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桃中軒雲右衛門
この作品を見て,思わず「芸のためなら女房も泣かす」という歌謡曲の一節を思い出してしまいました。

残念ながら,多分それ以上とは思えないひたすらシンプルな「芸道もの」という印象を受けた作品です。

もう少し「桃中軒雲右衛門」という人物が理解できる作品になっていたら,もっと違った印象を持てたかもしれませんが,監督が成瀬巳喜男ということを考えれば,どうしてもそれなりの期待を持ってしまう分,そのギャップからくる違和感はありました。

中年になり自分の芸の衰えを自覚しはじめた浪曲師が,活気に満ちた若い頃を知っている女房(芸者の愛人ができたこともあって次第に女房の存在が煙たくなって敬遠しています)からの指弾に怯え,全編彼女から逃げ回り続けるというなんとも情けない感じの作品です。

作品のなかで, 雲右衛門自身が「その衰えだって,大衆は魅力と感じているのだ」と弁解すると,女房は,芸の衰弱をさえそのように売り物にしようとする不甲斐ない無様な夫を更に責め,そして拒絶します「昔のあんたは,そんなじゃなかった」と。

この作品で描かれている「浪曲師・桃中軒雲右衛門」という人物を、映画が描いているままに忠実にイメージしようとすれば、きっと臆病なくせに独善的で、鼻持ちならない小心者という印象からは、なかなか自由になれないかもしれません。

たかが浪花節語りのくせに、何を偉そうにふんぞり返っていやがるという、月形龍之介演じるその傲慢不遜な演技に対する反感がまず障碍となって、それから先の解釈(つまり共感とか同情とか思い入れなど)の深化に踏み出す切っ掛けを掴み損なう懼れがあるかもしれません。

市井に生きる庶民の悲しみと諦念を描くことに長けている成瀬巳喜男ともあろう監督が、なにもわざわざ、このような傲慢不遜な虚栄心と虚勢とによって、ふんぞり返って世の中を渡り歩こうとするような権威志向の強い人物を描く意味がどこにあるのだ、どう考えても不可解極まるこの作品をなぜ成瀬巳喜男が敢えて製作しようとしたのかが、僕としてはどうしても理解できなかったのだと思います。

しかし、理解できず、全篇上滑りに終始するその重厚そうに見せ掛けて実は淡白でしかない描写もさることながらも、しかし、そこにも不思議な魅力がないわけじゃない、僕はその「ないわけじゃない」かすかな部分を手掛かりに、もう少しこの作品に踏み込んでみることにしました。

ここに描かれているのは、時代の寵児・いわば一代の「天才」です。

そして、世間的な人気からすれば、彼のその天才は社会的に正当に評価されているといってもいい(そんなふうに描かれていました)。

しかし、それでもなぜ、ここに描かれている桃中軒雲右衛門は、始終苛ついているのか、という疑問が残ります。

きっとその、彼の芸の「世評の高さ」と、それに平衡する「不機嫌」とのギャップが、この作品のテーマなのかもしれないという気がしてきました。

つまり、別に評価されるべき真の「なにものか」があって、その見当違いの世間の評価に苛立ち、そして抱いた不機嫌は、どうしてもその「世評」に向かうしかない、だから雲右衛門は、どうしても始終苛々せざるを得ないのでしょうが、しかし、成瀬巳喜男が描いているのは、残念ながらそこらへんまででした。というか、それから先は、理屈で補強できるような描写自体が「ない」のです。

それはおそらく、桃中軒雲右衛門の苛立ちや不機嫌が何に基づいているのか、そんなことには成瀬監督がまるで関心のないことを示しているのだと推察できます。

そのあからさまな無関心は、傲慢な桃中軒雲右衛門に対して「なんだ、あの男は、えらそうに。たかが浪花節語りじゃないか」という冷ややかな「世間」となにほどの違いもないようにさえ見うけられます。

その原因を、若き成瀬巳喜男の力量の欠如、描写力の未熟さにあると早計に結論づける前に、むしろそれは、「天才」というものを最初から冷ややかにしか見ていない成瀬巳喜男の価値観の方にあるような気がします。

なるほど、分かりかけてきました。この映画は、もともとは(多分原作が)「世間に理解されない天才の苛立ちや孤独」(中原中也とかランボーとか)を描こうとした作品なのに、成瀬巳喜男は、その「天才」には目もくれないで、「苛立ちと怒り」だけを抉り取って描いたために、カクノゴトキ一見気妙な「不機嫌な浪曲師」の物語に仕上がってしまったのだと気がつきました。

前提としての「天才」を描かないうえに、「繊細な感性を理解しようとしない無神経な世間に対する」という部分をも極力押さえ込み、「苛立ちや怒り」だけをひたすら描くといういびつな奇妙さ・滑稽さという印象をこの映画が逃れがたく抱え持たされたそれがその理由かもしれません。

それは、その「いびつな奇妙さ・滑稽さ」というものが、「天才」というものに対する成瀬巳喜男のイメージそのものだからだと思います。

そしてそれこそが「天才」というものに対する庶民の見方でもあるといってもいいように思う。

日常をひたむきに生きる庶民には、荒唐無稽・誇大妄想的な「天才」の虚勢など、最初から理解を超えているのだと。

この「桃中軒雲右衛門」という作品は、日常から掛け離れたようなもっともらしい権威や権力を一切認めず、理解することを拒絶した成瀬巳喜男の気迫のこもった強烈なメッセージなのではないかと思えてきました。

ときあたかも1930年代後期のナショナリズムへ回帰する時勢のなかで、浪花節人気復興の世相が背景にありました。

(1936P.C.L.映画製作所)監督脚本・成瀬巳喜男、原作・真山青果、企画・森岩雄、撮影・鈴木博、音楽監督・伊藤昇、演奏・P.C.L.管弦楽団、装置・北猛夫、録音・山口淳、編集・岩下広一、
出演・月形龍之介、細川ちか子、千葉早智子、藤原釜足、伊藤薫、三島雅夫、市川朝太郎、小杉義男、御橋公、伊達信、澄川久、小沢栄、丸山章治
1936.04.29 大阪敷島倶楽部 8巻 1,918m 70分 白黒
by sentence2307 | 2008-04-26 08:18 | 映画 | Trackback(3) | Comments(3)
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