からっ風野郎
2007年 02月 12日
以前から増村保造と三島由紀夫なんてミスマッチもいいところだという思いが強くて、きっとこの作品も見ないままお蔵入りさせていたのだろうと思います。
この映画を見てみると、確かに作家・三島由紀夫の「形容詞の世界」にどっぷりとハマっていた時には見えなかったものが見えてきました。
エキストラに囲まれている彼は意外なほどの小男で、グラビア写真で見たときの筋肉隆々に見えた肉体も、スクリーンの中のそれは、未熟児のひ弱さを後遺症のように引きずりながら成人してしまったような貧弱な猫背の体型に、無理やり過剰な肉付けをしてみせたアンバランスな一種の「畸形」の印象をどうしても拭えませんでした。
虚勢をはって自分を大きくみせようとすればするほど、かえってその「小ささ」を曝け出してしまうような無残な姿が強く印象づけられるものがあります。
冒頭で一瞬写る刑務所の庭でバレーボールを打つ彼の仕草は、スポーツがあまり得意ではない自意識過剰な優等生の少年そのままのぎこちなさで、見ているほうが赤面してしまうくらいです。
「そんなに無理しなくてもいいじゃないか、誰も君ことを馬鹿になんかしていないよ。」とでも言ってあげたくなるような、これはそんな映画なのだと思いました。
「仮面の告白」、「青の時代」、「金閣寺」など、この頃の三島由紀夫は、すでに数々の衝撃的な名作を執筆しており(ただ、この頃が三島のピークだという見方もあるようですが)、その確固とした名声に支えられ、自信満々すでにその存在感を不動なものにしていた三島由紀夫が、この映画の中の「鉄砲玉」のチンピラなどには、どうしても見えませんでした。
残念ながら僕には、この作品の三島が、悪達者な取り巻きにおだてられて格好だけはつけている世間知らずのわがままな若社長の「宴会芸」程度にしか見えません。
それがどのようなものであるにしろ、社員たるもの(三島からの影響度からいえば、僕も社員の末席を汚すのだろうなとは思います)、もちろんヤンヤの拍手喝采を惜しむものではありません。
しかし、この映画、そんなふうに卑下ばかりしなくてもいいじゃないかという、救いもないわけではありません。
子供を身籠った若尾文子が、堕胎の薬を飲まなかったことを三島に告げて、怒り狂った彼に殴る蹴る(ここでのDV演技も極めてぎこちないのですが)の暴行を受ける場面です。
ここの三島が自分のことしか考えてない小心のチンピラを十分に演じられたかどうかはともかく、若尾文子はお腹の子供を庇いながら「畜生! そんなに私が憎いなら、いっそのこと殺しやがれ」と毒づき必死に抵抗するこのシーンだけで、この映画は増村保造作品として生々しい濃密な息を僕たちに吐き掛けてくれました。
そこには、確かに「刺青」の、したたかに生きたおセツが息づいていました。
ちなみに三島由紀夫の写真集「聖セバスチャンの殉教」という、木に縛られている三島の全身に無数の矢が突き刺さっていて、当の三島は恍惚としてのけぞっているという写真集があります。
僕の記憶が正しければ、確かその本は、ウチラの村の書店では、いまは廃刊になった(と以前新聞には出てました)雑誌「薔薇族」の隣に並べられていたくらいのシロモノで、村では、三島由紀夫はもっぱらヘンタイ作家扱いされていました。
これもひとつの見識かなあと、当時妙に感心してしまった記憶があります。
三島由紀夫が太宰治の虚無のポーズを嫌悪して「あんなものは早起きして、ラジオ体操でもすれば直ってしまう種類のものだ」と一蹴にふしたエピソードを知ったとき、三島由紀夫自身こそが、もっと深刻な虚無に囚われていることを感じたものでした。
映画「からっ風野郎」は、彼がその生涯で残した数々のパフォーマンス(盾の会とか同性愛嗜好とか)のひとつとして、三島由紀夫というひとりの男の痛ましい虚勢と受け取ったので、その視点から作品の感想を書き始めてみて気がついたことは、作品自体について、そこでも書いたように若尾文子の描き方に、増村の最高傑作「刺青」を思わせるシタタカな女の魅力的な描写もあったりして、僕にとってはどこまでも愛すべき作品であり、決して失敗作などではないと思っています。
ですので、《「巨人と玩具」「陸軍 中野学校」「妻は告白する」でなく、「からっ風野郎」「セックス・チェック 第二の性」「でんきくらげ」の、そして「赤い天使」の若尾文子でなく「赤い衝撃」の山口百恵を演出した増村保造に長く疑問を持っていた》とある人の明確に書かれている部分には、「そうかなあ」という感じを持ちました。
かつて「増村保造の最後の作品が『この子の七つのお祝いに』では、あまりにもひどすぎる。」と書いたある映画評論家のコメントも読んだ記憶がありますが、それなりに増村らしい女が活き活きと描かれているという感じをもっていたので、それらの批判をすんなりとは納得できないでいます。
「溝口健二監督の死で『自然主義的なリアリズム』が終わり、『社会的リアリズムの時代』の到来を予想した増村保造」が、なぜあえて「出来の悪い冗談のようなリアリズム」を実践しなければならなかったのか、その関連性がよく分からなかったのだと思います。
以下は、僕なりにチェックしてみた増村保造の溝口健二論です。
休日を利用してじっくり読んでみたいと思っています。
①「本能の作家―溝口健二」(キネ旬1958.5上旬号)
②「巨匠の晩年」(キネ旬1961.9下旬号)
③「溝口健二と邦画の確立」(中央公論1965.9)
④「溝口健二―最も日本的作家」(キネ旬1967.8上旬号)
⑤「谷崎潤一郎と溝口健二」(キネ旬1967.9上旬号)
⑥「溝口におけるリアリズム」(キネ旬1967.9下旬号)
⑦「シーンとショット」(キネ旬1959.4上旬号)
増村保造の溝口健二論のうちのひとつ、「本能の作家―溝口健二」を読み進むにつれ、若き増村が溝口健二という卓越した先達に取り憑かれ、溝口美学の核心に迫ることで理性的な節度だけは守りながらも次第に高揚し、激していくという部分の、増村自身の力のこもった肉声に知らず知らずのうちに引き込まれてしまいました。
その言葉は、活き活きと躍動していて、溢れ出る若き増村保造の情熱がモロに脈打っているといった感じです。
例えば、
「溝口さんは人間の感情を台詞でとことんまで描かせる。しかし、決して台詞に頼らない。屈曲する台詞を通して、人物の奥深い感情を揺り動かし、滲み出させ、集中させ、衝突させ、狂乱させ、デモーニッシュな昂揚にまで高める。それは本能とも呼ぶべき根深い人間感情の噴出である。」
とか、
「本能の美点は、感情のすべての豊かさを渾然と孕んで、たゆみなく流動し、時として激しく、ダイナミックな奔流と化し、行方も知らず躍動するところにある。溝口作品に見られる華麗な豊かさ、緊迫した流動美、人間感情の鮮烈で意表をつく爆発、それらはすべて本能の美しさであり、強さである。」
と力説しながら、しかし、溝口がそのように人間の本能を描き極めることで、逆に人間の社会性を描き切ることから眼をそむけ、歴史性や社会性のある題材、つまり「現代」を描くことができないと数々の失敗作(元禄忠臣蔵、楊貴妃、新平家物語、赤線地帯)をあげて論証しています。
この増村の小論「本能の作家―溝口健二」が落ち着くべき結論もこのあたりにあるのですが、しかし、それがまったくの否定的な論調でないことところが、増村保造にとっての「溝口健二」なのだと感じました。
そして、溝口が歴史や社を描けなかったのはなぜかと突き詰めていく結論が「溝口健二の無学なためのコンプレックス」と結論付ける大胆さには、この不世出の天才に真っ向から対峙しようとしている増村保造の覚悟みたいなものも感じずにはおられません。
小津安二郎や溝口健二が生きた時代に比べると、増村保造の生きた時代は、どんなに晴れがましいキャリアも、ときには卓越した力量でさえも必要とされない、はるかに過酷で酷薄な打算の時代だったといえるでしょう。
時代が求めていたものは、そうした晴れがましいキャリアでも重厚なリアリズムでもなく、時勢に素早く対応できる軽さと目先の変わったスキャンダラスなエロティシズムが表現できる、しかも取替え可能な消耗品としての「才能」ならなおさら歓迎された時代だったのだと思います。
そういう過酷な状況で映画を撮り続けたひとりの映像作家が、そうした中で、たえず溝口健二のリアリズムにこだわり、その方法論を論じ続けたということに何故か不思議な感動を覚えます。
きっと、ここに「溝口から学んだ役者に対する執拗な凝視を敷衍することによって観念ではないリアルというモチベーションを根底にすえた、一つ間違えば荒唐無稽な設定を、増村はパロディーではなく大真面目なリアリティーとして格闘しているのではないか、という過酷な打算の時代を逆説的によってしか生きようがなかった不遇な天才の姿があったのかもしれません。
彼は、きっとそのようにして「からっ風野郎」を撮り「セックス・チェック 第二の性」を撮り「でんきくらげ」を撮り、そして「赤い衝撃」を撮ったのだと思います。
(60大映・東京撮影所)製作・永田雅一、企画・藤井浩明 榎本昌治、監督・増村保造、助監督・石田潔、脚本・菊島隆三 安藤日出男、撮影・村井博、色彩技術・西田充、音楽・塚原哲夫、主題歌・「からっ風野郎」、作詞・歌・三島由紀夫、作曲・深沢七郎、美術・渡辺竹三郎、装置・岡田角太郎、録音・渡辺利一、照明・米山勇、編集・中静達治、スチール・薫森良民、制作主任・大橋俊雄
出演・三島由紀夫、若尾文子、川崎敬三、船越英二、志村喬、水谷良重、小野道子、根上淳、矢萩ふく子、山本礼三郎、神山繁、高村栄一、杉田康、飛田喜佐夫、潮万太郎、浜村純、土方孝哉、此木透、小山内淳、三津田健、花布辰男、小杉光史、伊東光一、杉森麟、倉田マユミ、佐々木正時、守田学、須藤恒子、津田駿二、山口健、大塚弘
1960.03.23 7巻 2,627m 96分 カラー 大映スコープ
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