ドッグヴィル
2006年 05月 17日
そして、そこで苛めに甘んじていた人間もまた、自分より更に弱い人間を嗅ぎ付けて、まるでウサ晴らしのように苛める側に回るとい陰惨な階層構造は、苛める相手を見出せない「最後尾」に列する逃げ場のない子供たちの悲痛な自殺を伝える小さな記事の中に凝縮しています。
それは、この国では、なにも珍しいことでもなんでもありません。
この無限に続く陰惨な連鎖は、貧しく卑弱な者たちのなかにも、さらに支配する者・される者という支配構造が生じて、幾重にも階層が生み出されるというこの社会の深刻な差別構造と、どこかで繋がっているのですが、この作品「ドッグヴィル」には、それを敷衍したかたちで、弱き者が弱き者を、お為ごかしを装って付け込むことの卑しさと傲慢に対して、限りない憤りを示唆した映画であり、それこそは、断罪に値する卑怯卑劣なものである、というトリアーの怒りに満たされた作品です。
風景描写の拘束から解き放たれた剥き出しの「人間」そのものの、殊更な心の闇が暴き出されるラース・フォン・トリアーのこの衝撃作を見ていると、人間であり続ける限り、誰もが捌け口の必要な欲望と欲情を抱え持っている絶望的な存在であることに、つくづく思い知らされます。
もし、下半身の欲望を処理してくれる自分専用の「家畜」(なんだか昔、高名な裁判官が匿名で執筆し、三島由紀夫が絶賛したという、そんな小説がありましたよね。)を所有することができれば、たぶん自己矛盾なしに、日常生活の上澄みの部分だけで、世間に向かって、より美しい仮面的な生き方や、あるいは高潔な言葉を堂々と顕示することさえ、あるいは不可能ではないかもしれないなと、そんな思いにさせられた映画でした。
きっと、あの古代ギリシャの都市国家において驚くべき平等社会を実現せしめた理想的な「民主主義」の根底には、実は厳密な意味での「奴隷制度」の支えがあったように、あえて善人面を世間に向けようとすれば、その反面には、荒ぶる邪悪な意思を鎮めるための「捌け口」がどうしても必要になってくるのは、至極当然のことなのかもしれません。
トリアーが描こうとした怒りは、まさにこの偽善の仮面の影にあるけち臭い「欲望」に対してだろうと思います。
ある独身の友人が、雑談の流れで、こんなことを話していました。
「その『欲望処理』というやつ、既婚者なら、配偶者との性的関係で満たされるのではないか」と。
彼には大変申し訳ないと想いながら、独身の彼が考えている「結婚」というものに抱いている「薔薇色の幸せ」という妄想(それは当然、性的な関係も含みます)を壊したくはなかったのですが、「キミ、結婚なんてね、そんなものじゃないよ」(どことなく成瀬作品のセリフ回しみたいになってしまいます)と言わずにはおられませんでした。
結婚こそは、社会に向けられた「制度」そのものです。
独身者が「孤独な自由」の「孤独」に耐えられず、淋しさと交換しようとしている「薔薇色の幸せ」は、あの「自由」が本当の意味での自由でも何でもなかったように、制度による男女の結合に守られた、そして性的結合を為す行為のすべては、きっと、どこまでいっても単なる肉体の物理的な結合・あるいは退屈な摩擦運動、もしくはそれぞれ孤立した・孤独なマスターベージョンにすぎず、そこに心の繋がりを求めても、得られるものは結局、更なる深刻な孤独だけのような気がします。
それはきっと結婚という制度に守られたSEXが、どこまでいっても管理された社会の「おつきあい」の域を出るものでないことによる当然の帰結かもしれません。
実は、制度としての「結婚」も、そして「集落=ドッグヴィル」における共同意識も、この憧憬と失望との間に生ずる小さな落差によって形作られていたような気がしてなりません。
この小さな落差を少しずつ埋めながら自己同一性を実現しようとする行為(それを表わす最も相応しい言葉は、おそらく「自己欺瞞」です)が、グレースに課せられた「どうでもいい仕事」だったのだろうと思います。
その「どうでもいい仕事」というものが、村人たちの「性」にまつわる切実なものだっただけに、親愛と、そして逆に、憎悪をも抱かせたのでしょうか。
しかし、ただ単にそれだけのことを主張する作品なら、きっとそこらにざらにあるポルノ映画の妄想的な発想と、それほどの隔たりがあるとも思えません。
僕たちを打ちのめしたのは、やはりラストで炸裂する怒りの在り方です。
グレースに向けられた村民たちの「要求」の描き方は、ずうずうしくはあっても、どこかおずおずとした怯えが描きこまれています。
それは、村民たちが自らの「自己欺瞞」を自覚していることを証し立てているのだと思いました。
その「自覚」がクレースには、許せなかったのだと思います。
もしこれが、ラース・フォン・トリアーの見た「アメリカ」の姿なのだとしたら、アメリカの庇護のもとで経済大国にのし上がった日本にも一脈通じるものが、あるのかもしれませんね。
弱者を助けようとする「倫理観」に、尊大さが加わり、やがて欲望のはけ口の対象になっていく。
欲望を果たすために利用され、弱者への救済は言葉ばかりのものとなり、「倫理」は、お為ごかしのただの言い訳に変わり、そのことを決して認めようとしない彼らの自己欺瞞の正当化の道具に成り下がる。
トリアーの作品が象徴的なだけに、とりとめのない妄想的な言葉が次々と湧き出てはくるのですが、結局纏め上げることはできませんでした。
実はこの映画、初めて見たインターネット配信の映画でした。集中して見られなかった理由が、そのあたりにあるとは思いませんが、とにかくこんな大作をロハで見られるなんて驚きですよね。
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