物語収集狂
2012年 10月 16日
最近、そんな感じの体験をしたので、ちょっと書いておこうと思います。
それは、先週の日曜日の読売新聞朝刊の読書欄に掲載されていた「空想書店」と題する記事の一文でした。
著名人を書店主と模して、その人らしい図書を紹介してもらうという企画ものです。
その人の本の嗜好を知るということは、同時に、その人の人間性を知ることと同じだと常々思っている自分なので、毎週大変楽しみにしている記事です。
書き手は、「60歳のラブレター」や「白夜行」「神様のカルテ」「ガール」などを撮った新進映画監督の深川栄洋氏、その記事で、深川氏は、開口一番、「本が嫌いでした。今も得意ではありません。」と読者をまず牽制します。
しかし、なぜ遊びの方が読書より勝っていたかというと、「読書をして楽しいと感じた経験が」少なかったからだと幾分遠慮深気に書いていますが、たぶん、書く場所が「読書欄」ということもあって一応は婉曲に表現してはいるものの、ぶっちゃけ「読書を楽しいと感じたことなんか皆無だった」というくらいの気持だったくらいの察しはつきます。
この欄を読む人たちが、当然本好き、読書好きな読者でしょうから、この逆を突いた挑発的な書き方は、かえって読者の気持ちを一挙に鷲掴みにしたかもしれません。
実は、当の僕もそうでした。
このあと深川氏が、どんなふうに「読書欄」の相応しい内容にまとめるのか、「お手並み拝見」みたいなちょっとスリリングな気持ちで読み進みました。
深川氏は、こう書いています。
「文章に向き合うのは苦手な私ですが、物語は好きです。
そういう人は案外多いのではないでしょうか。
物語の中に自分を置くのは、とても楽しい。
世の中や人生に意味を見つけることはとても難しいけれど、物語に自分を置くとクライマックスの後には達成感が味わえる。」
大袈裟ではなく、この文章を読んだとき、ちょっと雷に打たれたようなショックを受けました。
このブログを始めるとき、ブログ名をどうしようかと考え、迷ったことを思い出しました。
実は、ブログ名の「収集狂」は、ウィリアム・ワイラーの「コレクター」から連想したものなのですが、なにを収集するかというと、当初は広い意味で、あらゆる「物語」を収集したいと考えていました(「物語収集狂」ですよね)。
ストーリーっていうのは、象徴的なオリジナルなものが中心にあって、たぶんそれが枝分かれしながら、万か億か兆かは想像もできませんが、小さなエピソードに細分化される、そしてそのタイプは、きっとある法則のもとで幾つかのタイプに体系化できるのではないか、と思ったのです。
たとえば「桃太郎」の話なんか、きっと原初的なオリジナルに相応しい、幾つもの枝分かれに十分に耐える物語なのではないかと。
出自の秘密、両親との葛藤、敵を求める旅の途中で出会う仲間たち、そして地の果ての死闘、なんていかがでしょう。
だんだん考えていくうちに、もしかしたら「桃太郎」って「七人の侍」の原型なのかも・・・なんて思えてきました。
あ、そうそう、なぜ「物語収集狂」にならずに、結局「映画収集狂」に落ち着いてしまったかというと、「物語」を「収集」している「狂」みたいな人が既にいたからです。
愛知学院大学の神山重彦教授が運営している「物語要素辞典」
http://www.aichi-gakuin.ac.jp/~kamiyama/
こんな物凄いものを見つけてしまった以上、自分なんかの限界は、もう見え見えです。
瞬間的な虚脱感あるいは脱力感に襲われ、もはや再起などできませんでした。