アメリカの影
2006年 04月 02日
それ程、この作品はハリウッドでは決して作られたことのなかったヨーロッパの雰囲気をいっぱいに湛えた意欲的で魅力的な作品です。
今回はじめて見ることができて本当に驚きました。
ヌーヴェルヴァーグを通り越してイタリアン・ネオリアリズムさえ感じることができるくらいの正統派の作品でした。
しかし、この遅すぎたアメリカン・リアリズム映画を、結局ハリウッドが認知できずに黙殺するしかなかったのは、ひとつにはテーマを黒人差別問題に据えた先見性もワザワイしたのかもしれません。
手元に資料がなく、確認できずにうろ覚えのまま書くのは実に気がひけるのですが、あの先進的な名作「12人の怒れる男」でさえも、陪審員に有色人種が一人も描かれていなかったように記憶しています。
実際の現実社会では各州で人種差別の嵐が猛然と吹き荒れていて、時代はとてもナーバスな状況にありました。
たとえ、好意的に有色人種を描いたとしても、そのこと自体が非難の対象にされてしまうような、とても微妙で危険な状況だったのだと思います。
むしろ描かないで避けた方が懸命な選択と考えられていたフシがうかがわれます。
ニューヨーク派の才人といわれたシドニー・ルメットにおいてさえ、そうだったのです。
僕の記憶が正しければ、ルメットが有色人種問題と面と向かって対峙したのは、1965年の「質屋」まで待たねばならなかった、事態を冷静に見るためにはそのくらいの時間が必要だったということなのです。
そして、シドニー・ルメットが、まるで自分を傷つけるように、自ら血を流しながらテーマを追求するというジャーナリスティックな誠実な作家的態度を示したとすると、カサベテスの場合は少し印象を異にします。
ニューヨーク・インディペンデントの先駆的映像作家といわれたジョン・カサベテスが同時に俳優でもあったということが、ここでは、とても重要なポイントとなってきます。
カサベテスは、従来の監督主導型の映画制作に疑問を抱いており、一説には、俳優たちの優れた演技を、無能な演出家が台無しにするのを目の当たりにし、俳優みずからが創造的に演じ、アドリブを十分に発揮できる環境を作っていくことで膠着した映画に活路を見出すことが出来る、そのようにしてこの「アメリカの影」が作られたといういわくつきの名作です。
その時の呼びかけのフレーズが、「本当の人間の姿をスクリーンで見たいなら、投資して欲しい」というものだったそうです。
事実、黒人差別問題を「混血」という更に重層的に屈折させた設定にして、日常的な生活の細部にこだわって描いたカサベテスの演出は、俳優には場面のおおまかな説明をするだけで、あとは俳優自身のアドリブに任せました。
俳優が与えられた「現実」を懸命に演じるその生々しい迫力は、やらせのドキュメンタリーなど遥かにしのぐ仕上がりになったのだと思います。
しかし、一面、そうして俳優各人が自分の演技を深めていくことで、同時にテーマに敢然と立ち向かい肉薄していく監督主導型の迫力がこの作品からいささかそがれてしまったということも、やはり否めない事実かもしれません。
マンハッタンに暮らす黒人ジャズ歌手のヒューは、歌唱力には人一倍の矜持を持っていながら、やらされる仕事といえばキャバレーの司会のようなものばかりでクサっています。
自分が歌う歌は中途ではしょられたうえ、洒落たギャグのひとつでも言わなければならないような愚劣な司会の仕事に誇りを傷つけられてゲンナリしています。
そのヒューには妹と弟がいて、映画はその兄弟たちの日常的な幾つかのエピソードを並行的に淡々と描いているだけで、特別これといったドラマチックな展開が仕掛けられている訳ではありません。
しいて言えば、白人と同じ肌の色をした作家を夢見る聡明な妹レリア(「白い黒人」とでもいうのでしょうか。)が、作家志望者のパーティで白人の男たちに混じって堂々とその才気溢れる文学知識を披瀝し、白人の男たちを魅了する魅力的な白い黒人として描かれていることでしょうか。
レリアは、例えば男と女の感情の機微を細部にわたって明晰に語ることのできる明晰な知能が、虚栄心と野心に基づく単なる背伸びであると悟られようとも、そしてそれが、豊かな男性経験によってつちかわれたものと誤解されたとしても一向と頓着しない態度を示して男たちをケムにまいています。
その彼女に魅了された白人青年のひとりトニーに誘われるままにレリアは彼の部屋でSEXしますが、思いがけずレリアが初体験だったことに戸惑ったトニーは、その後悔から彼女を家まで送っていきます。
そこで、黒い肌をした兄ヒューと鉢合わせする場面が、この映画の中心に据えられている唯一まとまったエピソードとして最も重要な位置を占めています。
僕は、この「鉢合わせ」のシーンにカサヴェテスから役の解釈を全面的に託された俳優たちの「答え」として、このシーンに彼らの優れた「選択」を見ることが出来ました。
彼女の兄ヒューに面と向かったトニーは、思いもかけない黒い肌を前にして一瞬その驚愕のあまり凍りついてしまいます。
彼は、レリアの愛を得るためには、どんな障碍でも何ほどのものでもない、と進歩的な教養人として頭では考えていたかもしれません。
人種的偏見などもその「何ものでもない」もののひとつだったはずです。
事実、物語の最後までレリアに対するトニーの未練は、兄弟たちの冷笑を受けながらも終始描かれ続けています。
しかし、「人種的偏見など何ものでもない」という教養は、理性の範疇に属しているものにすぎないものであって、決して感覚とか生理を屈服できるだけの力を有していたわけではありませんでした。
突然、黒い肌をした恋人の兄を前にしたときのトニーの凍りつく程の驚愕、そして、取り付く余裕さえないまま感覚的生理的に反応し拒否によって瞬間的に身を避けたことと、すぐに見せた羞恥の戸惑いの挙動がすべてを語りつくしています。
兄ヒューと恋人トニーが凝固して睨み合う一瞬の間合いにこめられた根深い人種差別の憎悪と恐怖と嫌悪の差別の記憶が、二つの人種の間に瞬時に行き交いました。
声高でも大仰な怒りの身振りでもなく、それぞれの静かな諦めから薄気味悪いほどに濃密に演じられた見事なシーンでした。
この映画をめぐって当時の人種差別反対論者の論評にこんなコメントがありました。
「レリアが何故最初からトニーに黒人であることを明かさなかったのか、という一部の非難は不当である。彼はレリアを勝手に白人と思い込んだのであり、嘘をついたわけでも隠し立てをしたわけでもない。レリアは、トニーから愛された理由を、自分が黒人であろうとなかろうと、恋愛において、そんなことはさして重要なことではないと思っていたし、少なくともそうでなければならないと信じていたからこそ、兄と一緒にいる部屋に招じ入れたのだ」とそこには記されていました。
相思相愛と言ってもいい黒人レリアと白人トニーの関係を打ち砕くあの一瞬の間合いに見せた演技の集中力が人種差別に引き裂かれる恋人たちの突然の運命の変化を見事に表現し得ています。
「恋愛において、そんなことはさして重要なことではない」というレリアの幼い観念が、処女性を失うことによって、初めて人間にとって「本当に重要なこと」とは何かを悟っていく象徴的な場面だったと思います。
見た目は白人という「白い黒人」の設定は、他者が規定する黒人ではなく、まさに自分は黒人である、と自身を規定する心の闇を濃密に描くためには実に格好な設定であり、それだけに、登場人物の感情の動きが余す所なく力強く描き得たのだと思いました。
どこか島崎藤村の「破戒」を思わせる重厚な堂々とした物語設定ですよね。
また、ベニーが女あさりのトラブルからよそ者に散々に殴られ、自分はこれから一体どうすればいいのか分らない絶望のままに呆然と夜の街をさ迷い歩くシーンは、「死刑台のエレベーター」でマイルス・デイビスの気だるく物憂いトランペットの響きを背に、ジャンヌ・モローが、突然行方知れずになった共犯者モーリス・ロネを、不安と疑心に満たされた思いを抱えながら、夜のパリの街を探し求めるあのシーンを思い出しました。
この「アメリカの影」で強く印象に残るのは、肌の色による露骨な差別が、それ程あからまさには描かれてはいない点かもしれません。
僕たちが映画を通して見てきた南部の激烈な差別に較べて、北部の差別の現れ方が、やや形態的に少し違うのかもしれませんが、本質の部分では、それ程異なるとは思えません。
いかな黒人といえども、才能ある人を尊重する空気はあったのだと思います。
この映画の主役である黒人三人の兄弟が住んでいるマンハッタンは白人の居住区です。
彼らの部屋で催されるパーティにも親交のある白人が気楽に顔を見せに来る場面なども描かれていますし、ラストで女あさりのトラブルからベニーが叩きのめされるシーンも、同じ遊び仲間の白人と同じようにボコボコにされているだけで、特に黒人だからというわけでもないようです。
むしろ、レリアのことを諦めきれないトニーが部屋に尋ねてきて、レリアに拒まれた後で、ベニーに彼女への言付けを頼む言葉「僕たちは何の違いもないってことが分ったんだ。彼女は僕にとって大事だ。悪かったとレリアに伝えてくれ。」を、彼が去ったあとで、ヒューとともに冷笑の対称にして大笑いしている場面があります。
ここでは、黒人レリアがひょっとすると白人トニーと結ばれるかもしれないという異人種融合幻想の期待を真っ向から拒否する、黒人の白人に対する人種的テリトリーのこちら側で自立して生きていこうとする毅然とした姿勢を感じるとともに、ニューヨークには、それを許す先取的な空気もあったのだと思います。
あるいは、同時に、インディペンデントの先駆的映像作家としてのカサヴェテスのハリウッドに対するスタンスみたいなものも見えてくるような気がしてなりません。
さて、このテーマを、ハリウッドで料理したらどういう映画になるのか、考えていたとき、たまたま友人から一本の映画を教えてもらいました。
ダグラス・サーク監督の「悲しみは空の彼方に」です。
奇しくも、ともに1959年の作品で、しかも「白い黒人」を描いた作品だというので驚きました。
内容は、「白い黒人」の娘が、身を偽って白人の社会へ紛れ込もうとしますが、どうしても「黒い母親」が障碍になって身元がバレてしまい、娘は母親を憎みながら身を持ち崩し、また、母も心労のあまり体調を崩して死んでしまいます。
その葬儀で、娘は母の棺に取りすがって、つまでも泣いているという描写で終るハリウッドの最良で典型的なメロ・ドラマと言われています。
以下は、彼の受け売りです。
ノーマン・メイラーが記した高名なエッセイ「白い黒人」が収められた「ぼく自身のための広告」が出版された1959年という年に、奇しくも「白い黒人」を描いた2本の映画が作られました。
ひとつは、ダグラス・サークの「悲しみは空の彼方に」、そして、もうひとつが、このカサヴェテスの「アメリカの影」でした。
「悲しみは空の彼方に」は、ドイツからの亡命監督だったサーク(デトレフ・ジールク)が、アメリカで撮った最後の作品として知られており、黒人の母を持つ娘の苦悩を繊細で細やかな感情表現によって描いた最良のハリウッド・メロドラマと記憶されている作品です(ちなみに、サークがハリウッド入りして撮った第1作は、反ナチ映画「Hitler‘s Madman」でした。)。
この「悲しみは空の彼方に」と「アメリカの影」を比較すると、そこには、ハリウッドが描いてきた人種差別というものに対するスタンスみたいなものが、よく分かるかもしれません。
白い肌をした白人との混血娘には、白人の社会に溶け込むためには、黒人の母親の存在が重荷になっています。
事実、母親の為に白人青年との恋が破綻してしまいました。
娘は黒い肌の母を憎み、自棄になってしまいます。
その母は、心労から、ついに病死します。
贖罪の気持ちから母の遺体に取りすがって泣き伏す娘の姿が、そのラストで描かれていました。
人種差別を白人優位という前提の下に人道主義に取り込んだうえで一流のメロ・ドラマとして完成させねばならなかった様々なハリウッドの制約をクリアして、この作品は最小公約数的作品として職人的な手腕を見せ付けるように結実したのだと思います。
「アメリカの影」とこの作品が決定的に相違している点は、やはり、白人社会に取り入ることでしか黒人の生きる途はないのだという価値観にあるかもしれません。
ラストシーンは、「お母さんには、すまないことをしたけれども、だけど・・・」という含みは感じます。
しかし、それに対して「アメリカの影」は、どうでしょうか。
白人社会に白い肌の人間として受け入れられることに、レリアが、それ程の魅力も期待ももっているふうには描かれていたとは思えません。
ラストで彼女が見せるトニーへよそよそしさは、自分が「彼ら白人」に黒人として対等にのぞむのでなければ何の意味もないことを示唆しているのだと思います。
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