人気ブログランキング | 話題のタグを見る

世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

蝉しぐれ

この映画のテレビCMで繰り返し聞いていた文四郎の「忘れようと、忘れ果てようとしても、忘れられるものではございません」とか「それが出来なかったことを、生涯の悔いとしています」とか「あなたの御子が私の子で、私の子供があなたの御子であるような道はなかったのでしょうか」などという台詞が頭の中に渦巻いて、そのままの先入観でこの映画を観始めました。

確かに、この映画が描いているように、思いが叶わなかった初恋の人を忘れることができないまま、それをひとつの悔恨として引き摺りながら、身分社会の抑圧のなかで20年という歳月を生きなければならなかった男の話としても、確かに成立し得た物語だったかもしれません。

しかし、その未練・悔恨を強調することだけが、この物語を映画化するに際して最も適切な選択だったかどうかは、きわめて疑問です。

身分社会にがんじがらめにされ、身動き取れなくされた文四郎が、どうしてまた、家禄を失うかもしれない危険を冒してまで抜刀して反抗の挙にでたのか、そこのあたりをはっきりさせなければ、この映画を説得力のある明確な作品には「到底できるものではございません」。

多分「叶わなかった初恋の人への思い」は、大本から分岐したうちのひとつの動機にすぎず、決してすべてではなかったと思います。

お家騒動の内紛に巻き込まれて詰め腹を切らされた父親の、謀反人の子という汚名にも耐えて屈辱のなかで生きてきた文四郎です。

父親を切腹にまで追い込んだ反対勢力の当事者、いわば父親の仇といってもいい主席家老・里村左内から家禄再興を許されたとき、彼・文四郎にはその申し出を断ることもできたはずです。

「恐れ多いことでございますが」とかなんとか、父親の不忠を理由にしてその申し出を断ることは幾らでもできた、そして、そのようなシガラミに囚われることなく復讐の機会を密かに窺い、機が熟したとき一気に撃つ、復讐譚ならむしろその方が自然のような気がしていました。

しかし、文四郎は、恐れ入って主席家老の申し出を受け入れ、仰せ付けられた村の田畑の見回り役の仕事にも熱心に打ち込みます。

ここのところが僕にはどうしても違和感があって、すんなりとは納得できませんでした。

案の定、文四郎は家禄を復されたことの見返りを主席家老から求められ、主君の世継ぎカドワカシに加担するよう強いられ戸惑っています。

利発に描かれているはずの文四郎のこの無防備さが、いまひとつ僕には理解できませんでした。

父親を陰謀によって切腹にまで追い込んだしたたか者の家老です、もっと警戒心があってもよかったのではないかという思いがしてなりませんでした。

しかし、考えてみれば、この物語にあって文四郎は、彼を見舞う幾つかの事件に対しても悉く受身であることに気づかされます。

理不尽な理由で父親が切腹させられ、その亡骸をひとり運び帰るときも、ほのかに思いを寄せていた初恋の人と別れるときも、文四郎は自分の感情を抑え、ただなりゆきに身を任せているだけのように見えます。

たぶんそれは下級武士に相応しい分をわきまえた行いだったのだと思います。

それが武士道というモラルに適ったことならば、かつて彼が20年の間そうしてきたように、きっと彼はすべてに従順であろうとしたに違いない。

すべての苦渋を剣の道に打ち込むことによって武士道というモラルに生きることを見出し、人生の理不尽を彼なりに受け入れることができたのだと思います。

だから、文四郎は、大抵の苦痛なら耐えることができた、武士道というモラルに反しない限りは。

しかし、敵の手の者とはいえ、心ならずも多くの侍を斬らねばならなかった文四郎が家老の屋敷に乗り込んで里村左内を一喝する言葉は、かつて父を殺された私怨から発せられた逆上の言葉ではなく、侍のリーダーとしての家老の不適格をなじる冷静な言葉でした。

武士道に生きる者として有るまじき振る舞いを非難する怒りを抑えた冷静な言葉でした。

もし「気高さ」という言葉を使うのなら、恋心を告白する言葉よりも、人の道をはずした家老を諌めるこの場面の言葉を上げるべきかもしれません。

お福との別離のシーンのなかに、武士のモラルにそって生きることを貫き通した男の実像がどれほど描き込まれているのか、残念ながらこのラストシーンのすべてがこの映画の仕上がりを物語っていたと思わないわけにはいきません。

(05東宝)製作・俣木盾夫、監督脚本・黒土三男、原作・藤沢周平、音楽・岩代太郎、美術・櫻木晶、撮影・釘宮慎治、
出演・市川染五郎、木村佳乃、緒形拳、原田美枝子、今田耕司、ふかわりょう、石田卓也、佐津川愛美
by sentence2307 | 2006-10-09 21:57 | 映画 | Comments(0)