幕末太陽傳
2005年 02月 17日
この作品でいうなら、佐平次は無一文の労咳病みで、その養生のため、舌先三寸で女郎屋に転げ込みますし、お茶挽き続ける老女郎は、その惨めさから逃れるために、馴染み客と心中未遂をしようとするし、また、末を誓った偽の起請文を何枚も書いて、客を自分に繋ぎ止めようとした性悪な女郎は、策謀が露見するに及んで、男たちからの報復の暴力を避けるために、自分の体が売り物であることを絶叫して危険から身を守ります。
話しそのものは、滅入るような陰惨なものなのに、しかし、これが、ただただ陽気な艶笑噺になり得てしまうのは何故だろうと考えました。
権力と金の力にものを言わせて民衆を抑え込みにかかる「おかみ」に対して、もとより、晴れがましい歴史にその名前を留めるはずもない庶民は、格式の、義理の、と肩肘張ったまやかしの生き方をこそ見透かして、自由気ままに洒落のめし、ごますり倒す諧謔の精神を唯一の抵抗の武器としたのだと思います。
そして、そこにこそ、川島雄三の映画にこめた魂が存在するのかもしれません。
深刻ぶらず、芸術ぶらず、壮大な権威をひたすら嘲弄して、馬鹿笑い振りまきながら、やがて、その笑いが、やりきれない自嘲に強張ってゆくとき、川島雄三の、卑力な庶民の遣る瀬無さをただじっと凝視することの残酷さと哀しみから、俳優たちを縦横にはしゃぎ廻らせれば廻らすほど、それとは裏腹に、鬱へと静かに滅入り込んでゆくどす黒い憤怒や怨情をも垣間見る気味悪ささえも感じてしまいました。
だからこそ、この傷だらけの無頼の徒・佐平次の放蕩三昧に打ち込む破れかぶれのひたむきな姿には、惨めさの中でとことん生き抜いてみせようとする逞しさが、そのまま痛ましい自堕落へと突き進んでいかざるを得ない自虐の、煌めくような捨て身の迫力へと繋がってゆくのだと思いました。
この頑ななまでに明るく生きようとした佐平次の中に、明るい風刺を込めた屈託ない川島雄三の賑やかしの魂と、日本の風土の暗闇に這いずり回る人間を溢れ出る活力の絶望的な逞しさで生かせてしまう今村昌平の粘っこさとがぶつかり合って、生きることへの執着と葛藤とが生々しく描かれるとき、僕たちは、映画に生涯を賭ける者たちの凄まじい執念のぶつかり合いを見、きっと終始圧倒され続けることとなるのだと思います。