友成達雄
2004年 12月 18日
東京生まれ、錦城中学中退、映画芸術協会を皮切りに、国活、東亜キネマ、松竹蒲田、阪妻プロ、松竹下加茂、P.C.L.(のちに東宝東京)など多くの撮影所で腕を磨き、時代劇、コメディ、メロドラマなどジャンルを問わない活躍を見せた職人的キャメラマン、と資料では紹介されています。
「フットワークの軽い仕事ぶりは、早撮りの渡辺邦男監督、喜劇の名手斎藤寅次郎監督などからも厚い信頼を得て」いたというクダリの記述を読んで、そういえば撮影の遅い小津監督が、たまたま作品が早く撮り上がった時などに「どうだい。オレも、ちょっとした『渡辺』安二郎だろう」と言ったという言葉を思い出しました。
早撮りといえば、なんといっても渡辺邦男監督です。
渡辺監督ご自身が丹念に記録をとっていたということですから、残されている数字は「極めて」付きの信憑性があると思います。
現代劇108本、時代劇118本、計225本(ちなみに日本映画データベースでは237本とありましたが、多分監督補助や正続篇のカウントの仕方が違うかもしれません。そして加うるにテレビ映画が209本に及ぶと付記されています。)とあり、例えば1950年から60年の間に撮られた本数の合計は、なんと108本に上ります(計上されます、といった方がいいくらいですね)から、数字だけでいえば54本の小津監督が二回生き直してもなお届かないという驚異的な数字ですね。
例えば1952年13本を撮ったこの年の封切日を見れば、その凄まじさが分ります。
1月31日、2月14日、3月6日、4月24日、6月2日・19日・26日、7月10日・31日、10月2日、11月27日、12月4日・29日です。
その猛烈な渡辺監督に付き合ったという友成キャメラマンの撮影本数は、データベースによれば、182本と記されています。
自慢する訳ではありませんが、こうデータが揃ったからには、マニアックな性格からして両者がシンクロしている作品を付け合せてみなければどうしても気が済みません。
一緒に組んだ作品は東宝、新東宝で出会ってから撮った30本、その内訳は37年から48年までで、渡辺監督の狂乱の1950年以降の時期では、僅かに3本しか一緒の仕事はなかったようです。
えっ 斎藤寅次郎監督とともにした作品の方もですか?
いやあ、残念ながら余力が付きました。
そういえば、tomonariさん? この音どこかで聞いたような響きですね。
友成キャメラマンの代表的な仕事として、「幻影の女・第1回」20、「寂しき人々」24、「愛の秘密」24、「白蘭の歌」39、「南から帰った人」42、「ハワイ珍道中」55、「人斬り地蔵」56、「太陽娘と裸族」58が挙げられていますが、「関の弥太っぺ」55を追加させておいて下さい。
僕が見たのは、加戸敏・長谷川一夫版の「関の弥太っぺ」でしたが、瞼の母とか沓掛時次郎とか今はすっかり作られなくなってしまいましたが、そういう映画とても好きなんです。
でも、健さんの映画には、ああいう感じがまだまだ残されているような気がします。