「にごりえ」の中の淡島千景
2007年 02月 06日
出演した作品は、「麦秋」や「お茶漬けの味」、そして「早春」です。
小津演出に思いを馳せながら女優淡島千景は、当時をこんなふうに回想していました。
役者自身の創意工夫など思いも寄らない、ただただ小津監督の指示のままに一挙手一投足をまるで器械体操のような段取りで、ただ忠実になぞるだけの演技をしただけだと答えていました。
しかし、そう話しながら、淡島千景は、きっと一方で、「にごりえ」において示した俳優としての最高の演技に自負を抱きながら、そう語っているに違いないと、僕は自分ひとりで勝手に確信し、そのテレビのインタビューを眺めていました。
俳優にとって小津作品とはいったいどういうものなのか、それは長い間の僕の疑問でした。
はたして、小津演出のように、役者がみずからの演技の工夫を強引に押さえ込まれたような演技指導を受け、たとえその映画自体は高い評価を受けたとしても、それが演技者として自負につながる仕事といえるのかどうかという疑問です。
たとえば、「麦秋」が51年、「お茶漬けの味」が52年、「早春」は56年の作品で、そして、あの渾身の演技を見せた「にごりえ」は、その時期の真っ只中に位置すると言ってもいい53年度の作品です。
たしか、その特別番組の中でも淡島千景は、このような世界の映画史に残る名作に出演できて光栄です、みたいな答え方はしていました。
そして同時に、それらの作品はどこまでも「小津監督の映画」であるとも強調されていました。
その発言の裏側をあえて勘繰れば、それは言下に「小津作品には、俳優としての自分はないのだ」と言っているようにも聞こえます。
「早春」において、深夜、紅をつけたワイシャツで帰宅した亭主の不実をなじる倦怠期の妻を演じた淡島千景の存在感は、本当に素晴らしいの一語に尽きる演技だったのですが、しかし、あの「にごりえ」の、卑猥な酔客に執拗に胸や体を撫で回され、肉体の隅々までまさぐられる酌婦=淡島千景が、屈辱とやり場のない憤怒と自己嫌悪のなかでいたたまれなくなり、顔を歪めながら夜の色街の雑踏のなかに飛び出して当てもなくさまよう鬼気迫るシーンには到底及ばないと長い間確信していたのでした。
しかし、最近ある本を読んで、とてもショックを受けました。
社会思想社刊・現代教養文庫の「日本映画俳優全史・女優編」の中の「淡島千景」の項です。
彼女の解説の最後にはこう書かれています。
「結局、彼女はふたつの芸流をわが身につけたといえる。
ひとつは、「麦秋」「花の生涯」「早春」「絵島生島」といった静かな人間味をしみじみ訴えるもの、そしていまひとつの流れは、「てんやわんや」「やっさもっさ」「夫婦善哉」「駅前旅館」といったやや滑稽味の勝ったもの、そのどちらをも、さらりとこなすところが彼女の大女優たるゆえんといえよう。」
この解説の全文の中はおろか、《主なる出演作》の中にさえ「にごりえ」については、ひとことも触れられていませんでした。
これは、実にショックでした。
かつてのキネマ旬報「第1位」の評価が時代の変遷の中でじりじりと後退し、そこで演じられた一女優の激しい演技も、いまでは最初から存在しなかったみたいに記録から無残に抹消されてしまったような寒々しい感じを受けました。