ブレイブハート
2005年 03月 07日
愛する人ミューロンを殺されたウィリアム・ウォレスが復讐を誓って抵抗軍を組織し、スコットランドの解放のためにイングランドと戦い続け、やがてスターリング・ブリッジの戦いで英国軍を撃破したのち、同胞と信じていた貴族たちの裏切りにあってイングランド国王エドワード1世との戦闘に敗れ、危ういところで難を逃れ生き延びるという場面です。
イングランドに抵抗を続けるウォレスたちは、その後、封じ込められたかたちで孤立無援の戦いを強いられています。
どうにも出来ないその膠着状態のなかから、打開の途を見つけようとしているときに、かつて自分たちを裏切った貴族たちから同盟の誘いがあり、ウォレスはその誘いに応じようとします。
もちろん仲間たちは、それが危険な罠でしかないのは明らかなので貴族たちに会うことに強く反対しますが、ウォレスは、この膠着状態を打開するためには、微かでも希望があれば当たってみるべきだと貴族の元に単身乗り込んで行きます。
結果的には、それがやはり罠であって、彼はいとも簡単にイングランドの権力のもとに拘束され、残酷な拷問の果てに内臓を引きずり出され、首を刎ねられたあと全身を切り刻まれ、みせしめのためにスコットランドの各地で晒されたとナレーションされていました。
まさに敵地に乗り込んでいこうとしているあの場面のウォレスに、はたして些かでも希望があったのだろうか、という疑問が僕にはあります。
そのときの貴族たちの置かれていた状況は、既にイングランド国王の狡猾な買収によって懐柔されており一度は裏切っているという「前科」もあって、どう考えてもあの状況では、貴族たちの誘いは罠だと考えるのが普通のような気がします。
では何故、死ぬかもしれないと分かっている「死地」に、あえてウォレスは自ら赴いていったのか、そこがどうしても分かりませんでした。
そんなとき、二つの作品が思い浮かびました。エリア・カザンの「革命児サパタ」51とフレッド・ジンネマンの「日曜日には鼠を殺せ」64です。
この2作、むかしからとても好きな映画です。
なぜ魅かれたのか、「ブレイブハート」を見て分かりました。
死ぬかもしれないと分かっているのに、あえて立ち帰っていく孤立した抵抗者の誇りと絶望が、あの作品には、鮮烈に描かれていたからだと思います。