力道山
2007年 07月 21日
しかし、頻繁にそういう「感動」を繰り返していく不自然さに、ある疑問が自分のなかに芽生えてきたのだと思います。
それらの見事なストーリーが、実は、かつて無数に作られた歴史的「名作」群からの複雑な盗用でしかなく、その狡猾な剽窃の無節操ぶりに気がついたときのやりきれない脱力感と失望感から、それ以来韓国映画というものをマトモニ見なくなってしまいました。
ですので、この「力道山」(きっと正確には、この作品は純正の韓国映画とはいえないのかもしれませんが)は、本当に久しぶりに僕が見た韓国テイストに満ちた作品だったと思います。
そして、この作品を見ているうちに、ある興味深いことに気がつきました。
韓国映画が、ほれたはれたのラブ・ロマンスを撮っているときは、あれほど見事な(もちろん、立派な歴史的なお手本が綺羅星のごとくあったのですから、当然といえば当然だったわけですが)ストーリー展開を持てたのに、「日本人からの差別」が絡むと、冷静さを欠いたこの程度のお粗末・稚拙な物語しか描けないのかという落胆でした。
ここでは、性急な怒りを発するために、いままでのようなあの継ぎはぎのジグソーパズルのような虚飾をまとわせた体裁を整えるイトマがなかったのだとすると、この「力道山」あたりが、本音をそなえた「韓国映画」の偽らざる実力と見ていいような気がします。
ここには、「日本人からの差別」→「民族的な怒り」という紋切り型の図式が一直線に描かれているだけで、それから先には一歩も進めていない作り手の側の非力しか感じることができません。
日本人の国民的な英雄が、実は朝鮮人の民族的な英雄だったのだという主張のなかに、なにほどのものが描かれているといえるでしょうか。
朝鮮籍を隠しながら、「国民的な英雄」という日本人を演じた力道山が、実は朝鮮人の民族的な英雄だったとしても、「それがどうした」という感じからこの映画は一歩も抜け出てはいません。
そこには、強烈な個性で現実を思うがまま、したたかに生きた「力道山」が立ち塞がっているだけで、ふたつの民族から「英雄」と呼ばれることによって引き裂かれた「人間」の痛みが、もしそこにあったのだとしたら、それを窺い知ることは到底できません。
韓国側が必死になって「民族の血」を見たいと信じた部分に、そんなものとは無縁のもの、結局は「汚れた金」しか存在しなかったからでしょうか。
吉村義雄の回想録「君は力道山を見たか」のなかに、韓国・板門店を訪問した力道山が、突然上半身裸になって「ウォー」と叫んだというエピソードが紹介されています。
そのとき力道山は、北朝鮮側から浴びせ掛けられるフラッシュを十分に意識してか、その叫びは「兄さん」とも聞こえたと書かれているそうです。
そのエピソードからは、力道山が生きるために必死になって日本人を演じたように、板門店においても朝鮮人を演じたにすぎなかったのだと窺うことは、それほど困難なことではありません。
そして、そこから何が見えてくるかといえば、最早いずれの国からをも拒まれ疎外された男の、行き場のない孤独な祖国喪失者を演じながら、しかし、腹の中ではひそかに嘲りの舌を出してほくそえんでいたに違いないシタタカナ商売人がいただけなのかもしれません。
そんな安易な妄想を許すスキだらけの映画のような気がしました。
(06日韓)監督・ソン・ヘウン、プロデュース・チャ・スンジェ、河井信哉、制作・サイダスFNH、特別協力・百田光雄(リキ・エンタープライス)
出演・ソル・ギョング、中谷美紀、萩原聖人、鈴木砂羽、山本太郎、船木誠勝、ノ・ジュノ、秋山準、モハメド・ヨネ、武藤敬司、橋本真也、マイク・バートン、ジム・スティール、リック・スタイナー、梶原しげる、荻島正己、マギー、岡本麗、藤竜也