「暗闇の丑松」より 初姿丑松格子
2008年 02月 23日
無力な庶民が、抵抗し難い過酷な運命に翻弄され、想定できる限りの滅茶苦茶な不幸に見舞われて、遂には堕ちるところまで堕ち尽くして破滅するという熾烈なストーリー展開を特徴としたジャンルです。
文学に限らず、こういうストーリー展開を持つ作品なら、それこそ映画だってよくあるのでしょうが、しかし、これでもか、これでもかという「不幸のつるべ打ち」みたいなストーリー展開の執拗さには、やりきれないほど露悪的なところもあり、人間に対する徹底したその性悪説的世界観を繰り返し突きつけられると、いささかうんざりさせられます。
しかし、そうしたものであっても、そこには観客が積極的に求めたかもしれない「カタルシス」とか、構成の細部には、少なからぬ真実が込められていたのだろうなという実感もあり、その「庶民の不運」をダイジェストしたようなところは、ずっと以前から興味がありました。
この日活作品「暗闇の丑松より 初姿丑松格子」は、そういう視点から、とても楽しめた作品です。
主人公は、深川の料理屋・川竹の料理人・丑松で、この役は新国劇の島田正吾が演じています。
恋仲だった女中のお米(島崎雪子が演じています)と祝言を挙げますが、川竹の若旦那というのがチョイ悪の遊び人で、かねてからお米に懸想していて、丑松と祝言を挙げたあとも彼女を付け回し、いつかはどうにかしてやろうという魂胆でお米を狙っています。
やがて策略を巡らせて、丑松を解雇し、よその店に遠ざけておいた留守に、お米を襲います。
ここでは、いわばストーカーの川竹の若旦那が、どうしてお米を諦め切れないで執着し続けるのか、という部分を観客に納得させなければ、この物語は最初から成立しないところではあります。
それはもちろん女の好みは「それぞれ」でしょうから、男にとって、女なら誰でもOKというものではありません。
どんなに気持ち的に整理し(男がですよ)、自分自身を理屈で納得させても、究極的にはカラダ(これも「自分自身」てす)が付いていかない。
映画のシーンで、男の性的不能を女性が嘲笑するという場面をよく見かけますが、あれなどは、むしろ悲観すべきは女性の方なのではないかと常々思っています。
「あんたが相手じゃ、どうしても駄目なんだ」と言っているわけですから。
つまり、いってみれば男性の「好み」はそれぞれ違ううえに、女性が思っている以上にメンタル的に極めてデリケートな面があったりとか、その辺のところを等しく(「妄想」を含めて)観客を納得させる「おんな」を演じることのできる女優の起用というのが、大切なことなのだと思います。
恥じらいと妖艶さ、純潔と淫らが同じレベルで演じられなければ、新妻のういういしさはとても出せない、その難しい役どころを、島崎雪子が巧みに演じていました。
島崎雪子の出演作というのを、自分としてはそれほどたくさん知っているわけではないのですが、例えば、成瀬巳喜男の「めし」とか・・・と考えると名前だけは知っている積もりだった割には、出演作がまったく出てきません。
しかし、少し考えてみて、むしろそれは当然かもしれないなと思えてきました。
自分が「島崎雪子」という女優の印象を形成したのは、「めし」と、それから「七人の侍」のたった2本からの印象しかなかったことに気がついたからでした。
倦怠期の中年の夫を性的に妖しく惑わす成熟した姪を演じた「めし」と、野武士に拉致されて無理やり夜伽を強いられ、遂には救いに来た夫の目の前で死を選ぶ百姓の女房を演じた「七人の侍」。
このふたつの作品における彼女の演技が、強烈な印象として残っていたために、きっとあの理由のない「既視感」に繋がったものと思います。
そして、そのどちらが、より強烈だったかといえば、もちろん「七人の侍」の方でした。
野武士との決戦を目前にして少しでも敵の戦力を削いでおこうと、侍たちの幾人かが野武士の巣窟に奇襲を掛けます。
七人の侍のうちで最初のひとり(確か千秋実が演じていましたよね)の犠牲者が出る場面です。
こっそり巣窟を覗くと、拉致してきた百姓の女房との乱交に疲れた野武士たちは、いぎたなく眠りこけています。
野武士たちに混じって、責め苛まれた百姓の女たちも疲れ果てて雑魚寝に混じって死んだように眠っているその姿は、淫らで過酷な夜毎の性の饗宴を暗示している、かなりショッキングな場面でした。
「天国と地獄」のなかで、麻薬に憑かれた中毒者たちが、虚脱しながらただ呆然と麻薬を与えられるのを待っているスラムのような地帯を撮ったシーンがありましたが、あの場面よりも余程強烈な印象を受けたことを覚えています。
その「七人の侍」の中で、身を横たえている女たちのなかでひとりだけ半身を起こして、絶望と倦怠のなかで、けだるそにに髪を整えている女が島崎雪子でした。
逃れられない状況になかで、野武士たちの慰みものとして「女」であることを徹底的に貪り尽くされ、ただただ性欲処理の玩具として責め苛まれた絶望のなかで、諦め切った自嘲の薄笑いを浮かべながら、気だるそうに髪を梳いている「女」を演じ切っていたこのショッキングな場面に出会ったのは、自分がまだ小学生のときでした。
いまから思えば、まだ幼かったであろう自分にもこの場面の意味をどうにか理解できていたと思います。
多分そのとき、こんなふうに思ったかもしれないと、当時を思い返して想像することがあります・・・人間は、たとえどんな目にあっても生きていくことができる、あの百姓の女房も、もし救いにきた亭主に会うことがなければ、あそこで死を選ぶこともなかったかもしれない、と。
しかし、よく考えてみれば、「黒澤映画」を見ていた限りでは、そういう考えに至ることは、なかったかもしれません。
あの場面から受けた「黒澤映画」の潔癖な部分を経て(この作品でも、島崎雪子は、自分の所業を悔いて、亭主に詫びるために自害の途を選んでいます。いわば操を立てるという考え方でしょうか)、生きることの力強さの意味を考えるようになったのは、やはり「今村昌平作品」を見るようになったからだろうなと気がつきました。
自分の経てきた映画の経験を追体験する思いでした。
* * *
新国劇というのをあまり見た経験がないので憶測でものを言うしかないのですが、新国劇の二枚看板、島田正吾と辰巳柳太郎は、そのキャラクターからすると、役どころによって主役をそれぞれ演じ代えていたのではないか、例えば、融通の利かないくらいの生真面目さと不器用さに加え、自分から積極的に社会に潜り込んでいくだけの処世術にも欠けているために、却って世間から疎んじられ、要領のいい人々の悪意に晒され、散々に辛酸をなめさせられた挙句、怒りを爆発させて権力に追い詰められ、遂には破滅するという役どころを島田正吾が演じたとすれば、辰巳柳太郎の方は、例えば「王将」の坂田三吉だとか、「無法松の一生」のような豪放磊落な役が多かったのではないかという感じです。
こう書くと、自分が辰巳柳太郎を坂東妻三郎とダブル・イメージさせていることに我ながら気づかされます。
ここ何作が見てきた新国劇映画が描いたものは、日本が映画を作り始めて繰り返し描き続けたストーリーとが、この分業にどのような意味があるのか、なんか興味が湧いてきました。
島田正吾と辰巳柳太郎という好対照のキャラクターを比べるときのキイワードは、たぶん辰巳柳太郎の「生真面目さ」と辰巳柳太郎の「豪放磊落さ」だと思います。
そして、そのキャラの先には、同質の破綻によって収束される結果が待ち構えている。
(1954日活)監督・滝沢英輔、脚本・堀江正太、撮影・山崎安一郎、音楽・大森盛太郎
出演・島田正吾、島崎雪子、辰巳柳太郎、石山健二郎、宮城千賀子、滝沢修、小沢慶太郎、久松喜世子、外崎恵美子、明美京子、山村邦子(後にくに子)、美川洋一郎(陽一郎)、深江和久(章喜)、三島謙、山田禅二、弘松三郎、馬渕晴子、清水一郎、河野秋武、香川桂子、山本かほる、雪岡純(雪丘恵介)、岡和子、千秋実、加東大介