殺人の追憶
2005年 04月 17日
例えばこの映画「殺人の追憶」のラストで、ソン・ガンホが二十数年前の猟奇殺人事件による最初の犠牲者が発見されたかつての現場に立ち寄るシーンで、通りすがりの少女から、自分が来る少し前に、犯人とおぼしき「普通の顔」をした男が、同じように現場を訪れていた事実を知らされた際の「カメラ目線」となった彼の複雑で意味ありげな表情から、僕は加藤武の「よし、分かった!」を思わず連想してしまったというのもそのうちのひとつでした。
もちろんあのシーンは、「よし、分かった!」などと言っているわけではなく、もう少し奥の深い含蓄に富んだ意味があったわけで、そこがまたこの作品を傑出したものにしているのだと思います。
事件から20年近く経過し、当時の関係者にとって最早あの猟奇事件が「過去の遠い思い出」として風化しかけていたとき、少女のひと言によって生々しい現実=犯人の影がぐっと接近し、遥かに隔たった時間を一瞬のうちに飛び越えて、犯人がその辺りをうろついているという生々しい現実として切実に実感させた優れた場面でした。
当時、事件を解明することができなかった元刑事のガンホが、見えざる猟奇殺人犯と図らずも不意に向かい合わされることで恐怖と驚愕によって恐慌をきたす緊迫した表情を微妙な顔だけの演技によって見事に表現したシーンだったのですが、同時に、僕には、犯人(映画の中では、終始「顔の見えない殺人者」として描かれています)の方もまた、そのとき深い喪失感と悔恨に囚われていたのではないかと思ってしまいました。
映画のこのラストのメッセージをそのまま受け取るなら、きっと「凄惨な数々の猟奇殺人を犯した異常者が、何食わぬ『普通の顔』をして僕たちの日常社会に溶け込んでいて、すぐ傍で同じように生活しているという恐怖」を描いているのだと思いますが、このラストの部分から以前犯罪について書かれたある本のことを思い出しました。
多くの犯罪事例を研究したというその著者は、すべての犯罪は常習性を伴った病気であると結論し、その象徴的な犯罪行為として例えば万引きを例に挙げて説明していました。
普段は善悪の判断も十分にできる理性的で良識的な社会人が、ひとたび「環境的なある条件が整う」とムラムラと湧き起こる盗みの衝動を抑えられず、監視のスキをついて本能的に万引きをしてしまうというのです。
そこには、どうしてもアレが欲しくてたまらないとか、盗んだ物を転売してひと儲けしてやろうなどという功利とか狡猾な打算とかではなく、もっと切実な止むに止まれぬ衝動、つまり「つい手が動いてしまう病気」として万引きを説明していました。
そこには最初から犯意や悪意というものが存在しているわけではないので、犯してしまったあとには当然のように罪悪感と深い後悔の念が彼を襲いますが、そうした罪悪感を抱えながらも、再び「環境的に条件が整」ってしまえば、またもや「つい手が動いて」万引きを繰り返して彼には自分のその行為を自身では決して制御することができない、いわば心神喪失の中でなされるにしろ常習性を備えた病的行為だと解説されていました。
この映画「犯罪の追憶」を見て、その本のことを不意に思い出しました。
そこには、見咎められて捕縛され、何らかの罰を科されないかぎりその行為を際限なく反復してやまない彼らが、やがて逮捕されたとき、「もうこれで盗まずにすむ」とほっと安堵するというエピソードまで紹介されていました。
逮捕時の一見奇妙なこの感慨は、僕たちに、凄惨な死体解体工場たる自宅で逮捕されたとき「もうこれで人を殺さずにすむ」と言ったという連続猟奇殺人犯エド・ケインのことを思い出させます。
この映画「殺人の追憶」のラストから考えると、かつての殺害現場を訪れた「顔なき猟奇殺人者」が逮捕を免れたことを「ざまあみろ」とほくそえんでいたとはどうしても思えません。
ラストで大写しになったガンホのあの複雑微妙な表情にいざなわれるままに、むしろ、僕には、環境的な「ある条件」が整った不安定な時期の中でもたらされる動揺によって、自分ではどうすることも出来ないままに数々の猟奇殺人を引き起こした男が、時を経て闇の季節に為されたそれらの罪深い行為を深い後悔の念をもって現場を訪れたのではないかという気がしてきました。
その「ある条件」とは、きっと南北の分断を背景にした韓国軍事政権下で不安定ながらも諸矛盾を抱えたまま急速な経済発展を遂げた混乱期の中で心の拠り所を失った人心の喪失感みたいなものを意味していたのでしょうか。
街には灯火管制が引かれ、訓練の空襲警報が鳴り響いて、救護訓練をする少女たちの姿や捜査に当たるべき機動隊が民主化を求める民衆のデモ鎮圧のために出払うなど、当時の高度経済成長の急激な体制変動のもとで、光の届かない影の部分・社会の片隅で生きる「忘れられた人々」(「兵役を終えた異常な殺人者」という設定も物語の視野に入っていたのでしょうか)の心の歪みと動揺の象徴みたいなものとして、連続猟奇殺人が連続して起こったのだと、この映画は、この闇の季節の時代を暗く抑えた独特のトーンに統一した映像によってドキュメンタリーふうに描いていました。
これは1986年から6年間に10人の女性が犠牲者となり、180万人の警察官が動員され、3000人以上の容疑者が取調べを受けたという犯人未逮捕の韓国中を震撼させたファソン連続殺人事件をモデルにしているのだそうです。
この作品に登場する2人の刑事は、容疑者を特定できないまま、いたずらに時間を空費していく中で次々と猟奇的になぶり殺され続けるうら若い女性の犠牲者たちを前にして、殺人を止めることの出来ない苛立ちと鬱屈した思いを、更に強引な拷問による取調べを疑わしい参考人たちにぶつけていくことで、ますます混迷の泥沼に足を取られ、人間そのものも見失ってしまう混迷とリアルな焦燥感に満ちた優れた描写など、事件が未解決であることや、刑事たちの労苦がすべて徒労に終わることはあらかじめ分かっていながらも、緊迫したストーリー展開(容疑者とされていた精神薄弱者が目撃者だったと分かったあと轢死する展開や容疑者と事件を結ぶ唯一の拠り所だったDNA鑑定の結果に躓くところなど)と全編に怒り漲る力のある映像に押さえ込まれるという、僕たちが忘れ掛けていた土俗的な映画的感動とか映像体験の心地よさを久々に思い出させてくれたポン・ジュノ監督の意欲的な力作でした。
ちなみに、どれくらい評価されたのか、ネットで拾ってみました。
第16回東京国際映画祭「アジアの風」公式参加作品・アジア映画賞、第51回サン・セバスチャン国際映画祭・最優秀監督賞、新人監督賞、国際批評家連盟賞、第21回トリノ映画祭・脚本賞、観客賞、第40回大鐘賞[韓国アカデミー賞]・作品賞、監督賞、主演男優賞、照明賞、第2回大韓民国映画賞・最優秀作品賞、最優秀監督賞、主演男優賞、脚本・脚色賞、撮影賞、編集賞、第24回青龍映画賞・撮影賞などなどです。
(2003韓国)監督:ポン・ジュノ、製作:チャ・スンジェ、ノ・ジョンユン、脚本:ポン・ジュノ、シム・ソンボ、撮影:キム・ヒョング、照明:イ・ガンサン、音楽:岩代太郎、小説:「殺人の追憶」薄井ゆうじ
出演:ソン・ガンホ、キム・サンギョン、キム・レハ、ソン・ジェホ、ピョン・ヒボン、パク・ノシク、パク・ヘイル/チョン・ミソン
130分、カラー、1:1.85、ドルビーSR、
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