タイトルからすると、シネマ・ヴェリテへのオマージュなのかと思いながら観はじめたのですが、とんだ勘違いでした。
期待を持たされた分だけ、この失望感にはむかっ腹が立ちます。
なんの意欲も工夫もない旧態依然の作劇法で、まあ敢えて分類するとすればタチの悪い学園モノといったところでしょうか(学園ものなら、もう少し爽やかに作って欲しいと思いますが)。
全編で話される「映画の記憶」も知識のヒケラカシの範囲を一歩も出ていない、きっとどの本にも書いてあるような実に薄っぺらなものであったことも、怒りを誘います。
また、カミュをからめて「殺人」に動機が必要か否かなんて、そんな手垢にまみれた古臭いテーマを、ゴダールまで引っ張り出して、いまどき大真面目で作る意味が果たしてあるんでしょうか。
リアルタイムでゴダールの中国への接近の無様をつぶさに見てきた僕にとって、あのオッサンの映画は「話半分」くらいに観ておくくらいがちょうどいいというのが実感です。
あんまり神様みたいに持ち上げすぎると、肩透かしをくわされて、あとで引っ込みが付かなくなるような気がしますしね。
ナニゲについ「肩透かしをくわされる」なんて言ってしまったのですが、この映画を最後まで見通して出会ったのが、老婆を殴り殺した男の「人殺しを経験してみたかった。人を殺したらどうなるか、実験してみたかった」という花も実もない殺伐とした言葉でした。
観客をこの言葉に向かい合わせるために、あれだけの理屈を捏ね廻したのでしょうか。
狂気に囚われたこんな男の言葉のどこに、「異邦人」とつながるものがあるのかさっぱり分かりませんでした。
例えば「異邦人」で問われている最も深刻なテーマは、「人殺しの理由が、あえて言えば太陽がまぶしかったから」などという末梢的な部分にあるのではなく、「母親が死んだその日に、親の死を悼み喪に服することなく、愛人と遊び興じ、あまつさえ愛欲に耽ったことを反道徳的と、もっともらしく非難する世間の《良識》」に対して、寡黙なムルソーが始めて怒りをあらわにする部分にあります。
親を失ったことに対して世間が納得するような悲しみの《振り》をすることになんの意味があるのだ、と。
そんなことは、どうでもいいことなのだ。自分の人生を自分らしく生き、母親の死を自分なりに悲しむことこそが重要なことなのであって、それが世間の良識とどう関係するというのか。
世間を納得させるような《理由》を説明することになんの意味も認めていないムルソーは、殺人の理由(それはつまり、道徳的な責めの在り処ということでしょう)を問われ、お前たちがそんなに「殺人の理由」が欲しいのなら言ってやろう、という思いのあとで言った言葉が、「太陽がまぶしかったから」なのです。
「そんなことは、どうでもいいのだ」という思いのなかで発せられた言葉(きっと、それは、他のどんな言葉でも置き換え可能なものだったはずです)を真正なものと真に受け、その誤謬のうえで作られたこの映画「カミュなんて知らない」は、最初からテーマを見失った作品だったのだろうなという気がします。