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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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「東京暮色」と「もず」を隔てるもの

以前書いた「もず」について「さすらい日乗」さんからコメントをいただいたので、早速お礼のコメントを書きはじめたのですが、定められた欄にはどうしても収まり切らず、仕方なく独立したコメントとしてupすることにしました。

題して《「東京暮色」と「もず」を隔てるもの》です。

まずは、「さすらい日乗」さんからいただいたコメントを自分なりの理解によって要約してみました。

以下の通りです。

【「もず」は大変好きな映画で、「東京暮色」(と比較する)よりも、「甘い汗」など、脚本家・水木洋子との関係で見た方がよい。
「もず」や「甘い汗」は、水商売を職業とする女性の一種のプロレタリア文学の立場から作られたものなので、戦前のモダニズム謳歌の悔恨意識から撮られた「東京暮色」などとは比較すべくもなく、出演している娘・有馬稲子に象徴される「太陽族」の性的不道徳性とか、その原因となった笠智衆を捨てた山田五十鈴の性的放埒さの描き方、あるいは長女・原節子のその母・山田五十鈴に対する非難などをみれば、激変する戦後の価値観に対応できなくなった小津の限界を露呈していることは歴然としている。】

要するに、時代をリアルにとらえた「もず」と、時流に乗り切れないまま時代に背を向けるしかなかった「東京暮色」とでは、そもそも映像作家の価値基盤が異なるので比較のしようがないではないか、との趣旨と理解しました。

ここで問われているのは、やや極論ぎみに言えば「東京暮色」という作品が、(当時にあっては)論ずるに足りない時代錯誤の駄作なのではないかというご意見です。

そして、その説を裏付けるものとして、享楽にふけり、やがて妊娠という負の報いに遭遇した娘・有馬稲子が失意と苦しみのただなかにあるとき、追い討ちをかけるように、彼女の目の前に失踪していた母親が突然出現するという事態に(自分にも母の淫蕩な血が流れているのかと)さらに動揺をきたし、ついに発作的に自殺するという物語を破綻で終わらせる設定が、糜爛した時代風潮を受け入れられずに理解を放棄したような、小津らしからぬ工夫のない因果応報・短絡な断罪によって物語を閉じるという、映像作家としての限界を示した作品なのではないかという趣旨と受け取りました。(後述しますが、ひとつだけ気になるのは、遊び=妊娠という「太陽族」の享楽のイメージからは程遠い深刻な有馬稲子の描き方です。)

たしかに、小津作品中「東京暮色」が、当時ばかりでなく現在でも、ことのほか厳しい評価に晒されている理由は、やはり、このストーリーの救いのなさにあることは明らかです。

「東京物語」や「麦秋」が、そのラストにおいて、主人公が、たとえ苦渋に満ちた喪失感を抱えたまま物語が閉じられようとするときでさえ、なにかしらささやかな希望が暗示されており、映画を見終わった観客は、その作品名をまるで幸福な記憶の代名詞のように幾度もその「救い」の意味を甦らせては、凍えた気持ちを温めることができました。

たとえば「東京物語」がそうでしたよね。

義理の父・笠智衆から渡される母・東山千栄子からの形見の腕時計を手にしたとき、亡き息子の嫁・紀子は、感謝の意味に躊躇して「自分は、そんな善良な人間ではない」と泣き崩れる場面を思い出します。

僕たちは、老母が生前、紀子への感謝の言葉を幾度も口にしていることを知っているので、義理の父・笠智衆の優しい感謝の言葉が嘘だとは決して思いませんが、しかし、このシーンの最初には「もう息子のことなど忘れて、あなたには幸せになって欲しい」と伝えているところからすると、たとえ老母の感謝の言葉が義父の作り話であったとしても、幸薄い嫁を気遣って掛けた笠智衆の精一杯の思いやりとして一向に差し支えないもの(その意味では、どこまでも「真意」の重さが保たれている「生きた言葉」でした)として受け止めることができました。

その優しさは、形見の腕時計にあったのではなく、むしろ笠智衆の言葉そのものの中にあったからこそ、それに応える紀子の告白もまた、観客は大きな救いのなかで聞くことができたのであって、この世に遺された者たち(紀子や、もちろん笠智衆自身も)の囚われている「絶望」にも、彼らはこれから先もどうにか耐えていけるに違いないという一点の希望の灯を見ることができたのだと思います。

しかし、残念ながら、幕切れまで、その優しさに匹敵するような救いの言葉が一言も発せられない「東京暮色」のラストにおいて、観客は、逃れようのない重苦しさを抱え込まされたまま、映画館の外へ放り出されたはずです。

それはまるで優しい抱擁を期待して駆け寄った母親から、突然平手打ちを食わされたような手痛い衝撃だったかもしれません。

いままさに室蘭に旅立とうとして青森行きの列車の中にいる山田五十鈴は、人待ち顔でしきりに窓外を気にしていますが、そこに誰一人現れることはありません、現れるはずもない、これはとても残酷な場面です。

自分の産んだ子供のうち二人は既に死んでおり、そのうちの一人は、「自分」のことが原因で自殺しています。

ほんの数日前に、その死を知らせに来た長女から、「妹が死んだのは、あなたのせいだ」と怒り露わになじられたばかりです、そんな長女がわざわざ会いにくるはずもありません。

それなら彼女はいったい「誰」を待っていたのか、裏切った前夫・笠智衆は、自分のプライドを保つために無視の態度をとり続けているくらいですから、会いに来るはずもありません。

それでも山田五十鈴は、列車が動き出しても必死に窓外に目をこらして誰かを探していますが、列車は彼女の未練な気持ちを駅舎に残したまま走り始めます。

このラストシーンに小津安二郎はなにを意図しようとしたのか、もしそれが「東京物語」と一対をなすラストなら、それは是非知りたいと痛切に感じました。

そして「さすらい日乗」さんが、そのコメント中に書かれた「プロレタリア文学」という言葉の示唆する概念が、いまだに有効なのかどうかとか、あるいは「悔恨意識」という耳慣れない言葉の意味するところが、単に「懐古趣味」とか「郷愁」などに留まらず、さらに強烈な自責の念を求めるような痛切な感慨を伴っているのかどうかなど、まだまだ検証しなければならないものがあるのかもしれません。

しかし、たとえその当時において小津作品にそうした「時代遅れ」的な要素があったとしても、なにも「悔恨」まで抱かねばならないほどのものだったのかという違和感はありました。

「悔恨意識」という言葉を使われた真意を自分がどこまで正確に理解できているか、心もとない部分もありますが、自分なりに理解しているところをざっくりと書いてみたいと思います。

この2作品を見て、まず強烈な印象を受けるのは、二人の母親の描き方の違いにありました。

「もず」の淡島千景演じる水商売の母親・すが子は、酒色におぼれる荒れた生活のために、いまではすっかり身体も神経も壊れかけており、自身でも密かに死期が近いのではないかと恐れている自棄的な気持ちを持った破滅的な人物設定であるにしても、しかし、あの始終苛々としたヒステリックな狂乱振りの過剰さ(の演出)は、ちょっと現実離れしていて、突飛すぎる性格破綻者という設定には違和感を禁じ得ませんでした。

一方「東京暮色」の山田五十鈴演じる母親・喜久子はどうでしょうか。

「さすらい日乗」さんが、性的に放埒で、夫・笠智衆や子供たちを捨ててまで愛人のもとに走った淫蕩な女と位置づけた彼女です。

スクリーンに最初に登場する母親・喜久子は、僕たちのそうした先入観をことごとく裏切るような物静かさで、さらに寂しそうに弱々しく微笑むところなど、なんだか肩透かしを食わされ、そのあまりのギャップには、最初に持っていた先入観(性的に放埒な情熱の女)を混乱させられるばかりでした。

そこには愛人と一緒になるために家族を捨てた情念の熱い女という印象などさらになく、むしろ、逼迫した生活に押し潰され、失意と悲哀に堪えながら生きるしかないと諦念のなかで思い定めた生気の失せた初老の女を見出すばかりです。

おそらく、それは、愛人との出奔・逃亡という背徳行為が、彼らを経済的に厳しい境遇に追い込み、その窮乏生活が彼女からかつての熱や夢をすっかり奪い取り、ひたすら過酷な日常に堪えるしかないという冷え切った諦念のなかで、うらぶれ老成した失意の人間像が完成されたと見るのが順当なのかもしれませんが、はたしてそれだけだろうかという思いはありました。
Commented by さすらい日乗 at 2013-07-07 07:59 x
『東京暮色』を悪い映画だというのではありません。
むしろ、戦後の小津安二郎作品では良い方の一つだと思うのです。以前からそう思っていたのですが、それを確信したのは、故如月小春の中村伸郎の伝記『俳優の領分』を読んで、彼女は『東京暮色』を絶賛しており、若い人には「この映画は結構受けているんだな」と驚いた時です。問題は、有馬稲子、田浦正巳、高橋貞二、須賀不二男ら雀荘の連中の描き方で、どう見ても彼らは戦前の軟派学生で、石原裕次郎以後の太陽族が出てきた時代の若者ではありません。
要は、小津安二郎は明らかに時代風俗とずれていたのです。
小津の悔恨意識ですが、戦前の小津もモダニズムを謳歌した映画を作っています。
こうしたモダニズムが賛美が、戦後の太陽族に象徴される不道徳性の根源だとと、山田五十鈴ー有馬稲子の血の問題は言っていて、原節子に母親の山田を批難させることで、小津自身の自己批判になっていると思うのですが、いかがでしょうか。
Commented by www.ps-plougastel.fr at 2014-01-25 11:16 x
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Commented by alpha-airsoft.fr at 2014-01-25 11:16 x
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by sentence2307 | 2013-07-06 21:07 | 小津安二郎 | Comments(3)