アカルイミライ
2005年 01月 09日
それは、いい年をしたオッサンも、結構若い連中も、共通して同じような言い方をしていたので、その意味からすれば、この映画は「世代間による対立や現代社会に対する価値観の相違を巧みに」とらえることには成功してはいても、この映画自体が観客に与えた反応としては、この作品の公式テーマ「世代間の対立や価値観の相違」という認識とはアイ反して、老いも若きもおしなべて和気藹々と「わけ分からん」という共通認識で一致していたのには、なんか皮肉な感じがして苦笑してしまいました。
そして、その「わけ分からん」は、きっとこのタイトル「アカルイミライ」が、内容のどの部分とつながるのかさっぱり理解できないというところにあったのだろうと思います。
この映画に描かれている雄二や守に、果たして、アカルかろうがクラかろうが、そもそもミライなんてものがあったのかと僕ミズカラ自問し、「あった」と仮に自答しようとする地点から、僕はこの黒沢作品を考えてみたいと思いました。
この作品には、旧世代から差し伸べられる「分かろう」とするポーズへの怒りが満ちています。
若い世代に興味がありそうな振りをして近づき、「君たちが好きなCD」を聞く振りをして、あたかも理解したふうなポーズをよそおい、すべてが分かったようなツラで人の気持ちの中にずかずかと土足で踏み込んでくるその無神経さ、例えば、雄二がなによりも大切にしていたCDを返すことをまったく忘れ去っている社長に対する雄二の怒り=殺意にまで昂まっていく逆上の場面に、この作品のメッセージが一挙に集約されていると思います。
それは多分、勝手に「理解」され、彼の中で勝手に「消化」されてしまう者の「怒り」です。
大人たちは、何のために、そして何故理解したがるのか、多分それは、ただ若いヤツらを便利に使いたい、上手に支配したいためなのは明らかです。
ただそれだけのことなら、そうされてもいいし、多分我慢もできる。
しかし、それを「理解」者みたいなツラをして善意を押し付けてくるそういう欺瞞だけはなんとしても許せない。
功利だけでつながろうとするみえみえのむなしい「人間関係」や、他人との距離を程よく測ることに疲れ切って、もはや社会とのつながりを半分拒んでいる雄二や守にとって、その社長・藤原の傲慢は死を課すに値する許しがたいものだったのだろうと思います。
この「アカルイ」を、見通しの明るい「希望に満ちた明日」みたいにストレートに理解し、そしてそれをこの映画の中でなんらかの答えを見つけようとすれば、きっと結論は「わけ分からん」になってしまうと思います。
多分この「アカルイ」は、明日の限界までもすっかり見通せてしまう、そういう虚脱をともなうような絶望的な明るさのことなのかもしれません。
なにも特別なものである必要はなにもないあるがままのもの、そういう「ミライ」なのだと思います。