博士の愛した数式
2007年 01月 01日
つらい記憶を忘れ去るためには、新たな記憶を積み重ねることで、忌まわしい記憶を時間の砂の中に埋め尽くして、その忘却のなかでこそ人はどうにか明日という時間を生きていくことができるのに、博士は記憶する能力を失ってしまったために、辛い記憶から遠ざかることができないでいます。
新たな出来事の記憶を維持できない悲しみよりも、記憶する能力の欠落によって常に辛い記憶のすぐそばまで引き戻されて、色褪せることのない苦しみに向かい合わされ、無理やり生きることを強いられることの方が、それこそもっともっと辛いことかもしれません。
停滞する時間の牢獄のなかに囚われ、生きることそのものが苦しみなら、人は死ぬことでしかこの苦しみから逃れられないと考えても、それは至極当然のような気がします。
これはとても皮肉な話です。
記憶する能力があって、はじめて人は、過去の辛い記憶から解放されることができるのに、博士は、記憶する能力を欠いたために却って「忘却」から見放され、過去の辛い記憶に直面し続けなければならないでいます。
この話から思い出しました、かつて実存主義が持て囃されていた時代によく引用されたカミユの「シューシュポスの神話」の話です。
押し上げては転がり落ちる巨石を、シューシュポスは、神から強いられた永遠の刑罰として繰り返し山頂に押し上げ続けねばならないという絶望的な空しい作業を続ける話です。
この連想に僕を誘ったものは、きっとこの映画全体を覆っている限りない優しさだったかもしれません。
辛い記憶と向かい合うこの博士の葛藤が、すべてを引き受けて生きる選択をしたことで、この作品がシューシュポスの神話へと繋がっていったのだと思います。
しかし、きっとこの作品に対する僕の「肯定感」は、ただそれだけが原因ではありません、もっと個人的な感慨のようなものがありました。
僕も人並みにいままで多くの女性と付き合ってきて、そして、多くの別れを経験してきました。
そして、別れるとき、その理由をどうしてもうまく説明できないまま、気まずい別れ方を重ねてきています。
そんなことを繰り返していたとき、ある女性からこう言われました。
「わたしに飽きたの」って。
これは少なからずショックでした。
まさに「そのとおり」だったからです。
そしてそのとき、すべてが分かりました。
もう僕には彼女に話すことなどなにも残っていないし、彼女が話すことに興味も関心も失せてしまっているほど、もはや彼女のすべてを聞き尽くしてくしまったような煮詰まってしまった退屈さしか感じられず、ふたりきりでいることが、ただ苦痛で重荷だったのです。
偶然知り合い、相手のことをもっと知りたいと願って一生懸命語り合っていた出会いの頃の素晴らしい時間は、自分が相手に馴れ切ってしまい、相手からも凭れ掛かられることで、ふたりの関係が嘘みたいな苦痛に変化して、きっとそのことに耐えられなかったのだと思います。
そのとき思いました。
あの出会いの時の、胸が震えるような輝く瞬間がいつまでも続かないものかと。
場違いな感想でなんとも恐縮ですが、いつも新鮮な出会いが繰り返される「博士の愛した数式」は、僕が理想としていたその答えを示してくれていました。気持ちだけでも、人との出会いをあんなふうに考えられたら、きっと素晴らしい人間関係を結ぶことができるに違いないと。
(06アスミック・エース)原作:小川洋子、脚本監督:小泉堯史、プロデューサー:荒木美也子、桜井勉、エグゼクティブプロデューサー:椎名保、撮影:上田正治、北澤弘之、美術:酒井賢、録音:紅谷愃一、照明:山川英明、衣装コーディネーター:黒澤和子、音楽:加古隆、
出演・寺尾聰、深津絵里、齋藤隆成、吉岡秀隆、浅丘ルリ子