世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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「晩春」における紀子の怯えと逃げ

委ね凭れ掛かることを無条件で許してくれて、更にすべてを受け入れてくれる父親(肉親)の愛とその穏やかな生活に較べると、そのような「お嬢さん」にとって、過剰な保護から離れて自立と自己責任を問われることとなる「結婚」は、遥かに過酷な境遇と言わねばなりません。

お嬢さん・紀子がお父さんを好きだと言明する背景には、何の責任も伴わないこの穏やかな生活をこのまま続けていたいと願う彼女の、現実に対峙することを恐れる「怯えと逃げ」をも加味する必要があるように思います。

小津監督が、父娘の別離の場面を情感たっぷりに描いているこの場面からは、そこに密かに描き込まれている女の狡さ(現実から目を逸らし女ひとり精一杯生きるためにどうしても必要な「怯えと逃げ」をそんなふうに言ってはいけないかもしれませんが)は見つけにくいかもしれません。

いずれの紀子も理想的な女性です。

少なくとも小津監督は、そのように彼女を描いている。

しかし、その美しさを見るのと同じように紀子の狡猾さをもまた見い出すことも必要なのではないか、そのときこそ孤独の中で生き惑う紀子が生きた女として立ち上がってくるのではないかと考えてしまいます。

「いいえ、そうなんです。あたくし猾いんです。お父様やお母様が思っていらっしゃるほど、そういつも昌二さんのことばかり考えているわけじゃありません。」

小津監督は、この世のすべてのものをこよなく美しく描きました。

それは、醜いもの忌まわしいものもまた、すべて美しく描いたということです。

多分それはとても残酷なことだと、最近つくづく思います。

つまり、いかに美しく描こうとも、厳しい現実や狡猾な人間は厳然としてそこにあり、いたこともまた美しく描いたのですから、時として僕たちは、その「裂け目」を垣間見せられてしまう。

「自分たちは、まだまだいい方なのだ」、
「幸せな方さ」

と繰り返されるたびに、老父や老母、そして老夫婦たちを囚えているあまりにも厳しく残酷すぎる現実が、次第に露呈し明らかになっていくという、あれです。

否定的に反復される「是認」、繰り返されることで形骸化していく「肯定」、交わされる度に虚無化され続ける「同意」、まあ、そこはどのような言い方をしてもいいのですが、小津映画のなかで表面上取り交わされる「会話」の意味するものが、反復されることで次第に色褪せ、空洞化し、形骸化し、虚無化し、そしてあるいは否定にまで達してすっかり変質してしまう局面に、僕たちは多くの作品のいたる所で既に接してきました。

過酷な現実は厳然としてそこに存在しているのに、そして内心お互いにそのことは十分に認識していながら、せめて言葉だけでも飾り立てずにいられないのは、きっと懸命に確認し合あわなければどうしょうもない絶望感に囚われているからだろうと思います。

もちろんそれは厳しい現実に身構えてどうにか生きていこうとする庶民に許された知恵と優しさだろうとは思いますし、同時にそれは小津監督の「優しさ」に通じているものなのかもしれませんね。

小津安二郎に「優しさ」など、およそ似つかわしくないかもしれませんが、戦後の混乱期に本音丸出しの「風の中の牝雞」を撮った優しさと同質のものだと考えれば、それほどの違和感はないような気がします。
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Commented by clonecd479 at 2011-05-10 17:07 x
Bind the sack before it be full.
Commented by longchampoutlet at 2013-05-25 08:09 x
「晩春」における紀子の怯えと逃げ : 映画収集狂
by sentence2307 | 2005-09-25 23:41 | 映画 | Comments(2)