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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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小津演出試論

故三遊亭円生の「淀五郎」が好きで、ときどきCDを聞いています。

別名を「四段目」または「中村秀鶴」として知られたネタだそうで、古くは名人といわれた円喬や三代目円馬がよくやった噺として有名だったと、ある解説書で読んだことがあります。

忠臣蔵の判官役が急病で倒れ、急遽大役を振り当てられた若手の沢村淀五郎が、舞台上で芸のまずさから市川団蔵に赤恥をかかされた挙句、自分の芸の至らなさに苦しみながらも芸の工夫がつかず、夜逃げでもしようかと暇乞いに行った中村秀鶴(円生の噺では、確か中村仲蔵になっていたと記憶しています)から芸の真髄を授けられるという噺です。

いまから切腹をしようかという高貴な武士の、目線はこう、手の位置はこう、身の内に9寸5分が入ったときの凍えるような所作はこう、そのとき急変するはずの唇の色はこう、そして
「お前には今から切腹するという判官の気持ちなどまったくない。大抜擢を受けた淀五郎が、自分のいいところを見せたいという気持ちで芸をやっているから、なってないのだ。」
と仲蔵が淀五郎に教え諭す場面です。

この噺を聞くたびにある意味特異ともいえる小津演出のことを考えてしまいます。

過剰な所作を極力廃して、細部まで細かく指示することによって、まるで器械体操のような演技を要求した小津監督にとって演技とは一体なんだったのか、その答えのヒントは、もうひとつのエピソードの引用の必要があるかもしれませんね。

BSで放送した生誕100年記念番組で、各作品の放送前に、要領よく纏められている「小津百科」というささやかな解説が放送されていて、とても楽しみにしていました。

そのなかで、確か「生まれてはみたけれど」の直前に放送されていたものが印象に残っています。

小津監督が、青木富夫が飼っていた犬を映画に出演させないかと青木少年に話したところ、
「犬は演技しないよ」
と答えた青木少年に対して、
「お前だって演技しないだろう」
と答えたという部分です。

もちろん、この言葉の響きには、子供や犬が演技しないことを揶揄とか非難をしているのではなく、愛すべきものという親愛のニュアンスが感じられてなりません。

このひと言には、小津監督の含蓄に富んだ演技論が広がっているように思えてなりません。

杉村春子などほんの僅かの例外を除いて、小津監督は、いかなる俳優にも勝手な演技をすることを決して許さなかったといいます。

繰り返しダメだしをされたことに抗議した「早春」の岸恵子に、「それはね、君がとても下手だからだよ」といってギャフンといわせたというエピソードは、あまりにも有名ですよね。

BSの特集番組では「麦秋」に出演していた淡島千景が、紅茶茶碗を持ち上げ、顔を廻らすだけの演技に小津監督のOKが得られず、何時間にもわたる厳しい指導を受けたことを回想していた部分がありました。

しかし、その対極に位置するものが、小津の愛した「子供や犬の、演技ではない自然な演技」ということになるでしょうか。

青木少年に「お前だって演技しないだろう」と答えた小津監督のあの言葉のニュアンスを、そのような「演技」を好ましいもの、愛すべきものと考えての発言だったと捉えるか、またはそうではないと見るかによってこのささやかな試論の趣旨は大分違ってしまうのですが、僕の場合は前者と看做して無謀な仮説をすすめていこうと考えています。

つまり、プロの役者たちに演技をさせない指導と、子供や犬の「演技ではない自然な演技」を愛する小津監督の演出論が、どこかでいずれは矛盾なく合致するのか、僕の長い間持っていた疑問の解明への試みです。

プロの役者たちに「演技」をさせないということと、子供や犬など演技しないで素のままでいることがベストなのだと見る見方は、それ自体が根本的な矛盾を孕んでいます。

つまり「演技ではない自然な演技」という言葉は、演じなければ、それだけで「演技」たり得ず、演じる以上はいかに「自然」に見えようと、どこまでも演技にすぎない、言葉自体互いに否定し合い概念的にも齟齬が明らかで、イメージとして成り立ちようがないと思えてしまうからでしょう。

しかし、実際には僕たちは、子供や犬の無邪気な演技が、ときとして、プロの俳優の演技を遥かに凌駕してしまう多くの例を知っています。

少なくとも小津監督は、それを是とした。

そのような子供にあって、プロの役者にないもの、それは無邪気さ、でしょうか。

無意識といってもいいし、無精神といってもいい。

プロの役者が長年にわたって鍛え上げ練り上げ計算し尽くして作り上げてきた演技が、時として子供や犬のその無邪気さ・無意識・無精神の演技に及ばない。

プロの役者たちに勝手な演技させない小津監督の「抑え」の意味が、このあたりにあるような気がします。

演技の要諦は、きっと自然に「見える」ことにあるのであって、「自然」そのものではない。

小津監督が俳優たちに要求する幾分奇妙な所作は、「自然に見える」ための符号のようなものだったのだと思います。

そして演じないことこそが最高の演技という自家撞着は、あらゆる演技者に課せられた、乗り越えていかねばならない永遠の命題でもあったと思います。

役者にとってそれは、小手先の巧拙や、上手下手のレベルを遥かに超えたところにあるひとつの境地のようなものなのかもしれません。
by sentence2307 | 2005-10-20 00:17 | 小津安二郎 | Comments(0)