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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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マドモアゼル ふたたび

映画を見て、感銘した作品について感想を書いたり、あるいは落胆した作品についても努めて感想を書くことを続けてきたこのブログを、曲がりなりにも現在までどうにか持続させることができたのは、きっと、自分の感じ方に少しばかり「特異」な部分があって、それが反発の「バネ」になり継続につながったからだと思います。

メディアやネットに表れる多くの「感想」や「批評」が、自分の感じ方のそれと大差のないものなら、きっと自分は書き続ける意欲も意味も見失い、「映画収集狂」というブログの看板なんてさっさと下ろして、躊躇なく口を閉ざし、心静かに「沈黙」を選ぶこともできたと思います。

なにもわざわざ大勢の考え方をなぞるような「提灯持ち」や「迎合」をしてまで、苦労して「キャッチコピー」の更なるコピーをアップするような愚をおかすことだけはすまいというのが、自分に課した一応の指針であり覚悟でした。

ですので、逆に言えば世間に流布される「大勢」に対する違和感が、自分のブログを持続させてきた原動力・推進力だったといえるかもしれません。

さて、今回、映画「マドモアゼル」のコラムを書くにあたって、語句の解釈を確認するために語句検索をかけていたら、こんなロイター電に遭遇しました。


題して
≪消える「マドモワゼル」、フランスの行政文書で使用禁止に≫とあります。
フランスのフィヨン首相は、今後同国の行政文書に、未婚女性の敬称「マドモワゼル」を使用しないと発表した。
国内の女性団体が昨年9月、この単語の使用が性差別に当たると陳情しており、首相がこれに対応した形となった。
首相は、正当な理由なく女性の婚姻区分を示す単語が書類に使用されていると言及して、新たに印刷する書類から「マドモワゼル」は消去され、女性を示す性別欄は「マダム」で統一されることになる。
なお男性には従来から選択肢がなく、一律で「ムッシュ」とされている。
「マドモワゼル」には、若さや未熟といった意味合いも含まれており、一定の年齢に達しても結婚しない女性にはそぐわない言葉だった。
[パリ 2012年 02月23日 ロイター] 


なるほど、「マドモワゼル」という言葉にそんな微妙な意味(一定の年齢に達しても結婚しない女性に「若さや未熟」はそぐわない)もあったなんて、この記事を読むまで知りませんでした、迂闊です。

女性が結婚していようがいまいが、行政文書における「性別欄」の表記は、男(ムッシュ)がそうであるように、「マダム」と単一表記に統一すべきという、つまり「性差別を含んだ用語の使用を禁止する」という、いささか遅すぎた感もありますが、これは歴史的な措置なのだと分かりましたが、しかし、この記事が示唆しているのが、それだけではなくて、婚期を逸した未婚女性には「若さや未熟」(つまり、処女性です)を連想させる言葉は似つかわしくない・相応しくない、という意味もあるとも読めました。

「結婚していようがいまいが、大きなお世話だ」とする女性たちの性差別への抗議が結実したその一文に、知らぬ間に取り込まれた「(単に表示としての)処女性の否定」という付帯概念まで女性たちは認識し、容認したのだろうかという疑問です。

この年になって、いまさら「処女」がどうのなんて、ちゃんちゃらおかしいわよと冷笑するか、

幾つになっても女として「処女(若さや未熟)」の初々しさを失わずに持つことは大切なことだわと思うか、です。

このロイター電がどこまでのことを言おうとしているのか、その及ぼす「射程」について考えてしまいました。

そもそも、この記事に出会った切っ掛けというのが、映画「マドモアゼル」のコラムを書くための語句検索の途上だっただけに、なんだか複雑な思いです。

映画「マドモアゼル」は、女性差別を告発したり啓蒙したりするようなタイプの映画ではありません。

ジャンヌ・モローが演じている村の女教師は、どう見ても35歳~40歳の女性で、僕の子供時分の言い方からすれば、「オールド・ミス」(いまでは、こう口にするだけで糾弾されかねない恐れとオノノキを感じてしまうくらいの世間を憚る死語になっています。そういえば「シスターボーイ」なんて懐かしい言葉もありました、まあ関係ありませんが)というジャンルに属する女性です、しかし、当然ながら「マドモアゼル」の方がはるかに素敵で響きもよく、「淑女」という印象さえ感じられていると思っていたら、この言葉には、リスペクトのほかに、暗に「老いた未通女」とでもいうべき揶揄も含まれていると町山智浩がyou tubeで話していることを知り、ちょっと意外な感じを受けました。

しかし、たとえそうだとしても、「オールド・ミス」の呼び方の酷さ(救いも温かさもない蔑称という印象です)は、到底その比ではありませんし、だからなおさら、「性的抑圧」というニュアンスをこの言葉から一層感じ取ってしまうのかもしれません。
このトニー・リチャードソン監督作品「マドモアゼル」は、確認できる限り、いまでもネットにおいては、「理解不能」と「嫌悪感」の大合唱に満たされている作品です。


自分が投稿サイトで読んだ感想は、だいたいこんな感じでした。

≪マドモアゼルがイタリア人の出稼ぎ労働者マヌーに惹かれ、実際森の中でするsexも執拗に描写されているのに、なぜ彼女は彼に対して態度を豹変させたのか、そこがどうしても理解できない。
マドモアゼルは、どういう理由でいつ殺したいと思うほどの殺意が芽生えたのかが正直わからない。
故意ではなかった最初の火事が、どうして邪悪な「水門の破壊」や「放火」や「家畜の毒殺」にまでエスカレートしたのか、その後の事件を起す動機がまったく理解できない。
第一マドモアゼルとマヌーの関係は、どちらかといえば物語の中では希薄な印象で、むしろ、マヌーと直接接触する以前、彼女は、マヌーの息子ブルーノに意識的に接近し、執拗に親切にしようとしたかと思うと、すぐに態度を変えてみすぼらしい服装を非難したり貧しさを罵声する場面(まったくひどい話です)の方に比重をかけて描いているのにも理解できない。マヌーの気を引くためにそうしているとも思えないし、なんだかあの前後の辻褄があわないような気がする。
これってただの女性特有の単なる気紛れとか、ヒステリーなのか。
いずれにしてもマドモアゼルの悪意(心理と行為)の在り方が謎すぎて追えない。
冷徹な抑えた映像と乾いた暴力的な描写には「映画」として惹かれるものがあったけれど、この邪悪な物語自体には嫌悪感さえ覚えたし、ストーリー的にはチンプンカンプンだった。≫


この難解な作品からすれば、「そりぁそうだ」と、この感想氏の疑問符には自分も全面的に同意したい気分になりました。

しかし、これらの反応が、別にいまさら湧きおこったことでもなんでもなく、1966年カンヌ映画祭に出品されたとき以来の疑問符が、現在まで継続して投げかけられ続けている反応にすぎず、そうだとすれば、多くの映画ファンは、この「マドモアゼル」という作品に馴染めないまま、「理解不能」と「嫌悪感」(解明できない「違和感」という癌細胞)を抱えて、実に半世紀ものあいだ悶々としてきたことになります。

その非理解(「理解」の放棄)と拒否反応は、現代においても維持されていて、それがそのまま、ネットにおける情報のあまりの少なさに反映しているような気がします。

当時の時代的限界を踏み越えたアンモラルなこのテーマ(水門破壊、放火、飲料水への毒物混入、淫乱、児童虐待、愛人への裏切り)は、あらゆる批評家から愚劣なポルノ映画にすぎないと決め付けられ、迫害と無視の仕打ちにあいます、それにトニー・リチャードソンとジャンヌ・モローのスキャンダルなども加味され、モロー本人の人間性と才能を疑問視されたうえ、彼女の仕事を選ぶ基本的な能力までをも疑われるなど、作品は深刻なダメージを受けて興行的にも失敗を余儀なくされました。

いわば、この映画で描かれた「家畜を溺死させた水門破壊、焼死者を出した放火、家畜の飲料水への毒物混入による家畜の毒殺、貧しさのための粗末な服装をみっともないと罵った児童虐待、そして淫乱と裏切り、そして罪を着せた愛人の撲殺」のどの犯罪に対しても理解を得ることや賛同を得ることが困難だったとしても、しかし、将来の長きにわたって、この作品を決定的に拒否させたものは、映画の最後でマドモアゼルの犯罪のすべてを許容したかに見える(否定的姿勢といえば、せいぜいマヌーの息子ブルーノがマドモアゼルに唾を吐きかける場面があるくらいです)演出者トニー・リチャードソンに対する観客の嫌悪と拒否でした。

「長距離ランナーの孤独」において、ゴールライン直前で「勝たないこと・負けること」で有産者階級への厳しい抵抗を示したあの「怒れる作品」とは、わけが違います。そこにも、この作品に対して観客が抱いた厳しい違和感と拒絶の根があったかもしれません。


半世紀もの長きにわたって、良識ある世界から一貫して拒絶され、一度として受け入れられることのなかった異色作「マドモアゼル」は、主演女優・ジュンヌ・モローのその死に際しても、それが彼女の輝かしい経歴の中に数えられることもなく、まるでそんな作品など最初から存在しなかったかのような「無視」の扱いを受けています。

その間、このアンモラルな映画が、最初から嫌悪と拒否のなかで終始全否定されて不遇な扱いを受けてきたかというと、決してそうではありません、「理解」への努力は為されたはずです。

しかし、この作品に描かれているジャンヌ・モロー演じるマドモアゼルの悪意に満ちた密かな数々の奇行と犯罪のなかに、仮に「狂気」を想定したとしても、最後には結局悉くその「理屈」の予測は裏切られてしまう、絶え間ない「否定」に次ぐ更なる「否定」の連続という「ちゃぶ台返し」(「愛の不在」などという生易しい次元ではこの謎解きはできません)にあい、肩透かしを食わせられる苛立ちと、男に対する異常な関心・性的欲情と罪悪感も、フロイトの尺度だけでは到底測り得ないと気が付いたときの自棄的な「駄作呼ばわり」とか、あるいはお座なりな「階級対立」の絵解きだけでは到底説明のつかない覚束なさとか、この作品の掴み所のなさに対する苛立ちと嫌悪感に満たされている印象を自分もまた受けてきました。

そして、いままで得られなかったその答えというのが、はたして老いた未婚の処女(マドモアゼルでありオールド・ミス)が抱いた狂気の妄想と「犯罪」として具現化された奇行にあるのか、自分もまた「この地点」までようやく辿り着いたまま、その先に進めず、タジロギ、身動きができなくなりました。

一両日「この先」を考えたのですが、しかし、書き加えるべき1行のアイデアも思い浮かばず、自分に課した許容時間も過ぎました。
しかし、答えはきっと、「聖ジュネ」の中に記されているはずです。

ギブアップの苦し紛れついでに「聖ジュネ Ⅰ」「すべてであるに至るためには、何事においても何ものでもないように心がけよ」の章の298頁上段(註11)に掲げられているエピソードを紹介しておきますね。

≪ジュネは自分の子供を殺したいという誘惑につかれている病女に問うたことがある。
「なんだって子供を殺すの。君の夫ではだめなの?」
すると彼女は答えた。
「だってわたしはそれほど夫を愛していないんだもの」≫

自分も文中で
「愛の不在」などという生易しい次元ではこの謎解きはできません
などと言ってしまっている以上、ここに書かれている「愛していないんだもの」も一筋縄ではいかない屈折したものと理解せざるを得ません。


(1966ウッドフォール)監督・トニー・リチャードソン、脚本・マルグリット・デュラス、原案・ジャン・ジュネ、製作・オスカー・リュウェンスティン、音楽・アントワーヌ・デュアメル、撮影・デヴィッド・ワトキン、編集・ソフィー・クッサン、アントニー・ギブス、美術ジャック・ソルニエ、製作会社・ウッドフォール・フィルムズ・プロダクションズ、字幕翻訳・中沢志乃
出演・ジャンヌ・モロー(Mademoiselle)、エットレ・マンニ(Manou)、ケイス・スキーナー(Bruno)、ウンベルト・オルシーニ(Anton)、ジェラール・ダリュー(ブーレ)、ジャーヌ・ベレッタ(Annette)、モニー・レイ(Vievotte)、ジョルジュ・ドゥーキンク(The priest)、ロジーヌ・リュゲ(Lisa)、ガブリエル・ゴバン(Police Sergeant)、
シネマ・スコープ(1:2.35)、モノクロ/シネスコ、モノラル、35mm



Commented by もにか at 2017-08-22 16:17 x
sentence2307さま:先日のリンクの申し出をご快諾してくださり、ありがとうございました。本日upしたブログにリンクいたしました。よろしければご笑覧ください。(3月3日、の記事です)https://note.mu/monika0502/m/m464cbb076766
ジャンヌ・モロー、若い頃も美人ですが、歳をとっても美しい女性でしたね。しわやたるみも美しくみえる素敵なお婆さんでした。私の憧れです。ではまた。
Commented by sentence2307 at 2017-08-22 21:25
もにかさん、こんばんは。
noteのアカウントがとれなかったので、こちらでお礼をさせてください。
ブログ、拝見しました。
これからもちょいちょいお邪魔させていただきますね。

いい娘さんを持って、お父さんも喜んでおられますね、きっと。
読ませていただき、子供の頃、近所に「労働者クラブ」というのがあったのを思い出しました。
これからもよろしくお願いいたします。
by sentence2307 | 2017-08-19 11:36 | トニー・リチャードソン | Comments(2)