世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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冬の宿

豊田四郎という映画監督に対して、つい最近まで持っていた知識は、恥ずかしながら「文芸作品の映画化が至極得意な映画監督」という程度の、どの解説書にも書いてあるようなお座成りなものでしかありませんでした。

ところが、ここのところ豊田四郎が「東京発声」で撮ったという作品を立て続けに見る機会があって、僕の固定観念を遥かに超えた豊田四郎という監督の計り知れない力量を思い知らされています。

そして同時に、いままで何ということなく読み過ごしてきたこの監督に与えられた称号のような「文芸作品の映画化が得意な監督」ということを少し真剣に考えてみようかなと思うようになりました。

「東京発声」時代を年代的にみると、1937年の「若い人」から「泣蟲小僧」、「冬の宿」、「鶯」、「奥村五百子」、「小島の春」、「大日向村」にかけて1941年「わが愛の記」に至る時期ということになるでしょうか。

オリジナル・シナリオを映画化するのと異なり、もともと完成されている文芸作品を映画化するとなると、そこには当然、ある困難さとともに安易さが伴ってしまうだろうなという気がします。

他人の感受性が、おそらく極限まで深められて結実したであろう完成度を持つ文芸作品を、自分なりに消化して映画化しようと格闘すれば、そこには当然相当な軋轢というか困難が予想されるであろうし、逆にそこに描かれている「他人の感受性」をそのまま・あるがままに、ただなぞって撮っていこうとすれば、これほどの楽で安易なものはないでしょうが、それだけに「あらすじ」に流されてしまう恐れもあると思います。

以前、この期間に撮られた豊田四郎監督作品「鶯」を見たとき(本当の偶然なのですが、直前にその原作を読んでいます)、この群像小説ともいうべき原作では語られていない個々の人物の描き分けの見事さに驚かされました。

なかでも、堤眞佐子演じる農婦が、売りに来た鶯を禁猟鳥と咎められ、嫌々放す傑出した場面が忘れられません。

生活苦から野鳥を採っては売り歩く貧しい農婦が、禁猟鳥と咎められ仕方なく放す鶯が、鳴き残す囀りの余韻に虚空を見つめて、いつまでも聞き惚れる素晴らしい表情を捉えたあの映像は、神々しい聖なる領域に属するものという印象を受けました。

記録には、この「鶯」という作品は、撮影が遅々として進まなかった「冬の宿」の合間を縫って11日間で撮られた作品ということにも驚かされた覚えがあります。

さて、その「冬の宿」です。

第一印象としては、フリードリッヒ・W・ムルナウの「最後の人」みたいな作品かなと思って見ていたのですが、大変な錯覚でした。

「最後の人」が自尊心をズタズタにされる「理不尽な運命」を描いている映画なら、この「冬の宿」は、自尊心の欠落した虚栄心に満ちた男が、ただ欲望に煽られるままに堕ちるところまで堕ちつくし、すべてを失いながらも、それでもなお、生き続けなければならない「日常生活者の地獄」を描いた作品というべきかもしれません。

きっと、ここに描かれている「堕ちていく人物」は、どこまでも自虐的で無自覚なマルメラードフなのでしょうが、しかし、彼の失墜をどこまでも見守り支えているのは、その自堕落な夫と対比的に描かれている妻の存在かもしれません。

夫の破滅的な所業や理不尽な暴力に堪えるために、みずから狂信的な禁欲のクリスチャンとなった彼女は、「夫の悪行を正すため」という理由で離婚することを受け入れることなく、夫につき従っていきます、まるで彼の破滅をとことん見届けるみたいに。

それは復讐というものとは少し違う種類の、もしかしたら日本の女たちが古来から持っていた「忍従」というものの本当の姿だったかもしれません。

この観念的な人物設定が、この「妻」からリアリティを奪ってしまったことになり、結果的にこの作品の評価を下げてしまったとガイド誌には書かれていますが、僕にとっては、象徴的でとても魅力的な設定でした。

それは、きっとこの作品のラストシーンによく現れているかもしれません。

生活の糧のすべてを失った一家を見送る分かれ道で、貧民街に続く下り坂をゆっくりと下りていく一家の姿を見守る大学生・北沢彪は、やがて約束された自分にとっての上り坂をたどっていくことになるのです。

主演の勝見庸太郎は、キネマ旬報の「日本映画監督全集」1976版に映画監督として記録されている人物です。

元は松竹蒲田のスター、1926年に勝見プロを興してからはマキノと提携し、監督、脚本、主演に腕を振るった多才の人だったということですが、1929年にマキノ省三が他界すると、翌年にはマキノとの提携を解消、勝見プロは解散したとあります。

その間、もしかしたら不遇苦渋の時期があったのかもしれません。

やがて、勝見プロで育てられた八田尚之が、東京発声の企画脚本部長となって、まるで報恩のようにチャンスがあれば勝見庸太郎に役をはからったといわれています。

この「冬の宿」の主役も、きっとそのひとつとみていいでしょう。

勝見庸太郎にとって8年ぶりの出演作となったこの「冬の宿」は、奇しくも、落ちぶれてもなお見栄を張る中年男の悲哀を描いた役柄であることにも、なにか深い思いを禁じ得ません。

夫の悪行と貧苦という救いのない日常を耐える妻まつ子には、この作品が映画初出演となるムーラン・ルージュの水町庸子が演じ、また、彼がほのかな想いを寄せるタイピスト役に原節子が扮し、その「彼ら」を冷めた視線で見つめている大学生に北澤彪が演じています。

この「冬の宿」は、「女學生記」とともに長らく原版の所在が不明となっていて幻の作品と言われていたものが、2003年奇跡的に可燃性原版が発見・復元され、上映が可能となった作品です。

(38東京発声映画製作所)(製作)重宗和伸(監督)豊田四郎(原作)阿部知二(脚本)八田尚之(撮影)小倉金彌(美術)進藤誠吾(音楽)中川栄三、津川圭一(録音)奥津武(照明)馬場春俊
(出演)勝見庸太郎、水町庸子、原節子、北沢彪、林文夫、藤輪欣司、林文夫、島絵美子、堀川浪之助、押本映治、伊志井正也、田辺若男、伊田芳美、平陽光、青野瓢吉、南部邦彦、一木禮司、原田耕一郎
1938.10.05 日比谷劇場、10巻 2,534m 92分 白黒


《参考》
豊田四郎監督
1905年12月25日、京都市上京区生まれ。24年松竹蒲田撮影所に入社し、島津保次郎の助監督などを務めながら、23歳の若さで監督に昇進、『彩られる唇』(29年)を撮る。松竹傘下となった大阪の帝キネでも監督するが、不入り。東京に戻るが「おまえの映画には色気がない」と城戸四郎撮影所長から批判を受け、再び島津監督のもとで助監督修業し、特に生涯のテーマとなった「女性」を島津監督から仕込まれたという。
36年にトーキーを撮りたい気持から東京発声(後に東宝に吸収)に移る。芸術映画へ製作方針を転換した東京発声で石坂洋次郎原作『若い人』(37年)を撮り大きな反響を呼ぶ。以後、文芸作を発表し、自らの方向を掴む。40年の『小島の春』はヒューマニズムと叙情性から高く評価。戦時中は1本も発表せずリベラリストとして面目躍如たるものがあった。
戦後第1作は長谷川一夫主演の『檜舞台』(46年)。東宝大争議の時代をはさみスランプに陥るが、室生犀星原作の『麦笛』などを経て55年に織田作之助原作の『夫婦善哉』を発表。森繁久彌、淡島千景の絶妙の演技を引き出し、文芸映画の名匠として、その後の地位を決定付けた。翌56年の『猫と庄造と二人のをんな』では粘着力のある演出により、人間喜劇の世界を深めた。以来、文芸ものを軸に喜劇とシリアスの両面で、淡島千景、山本富士子、若尾文子、京マチ子らをヒロインに華麗なる女性像を次々と描き続けた。
71年、心筋梗塞にかかるが奇跡的に回復し、73年『恍惚の人』で復活。76年の『妻と女の間』を最後に、77年11月、北大路欣也の結婚披露宴でスピーチを終えたあと心不全で死去。残した作品は60本。最後まで西鶴の映画化に執念を燃やしていたという。
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by sentence2307 | 2006-01-03 14:17 | 映画 | Comments(0)