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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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新藤兼人が記した小津監督の最期の言葉

「キネマ旬報」7月下旬号掲載の「新藤兼人が遺した言葉」は、新藤監督の映画人生にとって、大きな影響を与えた人たちの思い出が記されたとても興味深いコラムです。

そこには、小津安二郎、乙羽信子、依田義賢の3人を回顧するエピソードが紹介されているのですが、どのコラムにも溝口健二の影が大きく覆い、溝口監督を生涯の師と仰いだ新藤監督らしいコラムになっています。

この号に掲載された文章も、まずは冒頭から、溝口監督の「最近、小津君は、どうしてますかね」という、新藤監督への問い掛けから始まっています。

当時、新藤監督が、松竹大船で仕事をすることの多かったことを溝口監督も十分に承知しての問い掛けだったのですが、続けてすぐに、大船撮影所の小津監督の方でも溝口監督のことを大変気に掛けておられたエピソードを紹介しています。

ただ、読者としては、この心温まるエピソードの余韻を、さらに発展的に書き綴って余韻をもっと楽しみたいと思っている矢先に、新藤監督は、早々に「二人の芸術家は、・・・互いに相手を信頼しておられるようであった。」と切り上げて、読者の期待を断ち切り、まるで急き立てるような書き方で、病床にあった最期の小津監督に逢ったことについて書き出しています。

急速に文章のトーンが重々しくなるその変化には不吉なものを感じざるを得ません。

時折、苦しげに息遣いをととのえながらも、懸命になって客の応対に心を配る様子が、いかにも小津監督らしいと書き継ぎながら、新藤監督は、ふと「晩春」の一場面に思いを馳せています。

うっとりするような名文なので、雑誌が失われてしまう前に是非とも書き残しておきたいと思いました。


《「晩春」のなかで、いまも私の眼に残っている一つのシーンがある。
娘の婚礼が終って父がひとり帰ってくる。
画面の奥の暗がりから出てきて、左側のわが家の門の格子戸を開いてはいる。
ややロングの情景で門のなかには二階屋がひっそりとある。
何ともいえない場面であった。
しいていうなら人生がそこにあるという場面であった。
もちろんこういうところでは、俳優のうまさも必要であるし、カメラの技術も重要な支えになるし、演出もうまくなくてはいけない。
しかしそれだけでは、「うまく作る」だけのことである。
そこに生きているものをみるのは、それらの背後に何があるかである。
作者が生きて、画面の中を歩いてきて、門の戸をあけねばならない。

〔芸術家は潔癖を失ったとき職人となる。映画の創造には、潔癖は最後の壁である。〕

安全弁のように潔癖は自動装置となって、そこに穴があることをしらせてくれる。
潔癖は窮屈な世界へ自己を押しこめて、はじめて生まれる。
知恵で感得しただけではしようがない。
作家の肉体化とならないと有用ではない。
独身生活ということがまずさっぱりしている。
借金もないし、ぼう大な財を貯えられたわけでもない。
収入はうまい具合に消費される生活だった。
こういう人の作った作品が極めて特徴的な個性を持つのは自然の理である。
小津作品の、シーンが変るたびに、2カット、或いは3カット介入してくる静止した空間は、小津作品のスタイルというよりは、小津作品の内容の呼吸が介在しているといっていいようである。
小津さんのインサート(いや、生きたワン・ショット)はまことに美しい。
それは、画面一ぱいの枝をひろげた大木だったり、ビルの壁の明暗と窓だったり、無人の砂浜だったりする。
それは独立した創りあげられた存在であって、在るものをそのまま写したものではなく、在るもののなかから創りあげられた、あるがままのものである。
エイゼンシュテインが、「戦艦ポチョムキン」でみせた、めざましいフィルム革命のモンタージュ、あれに存在したフィルムの断片とは質的にちがうのだが、生きて存在し、他の関連においてぬきさしならぬという点では、同じ意見のものであろう。
小津さんに、このことについてきいてみる機会がなかったのは残念なことである。
いや、問うても笑ってこう答えられるだろう。
新藤やん、あれはね、ただおいてあるだけだよ。
小津さんがいよいよ絶望的になられて、私たちには暗い気もちがつづいた。
シナリオを書いていてもふと思い出す。
麻雀で遊んでいるときも頭をはなれない。
この瞬間にも、小津さんはベッドのなかで、苦しい、生きるたたかい、をつづけていられるかと思うと、たまらなかった。
小津さんは、生きて、もう一度仕事をしようと思っておられた。
ベッドで小津さんが、こういわれたそうだ。
「こんな病気で死んでたまるか」と。
12月12日の晩、小津さんは北鎌倉の家に帰ってこられた。
棺の中の小津さんにお別れをした。
静かなお顔だった。
もう楽になられたな、と思った。》
by sentence2307 | 2012-09-16 21:44 | 小津安二郎 | Comments(0)