《参考》 新藤兼人
2006年 04月 01日
石内村は広島市内から一山越えた農村で、豪農の家に生まれるが、父が借金の連帯保証人になったことで、14歳の頃に一家は離散。高等科に進み広島市内へ活動写真を見に通う、夜遅く提灯を下げて山を越えて帰宅した。
1933年、尾道の兄宅に居候中に見た山中貞雄の映画『盤獄の一生』に感激して映画監督を志す。
1年半のアルバイトで金を貯め、なんのあてもないまま京都へ出る。助監督への道は狭く1934年、新興キネマに入社、現像部でフィルム乾燥雑役から映画キャリアをスタートさせたのは満州国が帝制に移行した年。辛い水仕事を一年ほどしたとき撮影所の現像部で見たシナリオに「映画の秘密がある」とシナリオ修業を決意、独学で脚本術を研鑽した。
新興キネマ現像部の東京移転に同行し美術部門に潜り込む。美術助手として美術デザインを担当。仲間からは酷評されても暇を見つけてシナリオを書き続け投稿して賞を得るが、映画化はされなかった。
家が近所だった落合吉人が監督に昇進し、脚本部に推薦され『南進女性』で脚本家デビューする。
1941年京都の興亜映画に出向し、溝口健二の『元禄忠臣蔵』の建築監督として溝口健二作品に携わりながら以後溝口に師事し脚本を執筆する。
シナリオを1本書いて溝口に提出するが、「これはシナリオではありません、ストーリーです」と酷評され大きなショックを受ける。劇作集を読みあさり再出発を誓う。
1942年、情報局の国民映画脚本の公募に応募、佳作に終わる。当選は東宝の助監督、黒澤明の『静かなり』であった。
翌年『強風』が当選。これを知った溝口から連絡があり生涯ただ1度だけ祇園で御馳走にあずかる。
1944年、所属していた興亜映画が松竹大船撮影所に吸収され脚本部員として移籍。同年4月、1本も書かないうちに応召され二等兵として呉海兵団に入団。既に32歳ながら10代の若者にこき使われ、彼らの身の周りの世話をする。上官にはクズと呼ばれ、木の棒で気が遠くなる程叩かれ続けた。兵隊は叩けば叩くほど強くなると信じられていた時代だった。同期の若者は大半が前線に送られた。
1945年、宝塚海軍航空隊で終戦。宝塚歌劇団の図書館で戯曲集を全部読み終え松竹大船に復帰。
同年秋書いた『待帆荘』がマキノ正博によって映画化され1947年のキネマ旬報ベストテン4位となり初めて実力が認められた。
1946年と1949年に溝口のために『女性の勝利』と『わが恋は燃えぬ』を書く。
1947年、吉村公三郎と組んだ『安城家の舞踏会』は大ヒットしベストテン1位も獲得、この決定的な評価によってシナリオライターとしての地歩を築いた。その後は吉村とのドル箱コンビでヒットを連発。木下恵介にも『結婚』、『お嬢さん乾杯』を書く。
1949年、『森の石松』の興行的失敗や『愛妻物語』に会社首脳が「新藤のシナリオは社会性が強くて暗い」などとクレームをつけるなど初監督作品をめぐる会社との対立から、1950年に盟友・吉村監督とともに独立を決意して松竹を退社し、作家としての主体性を貫くべく独立プロダクションの先駈けとなる近代映画協会を吉村公三郎、俳優・殿山泰司らと共に旗揚げした。
1951年、『愛妻物語』で39歳にして宿願の監督デビューを果たす。以後、自作の脚本を自ら監督するスタイルが確立。主演した大映の看板スター乙羽信子がこれをきっかけに近代映画協会へ参加する。また大映に持ち込んだ『偽れる盛装』が1951年大ヒット、新藤=吉村コンビの最高傑作となった。
作家主義を貫く近代映画協会において、大手会社では実現困難な社会的テーマを掲げた企画に次々と取り組み、52年には、労組などのカンパで自主製作映画第1作「原爆の子」を発表し、原爆を描いた初の劇映画として大きな注目が集まった。
翌1953年、カンヌ国際映画祭に出品。米国がこの作品に圧力をかけ、受賞に外務省が妨害工作を試みた。また西ドイツでは反戦映画として軍当局に没収されるなど各国で物議を醸した(現在ではヨーロッパでの上映は多い)。以後劇団民藝の協力やカンパなどを得て数多くの作品を発表するも、しかし芸術性と商業性との矛盾に悩み失敗と試行錯誤を繰り返した。
1960年離島の農民一家が大地にへばりつくように生きる姿を淡々と描き出した台詞のない映画詩『裸の島』は資金が無いため、近代映画協会の解散記念にとキャスト2人・スタッフ11人で瀬戸内海ロケを敢行し1ヶ月かけて550万円で作り上げたこの作品でモスクワ国際映画祭グランプリを獲得し、一躍新藤兼人は世界の映画作家として認められることとなった。世界中に上映権を売りまった結果、世界62ヶ国で売れてそれまでの借金をすべて返済した。
その後放射能を題材とした『第五福竜丸』59など意欲的な自主製作を次々と発表し、独立プロ運動の重要な役割を果たすとともに独立プロ運動を牽引する第一人者となった。
62年「人間」、64年「鬼婆」、70年連続拳銃事件の永山則夫を題材にした「裸の十九才」、77年「竹山ひとり旅」、『さくら隊散る』、家庭内暴力に材を取った『銃殺』、死と不能をテーマにした『性の起源』、老いをテーマとした『午後の遺言状』などなど独自のテーマに基づいた多くの問題作を発表。また頼まれた仕事は断らないを信条に自作の制作と平行に日本映画の数多くの作品の脚本を手がけた。中には映画史に残る名作、話題作や評価の低い作品と色々あるが、「優れた芸術家は多作である」という観点から意欲的な活動を展開している。
評価の高い作品としては川島雄三監督『しとやかな獣』62、鈴木清順監督『けんかえれじい』66、などがある。また神山征二郎監督『ハチ公物語』87、「午後の遺言状」95、「三文役者」00、そして最新作の『ふくろう』04に至るまで、40本以上の監督作そして200本以上のシナリオを世に送り出した。また、それらの作品を語る際には、監督の生涯のパートナーだった女優・乙羽信子や、名脇役・殿山泰司といった同志たちの存在も忘れることはできない。
怪作としては江戸川乱歩の原作をミュージカル仕立てにした『黒蜥蜴』(1962年)などがある。TVドラマ、演劇作品も含めると手がけた脚本は370本にも及び、数えきれない程の賞を受賞した。「ドラマも人生も、発端・葛藤・終結の三段階で構成される」というのが持論である。現在も現役で活躍、70年の映画キャリアを誇り、世界最長老の映像作家と思われる。尚、近代映画協会は一時100近く有った独立プロのうち唯一成功し現在も作品を送り出している。
結婚は3度経験して、1994年に死去した女優の乙羽信子は3度目の妻。
長年の映画製作に対して、76年に独立プロの実績が高く評価され朝日賞を受賞し、1997年に文化功労者を、2002年に文化勲章を授与された。1996年、日本のインディペンデント映画の先駆者である新藤の業績を讃え、独立プロ58社によって組織される日本映画製作者協会に所属する現役プロデューサーのみが、その年度で最も優れた新人監督を選ぶ新藤兼人賞を新たに創設した。
主な監督作品
1951年「愛妻物語」キネマ旬報ベストテン10位
1952年「原爆の子」チェコスロバキア国際映画祭グランプリ、英国アカデミー国連賞、メルボルン映画祭グランプリ
1953年「縮図」キネマ旬報ベストテン10位
1959年「第五福竜丸]キネマ旬報ベストテン8位
1960年「裸の島」モスクワ映画祭グランプリ、キネマ旬報ベストテン6位
1962年「人間」芸術祭文部大臣賞
1963年「母」毎日芸術賞、キネマ旬報ベストテン8位
1964年「鬼婆」
1965年「悪党」(原作:谷崎潤一郎)キネマ旬報ベストテン9位
1966年「本能」キネマ旬報ベストテン7位
1967年「性の起原」
1968年「薮の中の黒猫」
1969年「かげろう」キネマ旬報ベストテン4位、芸術祭優秀賞
1970年「裸の十九才」モスクワ映画祭金賞、キネマ旬報ベストテン10位
1974年「わが道」キネマ旬報ベストテン6位
1975年「ある映画監督の生涯 溝口健二の記録」キネマ旬報ベストテン1位・監督賞
1977年「竹山ひとり旅 」 - モスクワ映画祭監督賞、キネマ旬報ベストテン2位
1981年「北斎漫画」キネマ旬報ベストテン8位
1988年「さくら隊散る」キネマ旬報ベストテン7位
1992年「墨東綺譚」キネマ旬報ベストテン9位
1996年「午後の遺言状」キネマ旬報ベストテン1位、日本アカデミー賞最優秀作品賞 他多数
1999年「生きたい」モスクワ映画祭グランプリ
2003年「ふくろう」
2003年「三文役者」キネマ旬報ベストテン6位
主な脚本作品
1946年「待ちぼうけの女」監督:マキノ正博
1946年「女性の勝利」監督:溝口健二
1947年「安城家の舞踏会」監督:吉村公三郎 キネマ旬報ベストテン1位
1948年「四人目の淑女」監督:渋谷実
1948年「幸福の限界」監督:木村恵吾
1948年「わが生涯のかがやける日」監督:吉村公三郎 キネマ旬報ベストテン5位
1949年「お嬢さん乾杯」監督:木下恵介 キネマ旬報ベストテン6位
1949年「森の石松」監督:吉村公三郎 キネマ旬報ベストテン9位
1950年「長崎の鐘」監督:大庭秀雄
1951年「舞姫」監督:成瀬巳喜男
1951年「上州鴉」監督:冬島泰三
1951年「自由学校」監督:吉村公三郎
1951年「偽れる盛装」監督:吉村公三郎 キネマ旬報ベストテン3位
1951年「源氏物語」監督:吉村公三郎 キネマ旬報ベストテン7位
1952年「西陣の姉妹」監督:吉村公三郎
1953年「夜明け前」監督:吉村公三郎
1953年「女ひとり大地を行く」監督:亀井文夫
1954年「足摺岬」監督:吉村公三郎
1955年「美女と怪龍」監督:吉村公三郎 キネマ旬報ベストテン10位
1956年「あやに愛しき」監督:宇野重吉
1956年「赤穂浪士 天の巻・地の巻」監督:松田定次
1957年「美徳のよろめき」監督:中平康
1957年「うなぎとり」監督:木村荘十二
1958年「夜の鼓」監督:今井正
1958年「裸の太陽」監督:家城巳代治 キネマ旬報ベストテン5位
1959年「からたち日記」監督:五所平之助
1960年「大いなる驀進」監督:関川秀雄
1960年「がんばれ!盤獄」監督:松林宗恵
1960年「路傍の石」監督: 久松静児
1961年「献身」監督: 田中重雄
1962年「しとやかな獣」監督:川島雄三 キネマ旬報ベストテン6位
1962年「黒蜥蜴」監督:井上梅次
1962年「鯨神」監督: 田中徳三
1962年「斬る」監督:三隅研次
1964年「卍(まんじ)」監督:増村保造
1964年「傷だらけの山河」監督:山本薩夫 キネマ旬報ベストテン7位
1964年「駿河遊侠伝 賭場荒し」監督:森一生
1966年「こころの山脈」監督:吉村公三郎 キネマ旬報ベストテン8位
1966年「座頭市海を渡る」監督:池広一夫
1966年「けんかえれじい」監督:鈴木清順
1966年「刺青」監督:増村保造
1967年「華岡青洲の妻」監督:増村保造 キネマ旬報ベストテン5位
1972年「軍旗はためく下に」監督:深作欣二 キネマ旬報ベストテン2位
1972年「混血児リカ」監督:中平康
1975年「昭和枯れすすき」監督:野村芳太郎
1978年「事件」監督:野村芳太郎 - キネマ旬報ベストテン4位
1978年「危険な関係」監督:藤田敏八
1979年「配達されない三通の手紙」監督:野村芳太郎
1980年「地震列島」監督:大森健次郎
1980年「遥かなる走路」監督:佐藤純弥
1983年「積木くずし」監督:斎藤光正
1983年「映画女優」監督:市川崑 - キネマ旬報ベストテン5位
1987年「ハチ公物語」監督:神山征二郎
1992年「遠き落日」監督:神山征二郎
1999年「おもちゃ」監督:深作欣二
1999年「完全なる飼育」監督:和田勉
2001年「大河の一滴」監督:神山征二郎
著書
『ある映画監督―溝口健二と日本映画』
『老人読書日記』
『女の一生―杉村春子の生涯』
『弔辞』(岩波新書)『午後の遺言状』
『三文役者の死―正伝殿山泰司』
『追放者たち』
『愛妻記』(岩波書店)
『新藤兼人の足跡』(全6巻)著作集 他多数