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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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にっぽん零年

文献を読んで、この映画の企画の話を大塚和プロデューサーに持ちかけたのが、「私が棄てた女」の撮影が中断していた際の浦山桐郎だと初めて知って少し驚きました。

浦山監督のイメージからは、ちょっと結びつかないような気がしたのです。

そのあとで斎藤光正、河辺和夫、藤田敏八ら新人3監督に声をかけ、この映画の企画がいよいよ現実味を帯びてきます。

そのとき会社側が考えていた題名は、「日本の若者たち」というタイトルで、きっと、前年に興業的にヒットした森川時久の「若者たち」を十分に意識したネーミングだったと思います。

資料には、この映画を製作するにあたりそれぞれの監督の担当が記録されていて、斎藤光正監督が性風俗嬢、河辺監督はフーテン少女と自衛隊員、藤田監督は学生運動家、浦山監督はデモ用のヘルメットを作っている青年、という役割分担になっていて、それぞれが撮影し編集作業を経て一本のドキュメンタリー映画にまとめようという構想だったそうです。

作品のコンセプトは、「安保闘争という緊迫した時代性をそのままの雰囲気で撮って、生の状況の空気を後世に伝える」といった気宇壮大なもので、大きな時代のうねりに対してまともにぶつかっていくなり、無関心をよそおうなり、とにかくそれぞれの異なった環境にある青年たちの生き方を多面的重層的に製作しようとしていたことがよく分かります。

そういう意味ではこの映画、三十数年間倉庫に眠らされていたのですから、「後世に伝える」という役割は十分に果たせたかもしれませんね。

しかし、予期していた以上に、学生運動が激化して、1968年の秋には状況がエスカレートし暴動・内乱化していくなかで、会社側はその事態を危惧するに至り、「国民に急進な左派的思想を浸透させる恐れがある」という理由で映画製作の中止を決断した日活・会社側は、突然製作中止命令を発しました。

しかし、大塚プロデューサーは、会社側のこの決断に抵抗してそのまま撮影を続行したわけですが、やがて編集段階で4監督の意見が対立して、議論の末、浦山・斎藤の2監督が降板し、藤田・河辺両監督がゲリラ的に製作を続行していくことで映画を完成させました。

つまり、斎藤光正監督の性風俗の部分と、浦山監督のデモ用のヘルメットを作っている青年を描いた部分を含んでいない作品が作られたというわけです。

残念ながら、浦山・斎藤両監督の撮ったフィルムは消失し、この2監督の名前もクレジットから外されました。

また、藤田・河辺両監督の編集版も公開された版以外のものは廃棄されてしまったらしいと報じられています。

そして、この作品が封印されたまま、なぜ34年間も公開されることなかったのかという理由については、よど号ハイジャック事件・連合赤軍事件に見られる学生運動の過激化・先鋭化が公開を躊躇させたうえに、ロマンポルノという日活の路線変更という状況の変化もあって公開の時期を失したのだろうとみられています。

いずれにしても、会社側の製作中止命令につらなっている一連の流れにそった措置だったろうと考えるのが自然のような気がします。

この映画は、結局正式には一度も公開されることがなく封印され、1995年の山形国際ドキュメンタリー映画祭に突然登場することとなりました。

きっと、「光の雨」や「突入せよ! あさま山荘事件」などの作品の一応の興業的成功という周辺事情の成熟がなかったら、この作品の公開もなかっただろうという見方が多分当たっているかもしれません。

とにかく、この作品は、まさに、いわく付きの幻のドキュメンタリー映画といえる作品であることは確かです。

このドキュメンタリー映画について、ジャーナリストと自称している人のコメントを読んだことがありました。

それは、《『にっぽん零年』は、私たちに、自分で何かを変えるという夢を持つことの重要性と、その夢がやがて社会をも変える夢へとつながる可能性を思い出させてくれる。》とかいうような趣旨のことを大真面目に書いているのです。

この人、実際にこの映画を見たうえで、本気でそんなこと言っているのだとしたら、ちょっと暗澹たる気持ちにさせられて落ち込んでしまいました。

例えば、よく僕たちが、会社の会議などに、あらかじめ読んでおくべき資料を読まずに臨んでしまい、予備知識のまるでない重要案件について意見を求められたときなどに、とりあえず差し障りのない公式的な見解を述べておいて、ひとまずその場を逃れるという「あの手」のいい加減さと、この所信表明はなんら変わりありません。

このドキュメンタリー映画から、もし本当にこんな誠意のない感想を引き出したのだとしたら、そういう偽善的なことを平気で言えるこうした評論家の言葉など、信用しない方がいいかもしれませんね。

あの1968年という年につながるこの「いま」という現実のどこに、「何かを変えるという夢を持ったこと」が、「やがて社会をも変える夢へとつながる可能性を思い出させてくれる」ようななにが存在しているなどと言えるのか、現実を直視せず、本音を隠してスローガンや看板だけの公式見解をぬけぬけと言い放つこうした良識面した厚顔無恥な「公式人間」が、大手を振ってぬけぬけと生き得るこの現実に対し、苛立ちや怒りを通り越して深い失望と虚脱感にとわられ、しばし呆然とさせられてしまいました。

このドキュメンタリー映画に描かれているのは、語るべきものはおろか自分の言葉さえ持ちあわせず、大きな状況のうねりの前で、ただ時代に翻弄されるがままに、ワケも分らずびくびくと駆けずり回っていただけの若者たちと、なすすべもなくそのような増長を許した無様な親たちが描かれていくというその一方で、鮮明に浮かび上がってくる後半部分に、このドキュメンタリー映画の魅力のすべてがあるといってもいいと思いました。

それは、運動方針を巡って延々と続く議論とセクト抗争に明け暮れる虚しさの中から、学生活動家が、そういう生き方に迷い疑問を抱きながら、母が被爆した広島へ旅立ち、そこで暮らす被爆者たちを前にして「常套句」を喋れば喋るほど被爆者たちの生活実感から発せられる重い言葉に押しつぶされ、沈黙を強いられて、ついには押し黙ってしまうという苦渋に満ちた場面の迫力が、そのことを明確に示していると思います。
Commented by longchamp bags at 2013-06-25 05:24 x
にっぽん零年 : 映画収集狂 <a href="http://www.tremontirestaurant.com/home.html" title="longchamp bags">longchamp bags</a>
Commented by さすらい日乗 at 2017-04-12 07:59 x
30年間お蔵入りだったというのは違います。私は1984年4月に池袋の文芸地下劇場で『八月の濡れた砂』との2本立てで見たことがあります。
もともとは、大塚和は、モスクワ映画祭に出すつもりで作り始めたが、途中で間に合わなくなり、中止したのだそうです。
活動家のIは、その後学習塾をやっていたことが「フォーカス」に出ていました。
by sentence2307 | 2005-03-22 00:21 | ドキュメンタリー映画 | Comments(2)