世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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「偽王の処刑」という生贄の祝祭

「地獄の黙示録」について「たまごさん」から、とても含蓄に富むコメントをいただき、たいへんおもしろく読ませていただきました。

とくに、文中の「王殺し」のひとことなど、思わずグッときました。

自分は、最近、赤坂憲雄の「結社と王権」講談社学術文庫2007.7)というのを読んでいて、その本に書かれていることと共鳴する部分が少なからずあり、その意味からも、とりわけおもしろく感じたのかもしれません。

たぶん、そのおもしろさを説明するには、本からの引用(咀嚼できてないところはナマのまま提示するかもしれませんが)にかなりの部分を頼らなければならないと思いますが、できるだけ自分の言葉で、自分なりの感じたところを書いてみようと思います。

煩雑な註は、あえて表示を避けました。

ただし、当初は、「地獄の黙示録」との関連など、全然念頭になかったので、「やっぱり、関係なかったみたい」的な「結局、空振り」という事態も大いに予想されます。


これは単なる妄想にすぎないかも、という軽い気持ちで読んでいただければ、当方の気持ちとしても大いに楽なので、その辺はよろしくお願いします。

まず、「王権とは」という問いに、「王殺し」・「道化」・「偽王」・「祝祭」のモメントからアプローチしよう、といいます。

その「王権の象徴論的分析」の起点にすえるのが、山口昌男が示した四つの「王権の象徴性」の指標。

つまり、

① 王権は非日常的な意識の媒体としてはたらく。

② 「文化」を破ることで「自然」の側に移行し、力(マナ)を自分のものとする。

③ 日常的な意識にたいする脅威を構成するゆえに、王権はつねにその基底に反倫理性をもつ。

④ 日常生活における災厄を王権の罪の状況と結びつけることによって、災厄を祓う役割を王権に負わせることを可能にする。

として、こんなふうに説明しています。

「王権とはいわば、共同体または国家に堆積する災厄・罪・穢れの浄化装置である。

それゆえ、潜在的なスケープゴートとしての王。

ルネ・ジラールによれば、王とは「この上もない違犯者、いかなるものも尊重することのない存在、残虐極まりないものであれ、『過剰』のあらゆる形態をわがものにする存在」である。

近親相姦その他のタブーの違犯をつうじて、王はもっとも極端な穢れを具有する存在と化し、そうして王国に堆積する災厄を一身に帯びることによって、原理的には祝祭における供犠の生け贄として殺害される殺害される宿命にある。

フレイザーの「金枝篇」に収録された、王殺しをめぐる習俗や伝承の破片は、いまも検証不可能ないかがわしい仮説として放置されている。」のだそうです。

王は、多くの場合、つねに自身が果たすべき役割を他者に転嫁する巧妙な装置を産出する。

そこに、王の身代わりとしての「反逆の王子」、道化または偽王(モック・キング)といった一連の主題群が登場します。

つまり、先に掲げた「王権の形は、王殺し・道化・偽王・祝祭といった幾つかのモメント」というやつですね。


そして、さらにこのように説明します。

「古代エジプトの最古の道化が、人間の棲む世界のはるか彼方の、幽霊や口をきく蛇のいる神秘の国からやってきた醜い小人であったことに注意したい。

ローマ帝国の富裕な人々が娯楽の目的で家に置いておくことを習慣としたのも、肉体的な畸型者(フリークス)であった。

道化は多く、その身心に不具性・異形性を刻印されていたのである。

中国の宮廷道化とかんがえられる宦官が、去勢されたグロテスクな容姿の男たちであったことを想起してもよい。

さらに、構造として眺めれば、道化と同様に供犠されるべき王の身代わり、裏返された王の分身であるモック・キング(偽王ないし仮王)について語らねばならない。」

さて、この王の身代わり、裏返された王の分身であるモック・キング(偽王ないし仮王)とはなにか。

ここからが、すごくおもしろいのです。

《モック・キングは祝祭(カーニヴァル)の時空における、仮の、いつわりの王である。

古代ギリシャのクロニア祭、ローマのサトゥルヌス祭をはじめとして、バビロニアやチベットのラサの新年祭にいたるまで、主としてインド=ゲルマン文化圏の祝祭のなかにはしばしば、その倒錯的な姿が見出される。

偽王は奴隷や賎民によって演じられた。

王冠をかぶった奴隷は王座のうえから命令をくだし、後宮の妻妾たちをほしいままに扱い、狂宴と蕩尽にふけったあげく、祭りの終わりに生け贄として殺害された。

偽王をいただく祝祭の場にあっては、さまざまな性の禁忌はとりのぞかれ、盗みは合法的となり、奴隷と主人は交代し、男と女は衣装をとり換える。

あらゆる秩序は好んで裏返され、社会的ヒエラルキーは逆転する。

さかしまの世界がそこかしこにくりひろげられるのである。

とはいえ、そうした儀礼的かつ遊戯的な役割転倒は、秩序の転覆といった事態を招来することなく、逆に規範と法を強化するための、王権的秩序そのものに裏側から組みこまれた制度であったとかんがえられる。》

つまり、

《偽王は、奴隷や賎民によって演じられ、狂宴と蕩尽にふけったあげく、祭りの終わりに生け贄として殺害される。

この処刑によって、王権の規範と法は一層強化される。

偽王の存在も、そしてその処刑も、王権的秩序そのものとして裏側から組みこまれた制度のひとつであった。》

というのです。

ということは、「地獄の黙示録」でいえば、カーツも、おそらくは殺す側のウィラードも、王権を担う者ではない「偽王」ということになり、秩序強化のために、ほんのひととき支配者の役を演じたとしても、結局は処刑台にのぼる者たち=偽王でしかありません。

それなら、真の王権たり得る者とは、いったい誰なのかというと、そのイメージは、すぐに浮かびました。

カーツが支配するという密林の奥地に足を踏み入れたとき、沈黙の異様な静さをもってウィラードを迎えた者たち、顔や半裸の全身をけばけばしい絵の具で不気味に塗りたてた沈黙のあの「被支配者たち=大衆」たち、なのではないかと。

彼らが、たとえ「愚衆」の無力の象徴のように描かれていたとしても、その彼らが生き延びるためには、道化を演じさせ、やがて処刑する「偽王」を必要としたのだということが、あの映画の最後で描かれていたのではないかと感じました。

もう何年も「地獄の黙示録」を見ていないので、ストーリーとか、「映像」のそのものの記憶の曖昧さなどは相当にあり、正確さという面では、「それって、どうなの?」的な心もとないものもありますが、「たまごさん」の「王殺し」のひと言から勇気をもらって、あえて強引にこじつけてみました。


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by sentence2307 | 2016-10-01 20:11 | 映画 | Comments(0)