世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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榎本健一

週末に古い新聞を整理していたら、ちょっと前の日経新聞に、なにやら赤い線で囲んである記事に遭遇しました。

赤いボールペンで囲ったこと自体忘れてしまっているくらいですから、その記事がどのような内容のものだったかまでは、当然ですが覚えているわけがありません。

記事の見出しは、「山頂の金時むすめ80歳、箱根・金時山の茶店守り66年、名付け親は陛下」というもの、それにしても自分のつけた赤線はなんだったんだろうと訝しく思いながら記事を読み進めたところ、理由はすぐにわかりました。

そうだ・そうだ、エノケンのことが書いてあったので、思わず印をつけたのでした。

記事というのは、ざっとこんな感じのものです。

66年間、箱根の金時山の茶店を守りつづけてきたこの80歳のおばあさんが若い頃、山に来たエノケンをおぶってあげた縁で、親しく言葉を交わしたことがきされています。
(記事には、その他幾人かの著名人についても書かれていますが)

「エノケンさんは、足を悪くしていたので、途中まで馬、あとで私がオンブをした。母に代わって茶屋を守っていることを知り、『親孝行ものだ』とほめてくれた。」

な~んだ、なんのことはない、わざわざ記事を要約したって、その原文とさして分量が変わらないのなら、なにもわざわざ要約する必要なんてないじゃないかと我ながらその迂闊さに苦笑し、唖然とし、しばし呆然とはしたものの、そうだ、その時は、たまたまある本でエノケンのことについて読んだばかりだったので、反射的に思わず印をつけたのだと思い出し、いくら迂闊だったかもしれないけれど、そんなふうに自分を責めるものじゃあないと気を取り直しました。

その本というのは、演劇(演芸)評論家の矢野誠一が書いた「昭和の芸人・千夜一夜」(文春新書808)という、新書判にして320頁(いまどきの新書からすれば優に二冊分の分量としたってOKな頁数です)という少し大部の本なのですが、多頁数と堅苦しそうな書名の鬱陶しい雰囲気とは異なり、一気に読み終えてしまったほどのスコブル面白い本でした。

内容は書名のとおり、伝説的な昭和の芸人たち88人の奇人変人ぶりを余すところなく描いた抱腹絶倒のエピソード本なのですが、その、これでもか・これでもかと押しまくる力強い描写力が、破滅的としかいいようのない彼ら芸人たちの破茶滅茶なエピソードにも少しも引けをとっていないド迫力で描かれています。

いや、むしろ、少年時代から寄席に通いつめたという矢野誠一自身の、大衆演芸に対する深い思い入れ(愛情というより、執着という感じです)に加え、狂喜乱舞しつつ人生を面白おかしく疾駆した芸人たちの生き様への限りない共感が、一層洗練された書き振りとして昇華されていて、そこには「揶揄」を突き通した「庇護」をさえ感じさせてしまうくらいのパワーによって、おもねりもせず、寄りかかることもなく、絶妙な距離感を保って、それがとても心地よく、どの破滅的なエピソードをも、実にイキイキと描き切れたのだと思います。

そんなふうに著者のぬくもりをジカに感じながら安心して読書できた、ここ最近ではついぞ経験したことのなかった幸福な時間を過ごすことができました。

しかし、それら数々のエピソードの根底にあるものが単なる芸人たちへの無節操な「ヨイショ」でない証拠には、その短い描写のなかに、ズシリと重い彼ら・彼女らの痛切な人生の核心がそれぞれに抉り取られていて、読後には芸人・役者たち(すでに彼らは故人か、行方不明者です)に対する筆者の限りない敬意に基づいた弔意であることに気づかされ、厳粛な思いに打ちのめされたからだと思います。

例えば、「口癖は『喜劇人は同情されたらおしまい』」と題する「榎本健一(1904~1970)」の項、

「エノケンの前にエノケンなく、エノケンの後にエノケンなしと言われたこの国の喜劇王榎本健一だが、エノケンはあくまで観客のつけた愛称で、当人はエノケンさんあるいはエノケン先生と呼びかけられても、絶対に返事をしなかった。」
という一文から始められているのですが、やかまし屋の父親に殴られ通しで過ごした幼年時代、その父親が大切にしていた金魚を焼いてしまったエピソードから始まって、小学校の通信簿の「操行」に「丁」とつけられたのを「甲」と書き換えたのが露見し、そのまま学校まで引きずっていかれたところ、父親のその逆上振りを見かねた教師の方が、しまいには取り成してくれたというエピソードなどを紹介したあとで、筆者・矢野誠一は、「なまじ『丁』だったのがいけなかった。ひとつ上の『丙』なら、彼も直しようがなかった」と、まるで、配慮が足りなかったのは教育行政の方であり、「丁」を改竄した榎本健一には、いささかのトガもなかったかのような書き振りには、思わず苦笑させられました。

1922年、浅草オペラ根岸歌劇団のコーラス部員になった翌年には、はや頭角をあらわし、演目「猿蟹合戦」にその他大勢の猿役で出演した榎本健一は、みんなが大立ち回りで右往左往しているさなかに、ただ一人ご飯の鉢を抱え、こぼれ落ちた飯粒を拾い続けて客席の大爆笑をひとり締めしたと伝えられています。

以来、猿の役はエノケンの十八番となり、疾走する自動車の右の窓から飛び出して、車のうしろを回りこみ、左のドアから再び乗り込んだという敏捷伝説が残されていますが、この演劇スタイルは、その後、「猿」ばかりでなく、出演したあらゆる舞台・映画で発揮されて売り物となり、和製エディキャンターの異名を取るまでにいたります。

この敏捷さを売り物にした演劇スタイルが、戦時下にあった当時において、多くのものが戦意高揚の風潮にとらわれることが多かった芸人(エノケンのライバルだった古川ロッパも、軍事色の濃い作品を積極的に上演しています)とは一線を画し、喜劇の王道を歩む歌舞伎狂言のパロディ「助六」「法界坊」「勧進帳」を演じるとともに、「弥次喜多」「研辰の討たれ」「西遊記」「森の石松」「らくだの馬さん」「どんぐり頓兵衛」などの上演を通し、戦時体制そのものに醒めた姿勢をとり続けることができました。

それは、「日中戦争に散った榎本健一の同伴作者・菊谷栄をはじめとする、エノケン一座文芸部につどった作家連に左翼くずれが多く、時代に対して彼らの抱いた韜晦の念が、結果として榎本健一の戦争との距離感をもたらすことになった」と筆者・矢野誠一は記しています。

やがて終戦を迎え、平和と平穏が訪れるはずだった榎本健一には、ひたすら無念と悲惨の厳しい日々が待ち受けていました。

インフレによる物価高騰と労働条件の改善は、独立した劇団の運営を困難にし、1950年をもって株式会社榎本健一劇団は解散に至ります。

さらに1957年には、溺愛していた長男・鍈一を26歳の若さで失います。

そして、この葬儀の当日も、エノケンは東京宝塚劇場の舞台「パノラマ島奇譚」で、客たちを大笑いさせていました。

1952年に発病し、以来宿痾となっていた脱疽の悪化で、1962年には片足切断に追い込まれ、売り物の軽妙な動きも奪われて、何度か自殺をはかりますが、皮肉なことに不自由な足のために果たせなかったことで、逆に、舞台への執念を取り戻し、いらい「喜劇人は同情されたらおしまい」が口癖になったということです。

ふたたび舞台に立つために、多大な苦痛を伴う義足をつけることを決意した榎本健一は、時代劇にも使用できるよう膝の部分をバネ仕掛けにして正座を可能にして、その義足の発する奇妙な音を利用したギャグを考案し続けたといいます。

最後の仕事となった1969年12月帝国劇場「浅草交響楽」の演出では、稽古場の固い床の上に、不自由な身体で90度の角度で倒れて見せ、「ここまで演らなきゃ駄目なんだ」と叫び、つづけて「おまえら、喜劇を演ろうなんて思うなよ」と絶叫しました。

そして筆者・矢野誠一は、「喜劇役者・榎本健一の、喜劇を目指すすべての人への遺言だったと思う」と結んでいます。

榎本健一の悲痛な全人生が、このたったの4ページにも満たない紙幅に見事に凝縮されて余すところなく描かれています、感心を通り越して、ただ感無量。

生きるためのすべての希望を奪われ、絶望の淵に追い込まれた「嘆きの天使」は、みずからの生を断ち切ろうと試みながら遂に果たせず、ならば自分の不具を大衆にさらし、徹底的に痛みつけることを見世物にし、その無様さを観客に笑ってもらうしかないと考え、世間に挑みかかる悲痛で凄惨な喜劇人の生き様(しかし「これ」が「生きる」と言えるかは疑問です)の無残さ・残酷さが胸苦しくなるくらいに圧し掛かってくる迫力ある筆致でした。

しかし、ただこれだけなら、迫りくる人生の終わりに焦慮した身体障害者役者の、単なる狂気の逆上として突き放し、一定の距離を置いて、その深刻な重苦しさに悄然とする(あるいは「する振りをする」)しかないのですが、同書の中には唖然とさせるような衝撃的なエピソード(そこは同時代人ということで、同じ出来事に立ち会ったであろう可能性は多々あるわけで)が、すまし顔に並列されていることの方にこそ、むしろその残酷さを思い知らされることになります。

例えば「越路吹雪」の項には、こんなエピソードが紹介されていました。

「(越路吹雪は)宝塚時代に『笑顔を絶やすな』と叩き込まれたことが仇になって、お葬式が苦手だった。
喜劇王・榎本健一の一人息子・鍈一の葬儀が生まれて初めての参列とあって、お焼香の仕方を岩谷時子が手取り足取り教えた。
順がきて焼香台の前に立った彼女、なにを思ったか右手にお香をつまむと、その腕を大きく水平にまわし始めた。
並んでお焼香をしていた三木のり平がビックリして身をよじって笑いをこらえたから、焼香台ががたがたゆれた。」

一人息子を失った葬儀の当日も舞台に立たなければならず、ついに父親の役目も果たせなかった喜劇役者、焼香の仕方も分からず無様に腕を振り回すだけだった世間知らずのシャンソン歌手、そのしぐさを見て厳粛な葬儀の席にもかかわらず思わず哄笑の発作に堪えた、一人息子を失った父親の悲しみとは無縁だったもうひとりの喜劇役者、「残酷」などというのは、後世の人間が勝手に思うことなのであって、現実の社会には、こんなことなら幾らでも起こり得るわけで、この世の出来事に対して究極的な意味において誰が悪い・何が残酷だという観点などハナから存在するわけもありませんが、ただ、その「越路吹雪」の項の最後には、
舞台出演をしていた際に胃に違和感を感じて検査したのちに急遽手術、開けてみれば既に悪性の腫瘍が腹膜に転移していて手の施しようのないまま急逝とあり、その間わずか四ヶ月足らずの慌しい彼女の無残な最期もしっかりと記されていることをもまた念頭に置かなければならないかもしれません。

この本を既成のカテゴリーに無理やり位置づけるとすれば、やはり芸人たち・役者たちの「人生の本」とでもいうしかないのかもしれませんが、啓蒙臭に満ちた教訓と誤魔化し的なものが多い類書の中にあって、これぞまさに痛切な「人生の本」の真打ということができるかもしれません。自分の好きなタイプの本ではあります。

この本に登場する芸人は以下のとおりです。しっかりとタイプしたつもりですが、ちゃんと88人揃っているか心配です、タイプミスがなければいいのですが。改行は、各章別を表しています。

古今亭志ん生、榎本健一、尾上多賀之丞、二代目廣澤虎造、邑井貞吉、長谷川一夫、都家かつ江、石田一松、三代目柳亭市馬、古川ロッパ、アダチ龍光、八代目林家正蔵(彦六)、
九代目鈴々舎馬風、牧野周一、藤山寛美、瀧澤修、二代目一徳斎美蝶、三代目桂三木助、三井弘次、林伯猿、四代目三遊亭圓馬、初代桂小文治、長岡輝子、
益田喜頓、三遊亭圓生、二代目神田松鯉、古今亭志ん好、九代目桂文治、初代相模太郎、清水金一、神田連山、廣澤瓢右衛門、七代目橘家圓太郎、岡本文彌、柳家金語楼、
北林谷栄、松葉家奴、服部伸、八代目三笑亭可樂、九代目土橋亭里う馬、中村伸郎、柳家小半治、柳亭春樂、二代目神田山陽、二代目三遊亭円歌、二代目古今亭甚語楼、八代目桂文樂、
越路吹雪、五代目片岡市蔵、泉和助、芥川比呂志、四代目柳亭痴樂、須賀不二男、森繁久彌、吾妻ひな子、三木のり平、六代目笑福亭松鶴、
トニー谷、山茶花究、三笑亭無樂、宮阪将嘉、三代目三遊亭歌笑、六代目小金井芦州、高峰秀子、初代林家三平、宇野重吉、
十代目金原亭馬生、北村和夫、ポール・牧、早野凡平、橘家文蔵、佐々木つとむ、五代目春風亭柳朝、マルセ太郎、春風亭梅橋、三代目桂文我、二代目林家正樂、水原弘、五代目柳家つばめ、伊藤一葉、春風亭枝葉、大辻伺郎、三代目三遊亭圓之助、水原まゆみ、池田操、古今亭志ん朝、渥美清、
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by sentence2307 | 2013-02-17 16:19 | 映画 | Comments(0)