは、あるいは当を得ていたかもしれません。

あの反論を許さない強い立場(誰しも差別の存在など、表面きって賛成したり出来るわけがありません)をいち早く確保して、論敵を完膚なきまでに叩き潰すという、きわめて政治的な論法を、恋人との人間関係にすり替えて描くという方法が、当時のハリウッドにあってはきわめて斬新な手法と受け取られたのかもしれませんが、しかしそれは、単に巧妙な論理のすり替えによってもたらされた見せかけの効果にしかすぎず、もし当時のアメリカ映画界がこの作品に賞を与えるほどに感激し評価を与えたのだとしたら、それはきっと、その目新しい「すり替えの巧みさ」に惑わされたからではないかという印象を持ちました。

そして、さらに、「紳士協定」につづく「ピンキー」を見たとき、エリア・カザンという人が、どういうタイプの人か、だんだん分かりかけてきたような気がしました。

カザンは、なにも「差別」というものを心底憎んだり、正そうとしたりしたわけではない、単に素材として、なにか観客の耳目を惹くような目新しい「差別」はないかといろいろな態様の「差別」を物色し、善良な知識人や批評家にアピールできるものを次々と用意しようとしたにすぎないのではないかと思うようになりました。

キャリアのない新人監督が、ハリウッドで成功を勝ち取るためには、どうしても目新しい手法や素材を必要としたに違いありません。

しかし、それなら、なぜそれが、他のことではなく、よりによって「差別」だったのかといえば、彼がユダヤ系ギリシャ移民であり、実感として「差別」されることが身近な経験としてあったからだと考えられます。

だから、差別されることの屈辱や憤りを核にして、様々な差別を取っ替え引っ換えして描くことにリアルな実感を込める自信はあったということだったのかと。

しかし、それでは、のちに非米活動委員会に対して密告者という卑劣な役割を演じてまでも自己保身に走ったエリア・カザンという人を説明できたことにはなりません。

差別される側の苦しみが最初にあり、素材としては、それが「ユダヤ人」であろうと、「黒人」であろうと、「ユダヤ系ギリシャ人」であろうと、「共産主義者」であろうと、なんでもこい、自分には、なんでも理解できるし、自由自在に作劇できるのだと自負してみせたパフォーマンスの先には、どうにかしてアメリカ社会に受け入れられたいと願うどこまでも疎外された移民としての飢えた思いがあったのだと思います。

その飢えた思いが媚びに変化していく過程で、「差別」を告発することを思いついたのだと思います。

「告発」という行為が、「媚び」と密接に関係していることを証明できれば、非米活動委員会に対するエリア・カザンの密告も理解できないことではない。

移民という部外者が、「真の」アメリカ人らしく振舞うために、民主主義の大原則を謳いあげるマニュアルどおりの「正義」を実行したものが、結果的に「迎合→内部告発→密告」となってしまったのではないかと考えるようになりました。

(1947アメリカ)監督エリア・カザン、製作ダリル・F・ザナック、脚本モス・ハート、音楽アルフレッド・ニューマン、撮影アーサー・C・ミラー、編集ハーモンジョーンズ、
出演・グレゴリー・ペック、ドロシー・マクガイア、ジョン・ガーフィールド、レステ・ホルム、アン・リヴィア、ジューン・ハヴォック、アルバート・デッカー、ジェーン・ワイアット、
by sentence2307 | 2010-08-22 08:57 | エリア・カザン | Comments(0)