風と共に去りぬ
2007年 04月 21日
いろいろと問題を抱えている作品ですが、それだけに興味が尽きないのだと思います。
聞くところによると、現在のアメリカ合衆国では、公民権運動の結果、この映画は人種差別映画との評価をされて公的な場所では上映禁止となっているとか。
原書では、ニガーやダーキーというあからさまな言葉が頻繁に使われ、更にクー・クラックス・クラン(KKK)まで登場してきます。
アメリカ人がこの映画を国民的映画と思っているなら、それは単に意思の強い南部女のラブ・ロマンスとだけ見ている訳ではないという所を分かっていないと、ちょっとまずいかなという気がします。
スカーレットのコルセットを閉めているしつけの厳しい黒人の乳母マミーの役を演じたハッティ・マクダニエルは、この作品で黒人女優初のオスカー、アカデミー最優秀助演女優賞を受賞しましたが、逆に、この受賞で、皮肉にも以後ハッティにもたらされた役は乳母役に限定されたばかりでなく、多くの黒人女優たちの、何か他に演じることができるかもしれない可能性の芽をも潰す結果を作ったというシビアな評価もあります。
それでなくても、黒人女優に回ってくる役といえば乳母かメイドの役ばかり、ハッティも「風と共に去りぬ」の乳母役を獲得するまでに50本を超える映画でメイド役を演じたそうです。
白人のインタビュアーの、何故メイド役しか演じなかったのかという的外れな質問に対し、「黒人女性の仕事といえば、週給7ドルでメイドをやるか、週給70ドルでメイドの役を演じるしか他になかったからだ」と答えています。
最初のうちは黒人社会からも盛大な拍手を送られていたハッティも、1940年代後半に入るとNAACP(全国黒人地位向上協会)は、黒人のステレオタイプとされるマミーのような(黒人奴隷が白人農園主に忠誠を尽くすという)役柄を批判すると同時に、役を引き受けた俳優への批判に発展していきました(世に言うハッティ・マクダニエル排斥運動です)。
300本の映画でメイドの役だけを演じた黒人女優ハッティ・マクダニエルは、他の役による演技の実力を示すことが出来ないまま1952年、57歳で亡くなりました。
そういえば、確かBSでも、KKK讃美のグリフィス監督「国民の創生」をやっていましたね。
あまりにもあからさまな差別感の表明に度肝を抜かれました。
この映画が、様々な人種の子供たちが見ているテレビで放映されるなど、アメリカでは考えられないことなのかも知れません。
それとも、日本があまりに無邪気で鈍感なのか、僕にはよく分かりません。
因みに僕の持っている「世界映画人名事典・男女優編」には黒人女優は一人も掲載されていません。
最優秀助演女優賞を取ったこのハッティ・マクダニエルでさえも。
1915年に製作されたグリフィスのこの「国民の創生」が、映像処理の基本的技法(フラッシュ・バックによる映画的時間の処理とか、クロス・アップや超ロングによるモッブ・シーンの使い分け、様々な形のマスキングの使用、ふたつの場面進行を交互に見せるクロス・カッティングなど)を確立した作品といわれるだけに、その優れた映画話法の完成度の高さと饒舌とにより、いま見ても左程語り口の古さを感じることなく鑑賞できるので、逆に、そこで描かれている強烈な人種的偏見も一層生々しく感じてしまうのかもしれません。
この作品は、南北に分かれて戦った二つの家族の若者同士が、南北の和解を象徴するかのように結ばれ結婚するというのが主要な話しの部分なのですが、それとは別に、北軍の勝利により、解放された黒人たちの凶悪な暴動に対処するために、自衛のため仕方なくKKKが組織されたという理由付けもなされています。
結成のタテマエは、自由の身となった黒人たちが白人に対し激しい憎悪をもって対抗し、その脅威に、やむを得ず白衣覆面のKKK団が暴徒と化した黒人に制裁を加えるためと説明されています。
実際に南軍の大佐だったという父親をもったグリフィスが、南軍的雰囲気の環境の中で育まれたに違いないこの暴力的な白人優越主義の人種偏見を、ごく日常的な常識として身につけていたことに驚くと共に、それを抵抗なく受け入れていた社会にも脅威さえ感じます。
そこには黒人を奴隷として虐待していた記憶に根ざす白人の根深い恐怖感が当然あったでしょうが、一方黒人自身のなかにも階級化された選民意識のようなもの(自分だけは特別白人に近いというような一種の優越感のようなもの)を持っていたらしいのです。
例えば1930年代のある黒人劇場では、冷酷で無知で野蛮なステレオタイプの堕落した黒人が、金髪の美女に襲い掛かろうとしている描写とのクロス・カットで、その黒人を制裁するために馬で駆けつけるKKK団の描写の場面が大写しになった時、黒人の観客が抗議どころか、KKKへ熱狂して喝采を送っていたという当時の新聞記事が紹介されており、黒人の中にもそれぞれ階層があって、ある選民意識を持った者の存在もあったことが窺われます。
しかし、これとても形を変えた「奴隷根性」でしかなく、黒人たちの隷従に甘んじた精神の打撃がいかに深刻なものであったかを示唆したエピソードだと思いました。
なお、こんな機会でもなければ決して読むこともなかったツンドク本「タラへの道-マーガレット・ミッチェルの生涯」(アン・エドワーズ著・文春刊)を読んで驚きました。
インタビューの引用ですが、映画化にあたって、黒人役を北部の知恵の着いた生意気な黒人のスラム訛りでやられたんじゃたまらない、とか、自分の作品を非難するアカの裏切り者とか、激烈な言葉が次々に飛び出してきます。
コテコテの南部の女だったのだなと実感しました。
さしずめ黄色い肌をした僕などは彼女によって、《奇妙な果実》にされて吊るされてしまう“くち”かもしれませんね。
ジャン・メイエールの「奴隷と奴隷商人」には、リンチにあった黒人二人が木からぶら下がり、それを薄ら笑いを浮かべた白人たちが、まるで花火見物をするかのようにぞろぞろ見物にきている写真が掲載されていました。
おそろしー。