人気ブログランキング | 話題のタグを見る

世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

山桜

ここのところ(10年ほどになるのでしょうか)藤沢周平作品がもてはやされているようで、小説の映画化作品を立て続けに見てきました。

大いに話題になったあの「たそがれ清兵衛」2002からだとすると、この「山桜」で、ちょうど5作目に当ることになりますね。

「たそがれ清兵衛」のあと、「隠し剣 鬼の爪」2004、そして「蝉しぐれ」2005「武士の一分」2006と続いたんでしたよね。

どの作品も結構話題になったので、そうしたなかで作られた「山桜」は、作る上で、それなりのプレッシャーはあったと思います。

それまで必ずラストにあった剣客同士の壮絶な死闘場面を期待していた友人たちには、この「山桜」は、ちょっと期待はずれの部分もあったかなという話しも聞いたことがありましたが。

しかし、自分が今回見た印象からすると、友人たちのそのような不評は見当違いの部分も有り同調できないというのが僕の本音です。

いや、むしろこれまで撮られてきた作品の視点そのものへの違和感の方がコトサラに際立ったくらいでした。

「たそがれ清兵衛」は、正直、真田広之よりも幸薄い宮沢りえの耐える演技の方が強烈に残っていますし、「隠し剣 鬼の爪」なら、永瀬正敏よりも、なんといっても松たか子の控えめな東北女性の芯の強さの魅力の方がはるかに勝っていたと思います。

「蝉しぐれ」にしても、待ち続けるおんな・木村佳乃が演じたひたむきに耐えるおんなの存在感に胸打たれましたし、「武士の一分」でも、檀れいが演じた自分を殺して夫につくす一途な妻の健気さの方にこそ物語を大きく支配していた力があったと思います。

物語の骨格は、明らかにそのような女性たちの物語なのに、相も変わらずラストの剣客たちの壮絶な死闘場面の描写にこだわり、比重をかけすぎたために、なんだか妙な偏りの印象と違和を感じさせたのかもしれません。

まあ、こんなふうに断言してしまってはいけないのかもしれませんが、物語のパターンとして、強すぎる孤独な剣客と薄幸の女性とが「ある事件」をめぐって織り成す物語という作品ばかりを立て続けに見ていると、(個々の作品は本当に素晴らしい物語なのに)どうしても「またか」というマンネリ感が付きまとい、「それなりの感動」を受けるもう片方で、いささかウンザリした思いに捉われたこともまた事実でした。

そんな印象を持っていたときに、篠原哲雄監督作品「山桜」に出会いました。

そして「なるほどな」と納得するものがありました。

いままで藤沢周平作品の映画化といえば、多くの作品が「孤独な剣客」の側に焦点をあてられすぎて作られていたのではないか、しかし、彼の小説世界(思えば、藤沢周平作品は、とても女性的な作品です)を精密に伝えるのには、むしろ「耐える女性」の物語として描いた方がはるかに相応しかったのではないかという印象を「山桜」を見て強く感じました。

「山桜」は、そんなふうな自分の長年の思いが、とてもいい関係でスッポリとツボに嵌るという好印象を覚えた映画だったのですが、見ていてひとつだけ違和感を覚えた部分がありました。

2度目の嫁ぎ先からも離縁されて出戻ってきて、打ちひしがれている娘・野江(田中麗奈が好演しています)に対して、 檀ふみ演じる母親の瑞江が、「あなたは、ただまわり道をしてきただけなのですよ」と慰めの言葉をかける場面があります。

この場面は、やがて野江が意を決して、手塚弥一郎の母親を訪れるという場面の直前に用意されている場面ですから、あきらかに説明のしすぎというか、あまりにもくどい感じをうけ、これでは母親の瑞江が、まるで来たるべき娘の運命を言い当ててしまう預言者のようではないか、はたして原作でもこんなふうに、母親の瑞江は、娘・野江を弥一郎の母親の元へ行くことを促すような描かれ方をしているのだろうかという疑念にとらわれ、原作を確認せずにはいられなくなりました。

さっそく図書館に行って、この「山桜」が収載されている「藤沢周平全集 第五巻」をみてみました。

結構短い小説だったのには、すこし意外な感じを受けましたが、やはり、予想したとおり、母親が娘に「あなたは、ただまわり道をしてきただけなのですよ」などと言う部分はまったくありませんでした。

小説のなかでは、自分のことを思い続けてくれていた弥一郎の気持ちを知り、野江が自身で「自分はまわり道をしてきたのかもしれない」という思いを抱いて、だから自分から弥一郎の母親に会いに行こうとしたのであって、もし、母親の瑞江からあのように諭されたことで会いに行ったのにすぎないのだとすれば、これは物語の根幹にかかわる大きな問題です。

つまり、どこまでも母親の影響下から脱しきれず、自分の運命の選択も、たえず親に委ねるしかない世間知らずの箱入り娘の物語にすぎないと感じたからでした。

単にそういう動機で、弥一郎の母親を訪ねたのだとしたら、すでに失敗に終わったふたつの結婚を選択したときとナンラ変わらない自我を喪失したアヤツリ人形でしかない親掛かりの我がまま娘の物語にすぎないと思いました。

藤沢周平の原作には、野江自身が、「自分は、人生のまわり道をしてきたかもしれない」と思う描写が三箇所でてきます。

まず、野江が茶の湯を習っていた17歳の頃から、弥一郎が野江のことを気にかけていたということを彼女がはじめて知ったとき。
「生けた桜の花のむこうに、手塚弥一郎の笑顔が浮かんでいるのを感じながら、野江は自分が長い間、間違った道を歩いてきたような気がしていた。だがむろん、引き返すには遅すぎる。」

次は、桜の枝を手折ってくれた弥一郎から「いまは、おしあわせでござろうな?」と問い掛けられたとき、野江がとっさに「はい」と答えてしまったことを悔いる場面です。
「しあわせか、と鋭く問い掛けてきた弥一郎の顔が浮かんできた。そのひとに、しあわせだと答えるしかなかった自分があわれだった。もっと別の道があったのに、こうして戻ることができない道を歩いている。自分をあわれむ気持ちが、野江の胸にあふれてきた。」

そして最後、小説では、農民を食い物にして不正な私欲を満たす藩の重鎮・諏訪平右衛門を斬り、処分を保留されたまま入牢している弥一郎の留守に、彼の母親を訪ね、まさに家に招じ入れられようとするとき、野江は突然発作のような嗚咽に見舞われます。
「履物を脱ぎかけて、野江は不意に式台に手を掛けると土間にうずくまった。ほとばしるように、目から涙があふれ落ちるのを感じる。とり返しのつかないまわり道をしたことが、はっきりとわかっていた。ここが私の来る家だったのだ。この家が、そうだったのだ。なぜもっと早く気づかなかったのだろう。」

多くの人が、自分の帰るべき場所がわからず、あてもなくさまよい続け、「ここは自分が本来いるべき場所ではない」と思いながら生きている喪失感と絶望感に満ちた現実が暗示されている痛切な場面です。

しかし、この部分を映画は、座敷にあがって正座した野江が、持ってきた桜の枝を弥一郎の母親に渡したのちに、弥一郎の母親から「あのことがあってから、たずねて来るひとが1人もいなくなりました。さびしゅうございました。ひとがたずねて来たのは、野江さん、あなたがはじめてですよ」と語りかけられたのを切っ掛けに、はじめて落涙しています。

いかに自分がこの家に必要とされ、そして待たれていたかということを野江がどのように感動したかを、具体的に観客に分からせるために、シナリオは母親に懇切丁寧に彼女の苦境を説明させたうえで、野江の感動をもまた説明しようとしたのだと気がつきました。

しかし、野江が弥一郎の(物体としての)「家」にじかに触れて、ここが自分の来るべき真正な居場所だったのだと気がつく直截的な実感として情感で理解すべき原作の意図が、その映画化においては理屈で理解しなければならない母親の述懐にこめた説明に改変されてしまったことは、如何にも残念でなりません。

それほどまでに説明をしなければ、観客は理解できない鈍感で愚かなものとしか考えられていなかったのか、という惨憺たる気持ちにさせられてしまいました。

しかし、それにしても、野江を演じた田中麗奈が、弥一郎の母親に待たれていたことを知り、そして、こここそが自分の居場所だと感情を高めて落涙する演技には、正直感動しました。

役者冥利につきる役柄と、それに十分に応えることのできた田中麗奈の演技だったと思います。

そして、この場面を見ながら、ふいに「東京物語」のラスト、義父の笠智衆と対座した原節子が、ひとりで生きていくことの辛さに一瞬泣き崩れる場面を思い出していました。

しかし、あの場面で、原節子がどのような泣き顔で嗚咽したのか、どうしても思い出せません。

この過酷な世界で孤独な女が、ひとりぽっちで生きていかなければならない痛切さだけは、はっきりと思い返すことができるのに、その泣き顔がどんなだったか、どうしても思い返すことができないのです。

過日、その場面を見る機会がありました。

そのシーンでさめざめと泣く原節子は、両手で顔を覆っていて、その悲嘆の表情はうかがい知ることができないようになっていました。

やはり、役者に陳腐な演技など決して許さなかった如何にも小津安二郎らしいやり方だったのだという思いと、たとえ悲嘆の表情が両の手で覆い隠されていたとしても、これから先も孤独の中で余生を生きていかなければならない中年女の痛切な孤独だけは、何十年後の観客にも、はっきりと印象付けることのできた小津演出の冴えを確認したような気になりました。

(2008)監督:篠原哲雄、原作:藤沢周平「山桜」(新潮文庫『時雨みち』所収)、企画・小滝祥平、梅澤道彦、河野聡、鈴木尚、製作・川城和実、遠谷信幸、遠藤義明、亀山慶二、脚本・飯田健三郎、長谷川康夫、撮影・喜久村徳章、美術・金田克美、照明・長田達也、音楽・四家卯大、主題曲/主題歌・一青窈、録音・武進、編集・奥原好幸、助監督・山田敏久、SFX/VFXプロデューサー・松本肇、
出演・田中麗奈、東山紀之、村井国夫、篠田三郎、檀ふみ、富司純子、北条隆博、南沢奈央、千葉哲也、高橋長英、永島暎子
by sentence2307 | 2011-04-29 21:32 | 映画 | Comments(0)