世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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赤い殺意

「毒される」とまでは言いませんが、映画解説書に断定的に書かれている評言というのは、映画を実際に見るうえで邪魔にこそなれ、いままで感心したり共感したりという覚えが全然ありません。

評言で自信満々に語られる「断定口調」というのが、見る者にとっていかに多大な影響を及ぼすか(それを先入観とか固定観念といってもいいかもしれませんが、いずれにしてもそういうものはマイナスに作用するしかありません)ということをつくづく思い知ったのは、今村昌平監督の「赤い殺意」を見たときでした。

ある解説書には、この作品について、こんなふうに書かれていました。

「夫の留守中、強姦された主婦がその男と関わっていく中で、夫の本家を中心とする封建的な「家」の倫理に苦しめられていた妻・貞子が、いつのまにか強い女に成長していく。強盗からの暴行を機縁に、肉体の深部から目覚めた庶民の女が、『性』の悦楽のなかから強靭な存在に成長していくのを今村昌平監督は見事に結実させた秀作である。」

また、別の評文には

「夫の出張中に、押し入った強盗から犯され、その後も執拗に付きまとわれながら、意に添わない性的関係を強要されるうちに、いつしか妻は、それまでの愚鈍で奴隷的な「妻」とは違う、確かな自己存在を自認した「女」として変貌をとげ、男たちを従え、家を支配する女になるという物語である。」

とありました。

このふたつの評文が語るそれぞれのニュアンスには多少の違いはあっても、最後の「強靭な女に成長していく」というあたりは共通しています。

しかし、はたして「そう」でしょうか。

小説の方では、このあたりをどのように描いているのか、いま手元に本がないのですぐに確かめようもありませんが、映画を見る限り、そこまで言い切っていいのだろうかという疑問を持ちました。

自分を強姦したうえ、さらに恋情まで抱いて執拗につきまとってくる男(ストリップ小屋のドラマーです)に対して、その執拗さに危機感をつのらせた妻は、ついに思い余って男を殺害しようと決意し、男の言葉に従うかに見せかけて東京への逃避行を共にします。

しかし、殺害を果たせないままに続けられた逃避行の雪道で、たまたま男が持病の心臓病によって急死し、さらに、ふたりの後を尾行していた夫の情婦(妻の座を狙っている彼女は、妻の浮気現場を捉えようとカメラ片手に必死です)も、思わず撮影に夢中になっているところをダンプカーに轢かれて即死します。

このふたつの事故によって、妻の抱いていた危機感はすべて解消され、物語的には、
「いつしか妻は、それまでの愚鈍で奴隷的な「妻」とは違う、確かな自己存在を自認した「女」として変貌をとげ、男たちを従え、家を支配する女になるという物語」
といってもいい方向に向かっているかに見えますが、しかし、その後、出張から帰ってきた夫が、亡き情婦の撮影したフィルムを妻に示して
「これはお前だろう、一緒に写っている男は誰だ」
と執拗な尋問を続ける場面から、強引に籍を入れることで姑からさんざん嫌味を言われる場面まで、そして、それらを受けて、ちゃっかり(解説氏にすれば、そのように浮かれ気味の表現にしたいに違いありません)本家におさまるという図式には、客観的にみれば、女中上がりの妻がついに本家におさまって積年の恨みを晴らすという晴れやかな印象が伴っても一向におかしくないのに、しかし、このラストに映し出される蚕の世話をする妻の表情には、そのような「明るさ」の気配など微塵も伺うことができません。

なにしろ、この場面の直近には、嫉妬深い夫による相も変わらぬ執拗な尋問と折檻が描かれていて、その次の場面では、意地の悪い姑による差別的な嫌味と侮蔑の言葉責めが描かれているのですから、「本家」におさまったからといって、家族が優しくなり彼女の生活が一挙に改善するという楽観を許すものなど、この画面からは、なにひとつ見い出すことができません。

実は、この暗さはいったいなんだろうという「訝しさ」だけをたよりに、この短文は書き始められました。

鈍重で愚鈍な女中(設定は、きっと食い詰めた貧乏な百姓家の娘かもしれません)が、雇われて看病していた好色なドラ息子に手篭めにされ、妊娠したので仕方なく、一応はカタチだけ「妻」のように扱われながら、しかし籍を入れてもらえるわけでもなく、年がら年中「馬鹿だ間抜けだ」と罵られつづけるという描写が、あの「強姦」の場面の前と後とにカットバックで挿入されています。

そうした状況のすべてを引きずって、たまたま成り行きで本家に入るというだけのことなので、それを「強靭な女に成長していく」と即断するのは、いささか軽薄で、随分無謀な決め付けなのではないかと訝ったのです。

むしろ、彼女にとって、心臓病みのドラマーから「強姦」されるのも、夫からの詰問や「鈍重の間抜け」と蔑まれるのも、姑から「無知」と罵られるのも、すべて同じものだったのではないかと仮定してみました。

妻は、それら強姦男や夫や姑の「働きかけ」のすべてを頑なに否定します、否定し続けて、ついには「ない」ものに捻じ伏せ、彼女の「安定」(にっぽん昆虫記には繰り返しこの言葉が語られています)に組み込んでいくとしても、しかし、はたして彼女は「自由」を得られたのだろうかと感じました。

今村監督の「赤い殺意」を見るたびに、いつもきまって思い出すフレーズがあります。

「強姦されるという衝撃的な経験を経た女が、むしろ逆に強さを獲得して自由になる」という一文です。

長い間、この文章が頭の中に刷り込まれていて、てっきりこの文章は「赤い殺意」を評したものに違いないと思い込んでいました。

いやむしろ、このフレーズは、そのまま、それ以後の時代、「日活ロマンポルノ」の隆盛と凋落に至る時代を象徴するような、日本映画の諸作品が依拠し、あるいは根底から支えた思想的な「標語」でさえあったのではないかと思ってきました。

しかし、あるとき、佐藤忠男の「日本映画史」を読んでいたら、「豚と軍艦」について書かれた箇所でそのままの一文に遭遇し、やっと自分の勘違いに気づきました。

その「豚と軍艦」を受けて「赤い殺意」を論じるに至る箇所には、こんなふうに書かれています。

「強姦された女が逆に強く自由になるというのは前の『豚と軍艦』でも見られたモチーフであり、それは、あるいは、敗戦によって日本文化の純粋性(原文は、傍点です)といった虚妄の観念を外国から力ずくで打破された国民的な経験の逆説的な表明であるかもしれない。」

なるほどなるほど、「強姦されて逆に強く自由になる」というのは、日本という国自体を示してもいたのかと気づかされました。

しかし、この「気づき」を獲得できたからといって、「赤い殺意」という衝撃的な作品の魅力に近づけたかどうか、自分にはどうしてもそうとは思えません。

芸術作品をその時代に結びつけ「理解を高めたり深めたり」するということが、批評の主たる仕事=作業なのだとしたら、むしろ作品の暴力的でアナーキーな魅力を減じてしまうだけにすぎないのではないか、「理解を高めたり深めたり」して無理やり「時代」に定着・固定することの「罪深さ」を、最近実感するようになりました。

こんな気になったのは、むろん自分の天邪鬼によるものもありますが、むしろこの作品が固有にもっている枠に嵌めることのできない暴力的でアナーキーな魅力、「おざなりの理解」を拒絶するものがあるからだろうと思います。

佐藤忠男は、「日本映画史」のなかで、今村監督の「赤い殺意」についてこう記しています。

「戦後の日活から現れた最も重要な監督は今村昌平である。『にっぽん昆虫記』1963で、最下層の農民出身の、無知で恥知らずであるが、それなりのモラルや信仰や向上心を持たないわけではない女の生き方を、昆虫を観察するようなリアリズムで追及して、溝口健二のリアリズムの後継者ともいえる立場を確立した」
と前置きしてから、
「ひきつづき下層社会における“母なる大地”のような女性像の探求をつづけ、次の『赤い殺意』1964で早くもひとつの頂点を極めた」と述べています。

(1964日活)監督脚本・今村昌平、原作・藤原審爾、脚本・長谷部慶治、撮影・姫田真佐久、音楽・黛敏郎、企画・高木雅行、美術・中村公彦、編集・丹治睦夫、録音・神保小四郎、スチール・斎藤耕一、照明・岩木保夫
出演・西村晃(高橋吏一)、春川ますみ(高橋貞子)、赤木蘭子(高橋忠江)、加藤嘉(高橋清三)、北村和夫(高橋清一郎)、橘田良江(高橋波江)、北林谷栄(高橋きぬ)、宮口精二(宮田源次)、露口茂(平岡)、楠侑子(増田義子)、近藤宏(新田)、山之辺潤一(渡辺主任)、北原文枝(狩原久子)、加原武門(質屋の旦那)、糸賀靖雄(田村英二)、小沢昭一(田丸和幸)、殿山泰司(楽士ベレー)、井東柳晴(楽士ギター)、漆沢政子(小使ばあさん)、久松洪介(高屋敷町役場・戸籍係)、三船好重(温泉の女将)、
1964年6月28日公開 日活配給 12巻 4,104m 白黒 ワイド
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Commented by www.pamdrivers.us at 2014-09-14 20:51 x
赤い殺意 : 映画収集狂
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by sentence2307 | 2014-04-12 15:24 | 映画 | Comments(1)