「チチカット・フォーリーズ」67
2005年 01月 22日
実は、このセリフをそのまま、入社したての時に上司だった人に訊いたことがありました。
答えは、「会社の会議とは、会社のある方針をみんなで決定するというよりも、その方針を全社員に遍く理解させることの方が目的なので、出席することは強制だが、会議の場で居眠りしても一向に構わない。」でした。
しかし、その上司は、電話応対などで会社の方針を正しく理解していないような受け答えをしようものなら、係りに厳しい叱責を与えた人でした。ですので僕としては、会議には立ち会いますが、意識的に「参加」したことはありません。
あからさまに寝たりはしませんが、「発言」を求められれば積極的にはぐらかして、だいたいはぼんやりと他のことを考えています。妄想とか連想とか、そんな感じです。
そして、どんなことが多いかというと、なんといっても映画のこと、なかでもギネス・ブック的なことが多いかもしれませんね。
そんな時に考えたことのひとつが、映画のタイトルで一番長い題名は? というものでした。
まあ、だいたいは、キューブリックの通称「博士の異常な愛情」、つまり「博士の異常な愛情または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」を挙げると思います。
僕もそうでした。
しかし、すぐにもうひとつの長いタイトルを思いつきました。
あれです、通称「マラー/サド」、つまり「マルキ・ド・サドの演出により、シャラントン精神病院の患者たちによって演じられたジャン=ポール・マラーの迫害と暗殺」です。
英国の有名な舞台演出家ピーター・ブルックの作品でした。
この極めて刺激的で挑発的な作品を思い出した時、切っ掛けの「タイトルの長さ」など、もうどうでもよくなっていました。
この映画の設定は、サド侯爵が精神病者たちに治療法のひとつとして寸劇を演じさせるというものなのですが、鉄格子のこちら側で寸劇を眺めている貴族階級と、その映画を現在見ている観客とが同位置に置かれてしまうような、革命の激しい息吹を背景に持っていた動乱の時代の貴族階級へ向けられた糾弾であるとともに、現代の観客に対する糾弾という二重構造になっているという刺激的で素晴らしい作品でした。
素晴らしいと感じながら、しかしまた、同時にどこか嘘っぽいなという感じも抱いたのかもしれません。
登場人物たちの動きが、リアルで素晴らしいと感じたということは、逆に言えばそれらがすべて指示され統制された「演技」にすぎないと思ったからでしょう。
もし本当の精神病者によって実際に演じられる映画というものが撮れたとしたら、どんなに素晴らしい映画が撮れるだろうかとチラッと考えたかもしれません。
しかし、この考えは、人権問題など映画にとって自殺行為とも言い得るとても危険な考えなのは僕自身も認識していた積りです。
映画は常にフィクションに守られている部分がありますものね。
そのことをすっかり忘れてしまった頃に、ひとつの映画についての紹介記事に出会いました。
フレデリック・ワイズマン監督の「チチカット・フォーリーズ」・マスチューセッツ州ブリッジウォーター精神病院刑務所の日常、という副題がついていました。
そして、この映画がアメリカ映画史上猥褻罪と国家保安上の理由以外で上映が禁じられた唯一の映画なのだそうです。
1991年に上映が解かれたときに明らかにされた上映禁止の理由「受刑者たちのプライバシーの侵害を保護する」という大義名分が、この映画の公開それ自体、そして内容そのものによって突き崩された、とその紹介記事はさまざまな例を挙げて論証していました。
そこには人間の人間に対する過酷にしてもっとも本質的な陵辱のカタチが描かれているといっています。
僕がもっとも感動した箇所の一文を引用します。
「看守の多くは彼らなりの人間的限界の中でまじめに仕事をしている。」
例えば、「看守」という言葉の前に「ナチスの」と書き加えれば、あるいは、より多くのイメージが見えてくるかもしれません。
そこらの気のいい勤勉なオッサンたちが、時間通りに強制収容所に出勤し、そしてユダヤ人を疑いもなくせっせと、そして真面目に、ただの仕事としてマニュアルどおり忠実に、殺戮を「日常的にコツコツとこなしていった」あのアウシュヴィッツの日常=狂気を思うと、本当に空恐ろしくなりますものね。
僕にとって、是非とも見てみたい映画の一本となりました。
会議の内容は終了後、同僚によく聞いておきました。