「夢」の第5話「鴉」
2006年 10月 05日
自分がプロデューサーなら、黒澤さんに、こんなふうに申し出る。
「第3話の『雪あらし』と、第6話の『赤富士』、ついでに第7話の『鬼哭』をカットしてくれ。いや、そこまで切ると、映画としては短くなりすぎるから、『雪あらし』だけでいい。とりあえず、第3話の『雪あらし』を切ってくれ。」
橋本忍のこの素直な感想には、僕は少なからず驚きました。
違和を感じた部分の違いとか、それをカットしたほうがいいなどと考えるかどうかはともかく、それを黒澤監督に申し入れようなどと思い立つ発想そのものが、さすが「羅生門」・「生きる」・「七人の侍」の脚本を共に練り上げた間柄だったからこそ、有り得たことなのだろうなと思う一方で、それ以後、黒澤明の作品に徐々に距離を取った橋本忍にとって、その「申し出」など、決して有り得なかったことだということも、痛いほど分かるような気がします。
野村芳太郎に、黒澤明を芸術づかせたのはあんたのせいだ、と云われたその裏には、そんなもの(社会性や政治性)を帯びてしまったために、黒澤明が本来持っていたダイナミックで縦横無尽な演出力が、へんな形に変質させられた結果、行き着いた場所が、ただ堅苦しいばかりの「芸術」だったのかという自責の念があったからかもしれません。
黒澤を芸術づかせて駄目にしてしまった責任の一端が自分にもあるという思いがあるなら、「第3話の『雪あらし』を切ってくれ。」は、少し違うのではないかと思いました。
まず上げるとすれば、「第6話の『赤富士』、ついでに第7話の『鬼哭』をカットしてくれ。」でなければならないような気がしていたのでした。
第1話「日照り雨」、第2話「桃畑」、第5話「鴉」、第8話「水車のある村」を撮った監督が、第6話の「赤富士」と第7話の「鬼哭」の陰惨きわまる絶望的な暗さを湛えた映像を撮った監督と同一人物とはちょっと考えられないほどの落差を感じます。
そのことが、ずっと気になっていたとき、橋本忍の「複眼の映像」のなかで、第5話「鴉」について書かれたこんな部分を見つけました。
シナリオで読んだとき、半ペラ39、38枚ほどの短いものだが、私はこの第5話「鴉」が一番好きだった。
素敵なのに、なんかひどく悲しい話である。
だが、映像化されると、絵である跳ね橋の上の幌馬車や、洗濯している女の人たちが動き出したり、動く人が絵の中入ったりし、「あッ、あッ」と息を呑む楽しさで画面にのめり込んでしまう。
だが、話自体はとんでもなく悲しいのだ。
画家のゴッホが顔に包帯をしているので、若い黒澤さんが聞いてみる。
「大丈夫ですか、お怪我をなさっているようですが」
「ああ、これか・・・昨日、自画像を描いていたんだが、耳がうまく描けない・・・だから耳を切って捨てた」
そして、橋本忍は、こんなふうに書いています。
「こんなに悲しい話がこの世にあるだろうか」
耳がうまく描けないから、耳を切って捨てた。
橋本忍が、黒澤明らしくない目を覆うばかりの無残な出来と考えていた「影武者」や「乱」の本質が、はじめて「見えてきた」と感じる部分です。
もう「羅生門」を撮り、「生きる」を撮り、「七人の侍」を撮った黒澤明ではないとしても、耳がうまく描けないなら耳を切って捨て、孤立と孤独を恐れずに老残の身をなおも煽り立てて、うまく描けなければ、なにもかも、自らの命をも切り刻んで捨てながら、極限の場所で映画を撮ろうとしていた黒澤明の姿をはじめて見い出したのではないかという気がします。
橋本忍は、この本の最後をこんな言葉で結んでいます。
「リーダーの黒澤さんにお願いします。みんなに「橋本ももうすぐ来る」といい、私が胡坐を組んでどっかり座り込む場所をひとつだけ空けておいて下さい。」
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