トンカツ一代
2006年 12月 30日
以前見たマドンナの「エビータ」を思い浮かべたのです。
そう言えばあの「エビータ」を見た当時、周囲の人たちの「すごく良かった」という感想に圧倒されて、ついに否定的な意見を言えずじまいだったことも同時に思い出しました。
劇中話されるなんてことないセリフが、いつの間にかオーケストラの奏でる曲に乗って歌に変わっていくという持っていき方の不自然さに、どうしてもついていけず、自分だけ映画の流れから取り残されて、そのたびに僕は戸惑い続けていました。
「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を観た時も同じです。
自分のこうした根っからのミュージカル嫌いのルーツをたどれば、きっと「ウエスト・サイド・ストーリー」あたりにぶち当たるのでしょうが、日常的には絶対にありえないこの話し言葉にメロディーが伴うという不自然な推移に、「あれって絶対不自然だよね」という素直な感想を、いつかは誰かに訴えてみたいという欲望をずっと持ち続けていました。
しかし、ミュージカル映画愛好者にとって、そんな見当違いな述懐など、ただ奇妙で馬鹿馬鹿しいと思われるだけでしょうし、精々皮肉な冷笑を浴び掛けられるのが関の山だという絶望的な予感もあって、口を噤んできたというのが本当のところでした。
そんな袋小路に迷い込んでいた僕を慰めてくれたのが、この川島雄三作品「トンカツ一代」です。
僕にとって、どうしても受け入れがたい不自然さの金字塔みたいな映画「エビータ」に比べれば、楚々とした「トンカツ一代」(登場人物たちの複雑な身分関係図を別にすれば、ですが)は、ミュージカル仕立ての奇妙な不自然さを十分に認識しながらの、含羞に満ちたラストです。
それに出演者総出の大合唱の繊細にして優しさに満ちた唐突さは、品位においてフェリーニの「8 1/2」の大団円のラストに匹敵するかもしれません。
いつまでも西洋文化の大雑把な荒々しさに馴染めないでいるこの遠い極東の島国で心を閉ざしている、虫けらのような存在に過ぎない黄色人種の僕にとって、虫けらのような孤独を分かち合うことができる優しさに満ちた作品に出会ったような思いがしました。
あのミュージカル仕立てという日本には絶対馴染むわけがない不自然な欧米風な価値観を大真面目に押付けられる時にいつも感じていた反発が、この川島作品では、ラストでほんの僅か、含羞に満たされて恥ずかしそうにチマチマと歌われるにすぎないさりげない繊細さによって、かえって愛らしく、そして妙に感心し、かつてミュージカル映画に対して持っていた偏見と頑迷を優しくサトシテくれるような安堵感のなかに自分を感じました。
作品の仕上がりに極端なムラがあると言われている川島作品のなかにあって、この「トンカツ一代」は、特に評価の集まりにくい隙だらけの作品だと思います。
いくら川島雄三のマニアックなファンと任じている人でも、まさかこの「トンカツ一代」を「幕末太陽傳」や「雁の寺」や「洲崎パラダイス赤信号」や「青べか物語」や「しとやかな獣」を差し置いて、上位にランクしようという勇気は、なかなか持ちにくいかもしれません。
そりゃあ僕だって、そうですが。
しかし、川島雄三の映画の魅力が、市井に生きる人々の猥雑な日常描写の確かさのリフレインにあり、あの起承転結のカッチリとした構成力ではなく、むしろ巨匠らしからぬ腰砕けの魅力というか、本編を突如見舞う物語性の破綻の独特な美しさにあるとすれば、こうしたさりげない「失敗作」こそ評価してみたくなる誘惑に駆られてしまう作品だったと思います。
(63東京映画・東宝)製作・佐藤一郎 椎野英之、監督・川島雄三、脚本・柳沢類寿、原作・八住利雄、撮影・岡崎宏三、音楽・松井八郎、美術・小野友滋、録音・長岡憲治、照明・榊原庸介
出演・森繁久彌、淡島千景、加東大介、木暮実千代、フランキー堺、三木のり平、池内淳子、山茶花究、団令子、益田喜頓、都家かつ江、横山道代、水谷良重、岡田真澄、原地東、村田正雄、中原成男、立原博、旭ルリ、勝間典子、林涛郎、若宮忠三郎、守田比呂也、芝木優子、浜田詔子、藤本芳子、岩倉高子、鶴島美奈、村上美重、小野松枝、紅美恵子、野間一江
1963.04.10 6巻 2,580m 94分 カラー 東宝スコープ