世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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稲妻

「えっ~、まだ見てなかったのぉ!?」なんて言われてしまいそうですが、そうなんですヨ、成瀬巳喜男監督作品「稲妻」1952を通して見たのは今回が初めて、しかも、いまさらながら、そのことに、まったく気づかず、やっと今回、そのことに改めて気づかされたというわけなのです。

「はぁ? なに言ってんだか、さっぱり分からないよ、それじゃ」

そうですよね、そりゃ、うまく説明しないと、この辺の事情は分かっていただけないかもしれませんよね。

今回は、「その辺の事情」というのも含めて成瀬作品「稲妻」について書いてみたいと思います。

メディアによって紹介されることの多い名作映画にはよくあることですが、この「稲妻」も、かなり頻繁に取り上げられていて、そのたびに必ず映し出されるのがラストシーン、三女・清子(高峰秀子が演じています)が母親(浦辺粂子が演じています)に

「どうして自分たち兄妹を、同じ父親の子として産んでくれなかったのよ」

となじる場面だけが切り取られたカタチで、僕たちはいままで繰り返し見せられ続けてきたような気がします、数え切れないくらいにです。

大写しの高峰秀子が、悲嘆と怒りに歪めた泣き顔で母親に必死に訴えかける、悲痛で、それだけにとても美しい場面です。

もし同じ父親から生まれた子供だったら、自分たち兄妹は、こんなにもバラバラにならずに済んだかもしれない、いや、きっとそうだ、こんなにも気持ちを荒ませ、疑心暗鬼で互いを傷つけ合うこともなかったと詰る痛切な場面は、間違いなくこの作品の「核」になる最も重要な場面と言っても、決して過言ではありません。

それに、清子が母親をなじるまでに気持ちを高ぶらせたのは、その直前に、隣家の心優しい兄妹(根上淳と香川京子が演じています、香川京子の清らかさと美しさに思わず目を奪われてしまいました)の仲睦まじさを目の当たりにして心和ませ、羨望の思いに捉われていた彼女に、その兄・根上淳から逆に「ご兄弟は?」と問い返されて、思わず口ごもって表情をくもらせる場面に、他人に依存しなければ生きていけない家族への嫌悪と、自分が切り開こうとしている将来の希望など、清子の一連の心情が的確に描かれている傑出した場面です。

その兄・根上淳からの突然の問いに、思わず、清子が、兄妹の存在そのものまで否定へと揺らいだことは明らかで、もしかしたら、彼女のその「くもらせた表情」のなかには、たとえ微かにでもその否定に動いてしまった罪悪感も、母親への「なじり」に込められていたはずです。

そもそも清子に、家族を捨て山の手の下宿先へ家出同然の(突然の)転居を決意させたものは、・・・などと彼女が少しずつ積み重ねてきたストレスのひとつひとつを逆に辿っていけば、母親をなじるに至る感情の軌跡と、その思いの複雑さは徐々に明かされるとは思いますが、しかし、いま、ここで問題にしているのは、このぶつ切りにされて見せられ続けてきたラストシーン、「清子が母親をなじる」というシーンだけを孤立して見せられ続けたことによって、自分が「稲妻」という作品のイメージを、いつの間にか「別のもの」として作り上げてしまっていたらしいこと(自分的には「刷り込まれた」と言いたいのですが)を説明したかったのです。

ずいぶんウザッタイ持って回った言い方をしてしまいましたが、要するに自分は、いままで、この母親をなじる高峰秀子の悲痛な顔のアップに「終」の字が被るに違いない、これがこの作品のラストシーンだといつの間にか思い込んでしまっていました、実際にこの作品を見る「つい昨日」までは。

しかし、今回見て、それが自分のまったくの思い違いであることに気が付きました。

清子は、母親をなじり、激高のすえに両手で顔を覆って泣き出します。

一瞬「東京物語」のラストシーンの原節子を思わせるくらいの実に美しい場面です。

すると母親は、「私だって、なにも好きこのんでそうしたわけじやない」と抗弁し、その時その時の過酷な現実に翻弄された思いをよみがえらせ、そのときだって精一杯誠実に生きてきて今の現在があるのだと、積み重ねた苦労に胸詰まらせ、そのように生きるほかに自分はどうすればよかったのだと、やはり泣き出します。

そして、「兄妹のなかでお前がいちばんいい子だと思っていたのに、母親をこんなに泣かせるなんて、なんて悪い子だ。」と清子を逆になじります。なんで私が非難されなけりゃいけないんだとでも言うように。

その言い方、その声の調子は、まるで聞き分けのない幼い子を叱る母親の柔らかさに満ちていて、虚をつかれた清子はふっと顔をあげ、思わず苦笑気味に愚鈍な「母親」を見つめます(「見つけます」と言ってもいいかもしれません)。

幾人もの男たちに依存して生きてきたそのだらしなさと愚かさの結果が、「父親違いの子供たち」というイビツな現実を生み出してきたのだとしても、そのようにしか生き得なかった母親の無防備な善良さに不意を打たれた清子は、それさえも愚かしいと唾棄し、罵り否定できるのかと戸惑います。
どうあろうと、この人が私の母親に違いないのだという感じでしょうか。

理解や同意まではできないとしても、この母親もそれなりに・彼女なりに懸命に生きてきたことを受け入れようとする娘と、どこまでも「被害者」として理解を押し付けてくる母親とが、かろうじて心かよわせる安らぎと柔らかさに満ちたシーンです。

帰る母親を駅まで送る夜道で、母親は何かを拾います、「なんだ、王冠だ、五十銭銀貨かと思った」と言って捨てる姿に「いまどき五十銭銀貨なんてないわ」と苦笑で応じる清子の眼差しには、ついさっきまでの母親への非難の厳しさは、すでに消えています。

これが、成瀬作品「稲妻」の本当のラストシーンです。

そうか、分かってしまえば、なんてことありません。

自分の「刷り込み」から妄想した悲嘆と絶望の大アップが、この映画の最終画面だなんて、少し考えてみれば、そんな切羽詰まった終わり方をするなど、もっとも成瀬巳喜男作品らしからぬ「有り得ない終わり方」であったことくらい、すぐにでも分かりそうなことでした。

しかし、これで自分の中に長い間わだかまっていた「オリ」のようなものが、氷解しました。

ここまでは、思い込みが如何に恐いかというお話なのですが、ここで話が、すこし飛びますね。

以前、「映画好き」が集まるある会合で、この自分の思い違いを話したことがあり、この話を聞いた参加者はどっと沸いて、座を大いに盛り上げたことがありました。

しかし、そのすぐあとで、こんなことを言った人がいました。

≪この「稲妻」は、いったい「誰と誰」との物語なのだろうか≫というのです。

座を盛り上げた自分の話が、あたかも「清子対母親」の物語のように聞こえ、その人は、そのことに違和感を持ったのかもしれません。

そのように言う以上、その人にも、また別の意見があるに違いないと考えた自分は、「あなたは、どのように考えているのか」と尋ね返してみました、実際には、この時を得た極めて恰好な話題が一座の関心を一気にさらい、談論風発の状況を呈して、自分の問いなど、その多くの人たちのザワメキの中に飲み込まれてしまって届きませんでしたが。

いちばん多かった意見は、やはり、全編を通して描かれている、金のチカラによって清子を無理やり我が物にしようと画策したパン屋・綱吉(小沢栄太郎が実に嫌らしく演じています、名演です)との確執でしょうか。

いや、この場合「確執」というのはおかしい、綱吉は清子につきまとっているだけで、嫌悪から避け続けている清子にとって「確執」という交渉まで至っていないというのが、本当のところかもしれません。
だとすれば、それは、物語を大きく包み込む「不吉な影」ではあったとしても、決してそれ以上のものではなかったような気がします。
綱吉の経済力に全面的に依存しているこの家族にとってその「不吉な影」は、結局は「恐怖」でしかなく、物語をひとつひとつ推進させるチカラ(まさに確執こそが「それ」です)にはなり得ていないような気がするからです。

あえて「確執」というなら、盛んに綱吉との縁談をすすめようとする長姉・縫子(村田知英子が演じています)とのギスギスとした関係の方が、むしろ相応しいのではないか。

しかし、なぜ長姉・縫子は、清子を綱吉に結びつけようとしたのか、もちろん、そこには清子に対する綱吉の並々ならぬ感心(あからさまな肉欲です)があったからには相違ないのですが、すでに綱吉とカラダの関係を持っていたに違いない長姉・縫子にとって、自分の位置を脅かしかねない清子を、あえて綱吉に人身御供としてあてがうメリットはあるだろうか。

いやいや、まさに次姉・光子(三浦光子が演じています)の例があるじゃないですか。

自分に欠けているもの(綱吉の欲望を満たすだけの性的魅力)を「次姉・光子」にカラダで担わせて、自分・長姉・縫子は利益(見返り)の方だけをちゃっかり頂戴しようと思っていたところ、結局は、自分の地位を脅かされていることに気づいて、不安と疑心暗鬼のすえに大喧嘩して、次姉・光子の家出・行方不明という事態を招きます。

ここには長姉・縫子が思い描いていた「姉妹の協力=役割分担」など、到底有り得ないことだったと彼女自身も思い知らされたわけですよね。

それは、次姉・光子にしても同じことだったと思います。利用されたとみせかけて、身をくねらせて綱吉の欲望を満たし、その見返りに金を引き出そうとした彼女も、姉の嫉妬によって企みがすべて瓦解するという「姉妹バラバラ」の事態を招いていますから、それはどうにも身動きのとれない、この先物語がどう展開するのか、まったく予測できない膠着状態をきたします。

そこで、ふたたびラストシーン、三女・清子のあのセリフ
「どうして私たち兄妹を、同じ父親の子として産んでくれなかったのよ」
に返りますね。

いままで考えてきたことすべてを受けたこのセリフの響きに、当初感じた突き放し、見捨てたような響きが、幾分薄らいできたことに気づきました。

少なくとも、清子は、綱吉を嫌悪したのと同じように、姉たちを見ているわけではない、もしかしたら、一時の怒りに激高した思いをこえて母親を許し、受け入れたのと同じように、欲望に翻弄された姉たちをもまた、許し、受け入れようとしているのではないかという思いさえ抱きました。

いずれにしても、高峰秀子の陰影のある奥深い演技があったればこそ、ここまで考えさせられたことは事実です。

思えば、この作品「稲妻」が撮られた1952年から、まさに女優・高峰秀子のピークに駆け上る成熟期のスタートの年として記憶されています。

稲妻(1952大映東京)
カルメン純情す(1952松竹大船)
女といふ城 マリの巻(1953新東宝)
女といふ城 夕子の巻(1953新東宝)
煙突の見える場所(195エイトプロ3)
雁(1953大映東京)
第二の接吻(1954滝村プロ)
女の園(1954松竹大船)
二十四の瞳(1954松竹大船)
この広い空のどこかに(1954松竹大船)
浮雲(1955東宝)


しかし、これらの「名演技」を、高峰秀子自身が、どのように自覚していたか、「子役スターから女優へ」という傑出したインタビュー記事が残されているので紹介しますね(聞き手は、佐藤忠男)。


佐藤 でも例えば「稲妻」なんて大映ですね。非常に細かいちょっとした仕草みたいなものが、非常に意味がある映画のようなものですね。「稲妻」は私、高峰秀子さんの最高傑作のひとつだと思っています。

高峰 忘れちゃった、あれはバスの車掌さん・・・。

佐藤 バスガールで、浦辺粂子さんの娘で種違いの兄妹がいる。村田知英子と三浦光子と、植村謙二郎が村田知英子のご主人で、・・・。

高峰 それで私どうするんですか(笑)。

佐藤 それであなたは、よりよく生きたいという理想を持っていて、だけれども、実に現在の生活がみじめったらしい。経済的にみじめったらしいというのではなくて、精神的にもみじめったらしく、何もものを考えていそうにない家族ばっかりで、こんな家にいるのは嫌だと。嫌なんだけれども、血肉の愛情があって、捨てるわけにもいかない・・・。

高峰 それで浦辺さんと移動で歩いていて、浦辺さんがなにか拾ったら、ビンの栓だった。そこだけ覚えている。あと何にも覚えてない。

佐藤 それはお金かなと思って拾った。何てまあいじましいんでしょうという。

高峰 そうそうそう。あれ変だな、だって「秀子の車掌さん」というのもバスガールですね。

(講座・日本映画、6巻「日本映画の模索」より)

高峰秀子生涯の名演技に話しを向けたところ、すぐにいなされ、「秀子の車掌さん」に逃げられる、そこには彼女一流のテレもあったかもしれませんが、高峰秀子という人の資質を十分に伝えてくれる逸話だと思います。


そもそもこの座談が、高峰秀子の「忘れちゃった」という一言で始められているのも、出色ですよね。



このラストでも成瀬巳喜男は、説明的なセリフや強い感情をモロに伝えるセリフを嫌い、田中澄江の脚本を大幅に改変し、日常的にしっくり嵌らないセリフはことごとく削除・省略したといわれています、とくにこのラストにおいて。

母娘の言い争いが収束にむかう会話

清子「母ちゃん・・・こんど浴衣一枚買ってあげるわ。売れ残りの安いのを」

おせい(機嫌はなおっています)「いやだよ、売れ残りなんて」

この会話を受けて田中澄江の元の脚本では、ラストシーンは、こんなふうになっていたそうです。

夜の道

ときおり稲妻が光っている

並んで歩く母娘


おせい「帰ってくるよ・・・きっとお光は。あの子小さい時から雷が嫌いでね。雷が鳴り出すと私にしがみついたもんだ」

「終」


しかし、成瀬巳喜男の「削除・省略」を経た実際のラストシーンは、「こう」なりました。

下宿の一階

家主「お帰りですか」

おせい「お邪魔しました」

家主「お構いもしませんで」

おせい「どうぞよろしくお願いします。(すぐに家主の作っている人形に気づき)あっ、お人形ですか。まあまあ」

清子「お母ちゃん!」

おせい(あきらめて)「あいよ。それじゃ」


そして、夜の道

並んで歩く母娘

おせいは何かに気づき、拾い上げる

清子「お母ちゃん、なに?」

おせい「50銭銀貨かと思ったら、ビールの口金だよ」

清子「50銭銀貨なんて、今ありゃしないわよ」

おせい「そうだよ。あたしも変だと思ったよ」

清子「いやあね。あ、ねえ、お母ちゃん、あのルビーの指輪ねえ、見てもらったら本物だって」

おせい「そうだろう。そうだとも。お前のお父っつぁんは、嘘なんかつけない人だったよ」


「終」


そういえば、誰やらが書いた成瀬本の書名に「日常のきらめき」というサブタイトルがあったのを、いま思い出しました。

(1952大映)監督・成瀬巳喜男、脚本・田中澄江、原作・林芙美子、企画・根岸省三、撮影・峰重義、美術・仲美喜雄、音楽・斎藤一郎、助監督・西條文喜、撮影助手・中尾利太郎、美術助手・岩見岩男、録音・西井憲一、録音助手・清水保太郎、音響効果・花岡勝太郎、照明・安藤真之助、照明助手・田熊源太郎、編集・鈴木東陽、製作主任・佐竹喜市、装置・石崎喜一、小道具・神田一郎、背景・河原太郎、園芸・高花重孝、移動・大久保松雄、工作・田村誠、電飾・金谷省三、技髪・牧野正雄、結髪・篠崎卯女賀、衣裳・藤木しげ、 スチール・坂東正男、記録・堀本日出、
出演・高峰秀子(小森清子)、三浦光子(次姉・屋代光子)、村田知英子(長姉・縫子)、植村謙二郎(縫子の夫・龍三)、香川京子(国宗つぼみ)、根上淳(つぼみの兄・周三)、小沢栄(栄太郎)(パン屋・綱吉)、浦辺粂子(清子の母・おせい)、中北千枝子(田上りつ)、滝花久子(杉山とめ)、杉丘毬子(下宿人・桂)、丸山修(清子の兄・嘉助)、高品格(運転手)、宮島健一(バスの老人客)、伊達正、須藤恒子、新宮信子、竹久夢子、
製作=大映(東京撮影所) 1952.10.09 9巻 2,392m 87分 白黒





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by sentence2307 | 2017-07-16 09:09 | 映画 | Comments(0)