世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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リップヴァンウィンクルの花嫁

少し前の日経新聞に興味深い記事(コラムです)が掲載されていて、捨てきれずにそのページだけ保管していたことを、いまのいままで、ついうっかり忘れていました。

これはまずいぞと、さっそく当初感じたことなどを書き留めておこうと思い立った次第です。

それは「それでも親子」というコラム欄で、執筆者は劇作家の永井愛、題は「父が教えた人間の悲喜劇」(2017.7.11夕刊)という記事です。

画家だった厳しい父親は、劇作家としての娘(永井愛)の仕事をなかなか認めてくれようとせず、1996年の紀伊国屋演劇賞個人賞を受賞したときでさえも、「世も末だ」と言っただけで特に褒めてはくれなかったと述懐しています、その後、やっと認めてくれたと感じたのは2002年だったと書いています。

このコラムの主旨は、その父の生誕101年を記念し、今年の4月練馬にオープンした「永井潔アトリエ館」の館長として、彼女が運営に携わっていることを自から紹介したものですが、衝撃だったのは冒頭部分で触れている、彼女が幼い頃(2歳)に離婚して家を出ていったという母親と17歳のとき久しぶりに会ったときの思い出が記された部分です。

自分にはその箇所が、ことのほか強烈に印象に残り、それで、そのままこの記事を忘れてしまうわけにはいかないなと感じたのだと思います。

その箇所をちょっと引用してみますね。

「17歳のときに母から突然連絡があり、会いに行きました。手作りのトンカツをごちそうしてくれたのですが、ほぼ初対面の女性にいきなり母親のように振る舞われて違和感がありました。どんな映画が好きかと聞かれ、「戦艦ポチョムキン」と「旅情」と答えると、「2つとも好きというのは矛盾」と言われ、論争になりました。母をすっかり嫌いになって、会わずにいるうちに亡くなってしまったのが心残りです。」

ただ、これだけの文章なのに、何故か胸を塞がれるような堪らない気持ちになってしまいました。

自分的には、好きな映画は何かと聞かれ、「戦艦ポチョムキン」と「旅情」だと答える17歳の少女の飾らない澄んだ率直さに感銘したのですが、しかし、その奇妙な取り合わせに違和感を抑えられなかった母親は「そう」ではなかったのかもしれません、たとえ実の母娘とはいえ、ふたりの間には15年もの空白の時間が流れてしまっています。

母親が、いかに娘への愛情を募らせ、思いを込めて語り掛けても、「なにをいまさら」という思いを抱えている娘は素直になれないまま、母のその不自然な過剰さと、常識にこだわる杓子定規な切り返しに苛立ち、違和感と反発しか覚えることができなかったのだと思います。

たとえあの時、母親の問い掛けに対して、娘が≪「戦艦ポチョムキン」と「旅情」≫と答えていなかったとしても、ぎくしゃくと空回りするしかないふたりの会話には、いたるところに、また別な火種が潜んでいて、再び同じような「論争」をギスギスと繰り返したに違いありません、おそらくは、定められた「破綻」に向けて。

馴れ馴れしくされればされるほど苛立ち、自分には母親なんかいなくとも、これから先だって「ひとり」で立派に生きていくことができるのだ(今までだって「そう」してきた)と反発する娘の気持ちは、とうに母親から離れていて、ひたすら突っ掛かっていくことしかできなかったのだと想像できます。

そして幾年か経ち、母の死の知らせを聞いたときに感じた彼女の、会っておけば良かったという「心残り」も、仮にその「知らせ」が少し先送りされていたとしたら、たぶん「心残り」の方もその分だけ少し先送りされていたに違いない、その程度の心残りだったのだと想像することは極めて容易です、そのことはすでに現実が証明してしまっていますし。

いずれにしても娘は決して、そしていつまでも母親に会いにいこうとはしなかったはずだと自分は強く確信しました。

そして、「そう」感じた瞬間、自分の中に鮮明な映像として怒涛のように流れ込んできたのが、岩井俊二監督作品「リップヴァンウィンクルの花嫁」の、安室(綾野剛が演じています)と七海(黒木華が演じています)が、娘・真白(Coccoが演じています)の死を母親に報告に行くあの鮮烈なラストシーンでした。

長い間、疎遠だった娘の突然の死を知らされた母親(りりィ生涯最高の名演です)は、家を出て行ったきり、いままで連絡のひとつも寄こしてこなかったあんな娘など、もはや自分の子だとは思っていないと、コップに満たした焼酎をあおりながら、頑なに否定し続けます。

そこには、母親である自分を徹底的に否定し、見捨てて去っていった娘に対する憤りというよりも、どんな窮状に見舞われても決して親の自分を頼ろうとしてこなかったことに対する(侮辱されたような)怒りだったに違いありません。

母親は、仏壇の横に飾られた娘の写真を手でなぞりながら、あの子の目はこんなじゃなかった、あの子の顔はこんなじゃなかった「これじゃまるで別人だ」と吐き捨てるように言い捨てます。

そして、ポルノ女優になったと知った時の驚きを苦々しく述懐し始めます、よりにもよって人様の前で裸をさらし、恥ずかしい姿を撮られて世間にさらされるような、そんないかがわしい仕事をしなくたってよさそうなものじゃないか、わたしゃ世間様に恥ずかしくって顔向けができなかったよと掻き口説く母親は、酔いで体を揺らしながら、娘の死の報告に来た安室と七海の前で、突然着ている服を脱ぎ始めます。

母親のその突然の行為に、当初はただの「だらしない酔態」と見て、あっけにとられていた安室と七海が、しかし、徐々に母親の真意を理解するという傑出した場面です。

冷酷で厳しいこの社会を、女がひとりで生きていこうとして(なにか必然的な過程のなかで)ポルノ女優という過酷な職業を選ぶ、人前で「脱ぐ」ということが如何に恥ずかしいことか、生活のために娘が耐えたその辛さと惨めさを少しでも理解しよう・少しでも近づこうとして母親は、悲しいくらい必死に脱いだのだと思います。

彼女たちだって、なにも特別な人間なんかじゃない、世間では悪意の込もった卑猥な薄笑いで語られる「AV女優」という偏見に満ちた「特殊さ」を、(りりィが「脱ぐ」ことによって)「恥ずかしさに耐える」という常識の域まで引きずりおろしてみせた岩井俊二の心優しい悲痛な「思い」に自分は撃たれたのだと思います、撃たれないわけにはいきません。

売れない俳優が集まって副職として結婚式の親戚代行業をしていくなかで、余命わずかな孤独な女優(真白)のために、画策して密かに「花嫁」(心を通わせられる親友)を妻合わせるという、少し強引なこの癒しの物語の背後には、岩井俊二の密かな「哀悼」の思いがひそんでいるのではないか、劇中名に使われた「皆川七海」や「里中真白」や「恒吉冴子」の仮名を眺めながら、ぼろぼろになって早世を余儀なくされた不運な女優たちのことを思わず連想させられてしまったのは自分だけだったのか、いまは確かめるすべもありません。


(2016東映)監督原作脚本編集・岩井俊二、エグゼクティブプロデューサー・杉田成道、プロデューサー・宮川朋之、水野昌、紀伊宗之、制作・ロックウェルアイズ、撮影・神戸千木、美術・部谷京子、スタイリスト・申谷弘美、メイク・外丸愛、音楽監督・桑原まこ、制作プロダクション・ロックウェルアイズ、製作・RVWフィルムパートナーズ(ロックウェルアイズ、日本映画専門チャンネル、東映、ポニーキャニオン、ひかりTV、木下グループ、BSフジ、パパドゥ音楽出版)
出演・黒木華(皆川七海)、綾野剛(安室行舛)、Cocco(里中真白)、原日出子(鶴岡カヤ子)、地曵豪(鶴岡鉄也)、和田聰宏(高嶋優人)、佐生有語(滑)、金田明夫(皆川博徳)、毬谷友子(皆川晴海)、夏目ナナ(恒吉冴子)、りりィ(里中珠代)、

映画第40回日本アカデミー賞(2017年) 優秀主演女優賞 (黒木華)
第41回報知映画賞(2016年) 助演男優賞(綾野剛、『怒り』『64-ロクヨン- 前編/後編』と合わせて受賞)
第31回高崎映画祭(2017年) 最優秀助演女優賞(りりィ)
第90回キネマ旬報(2017年)日本映画ベスト・テン 第6位



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by sentence2307 | 2017-08-06 09:24 | 映画 | Comments(0)