鉄塔 武蔵野線
2008年 06月 09日
父母の離婚話から話が始まり、夏休み明けには母方の実家・長崎に旅立とうとしている直前の少年のひと夏の冒険が描かれています。
とはいっても、その冒険に同行する親友との堅い友情が描かれているわけではありませんし、母親の子供に対する愛情とかが描かれているわけでもありません。
もちろん、父親のそれでもない。
別れを直前にしながら、父との別れが辛そうだなどという特別な感情が描かれているシーンも存在しませんし、父親との別居後、しばらくして死亡した父の葬儀のシーンでも、少年が肉親の死にのぞんで動揺したり悲しんだりというような場面らしきものもない。
なんなんだ、この映画は。
人間臭というものを一切排除したまま、この少年は、鉄塔には番号というものが記されていることに気づき、憑かれたように「一号鉄塔」をめざして、一塔一塔たどって行くという冒険(これが冒険といえるシロモノならの話ですが)の物語です。
ただ、それだけなのです、はっきり言って、この映画作りの杜撰さには呆れ返りました。
まさか、アーサー・ペンの「泳ぐ人」でもあるまいし、なにかに固執すること自体に、社会への絶望感とか、あるいは「日常性を突き破る破壊願望」とかが暗示されているようにも見えません。
ひどいのは、年下の親友・アキラ君の描き方です。
主人公・ミハル君は、その冒険の旅に、親友・アキラ君を伴いますが、「一号鉄塔」を目前にして日暮れてしまい、心細くなって「帰ろう」というアキラ君の心細そうな提案を退けて、「帰るなら帰れ!」とムゲに撥ね付け、「オレは、野宿する」と宣言するシーンがありました。
考えてみれば、これは極めつきの尋常ならざるシーンです。
小学生の低学年の親友を自宅から遠く離れた夜の見知らぬ街にほっぽりだしたのですヨ。
この親友のことは、その後、父親の葬儀のために久しぶりに(どのくらい時間が経過しているのか分かりませんが)長崎から上京してきた「ついで」に、アキラ君の家を訪ねる場面があるきりです。
そこはもう荒れ果てた廃屋のようになっていて、人の住んでいる気配もありません。
主人公・ミハル君は、「もう、ココには、いないのか」というくらいの無表情で、別段の感慨があるようには見受けられません。
普通なら、あの夜、親友を自宅から遠く離れた夜の街に見捨てた後に続いている「廃屋」の場面です。
あの後、彼になにかあったのではないかと不安に思っても、一向におかしない場面です。
あれが原因で発病し、死んでしまったのかもしれないじゃないですか。
話のつながりとは、そういうものじゃないですか。
モンタージュ理論など屁とも思わないこの下品でフテブテしい不感症的な無神経さには、ただただ呆れ帰り、さらに驚かされました。
この映画、どう考えても変なのです。辻褄が合いません。
そもそもこの冒険・鉄塔の番号狩りなるものを、納得させるほどの明確な理由が示されているわけではありません。
それがとても不思議な感じを与えます。
前述したように、「人間との繋がり」に対しては、おそろしく淡白なのに、鉄塔の番号をたどっていくことには、異常なほど固執する「こだわり」のアンバランスが、人間味を欠いた寒々しい印象を与えます。
こうなったら、インターネットに頼るほかないとばかりに、「クリック・クリック」です。
ああ、ありました、そうですか、これは、日本ファンタジーノベル大賞とかを受賞した作品の映画化だったのですね。
「ファンタジー」なら、ファンタジーらしく撮ってくれていれば、おじさんも、こんなにカッカしなくとも済んだのにねえ。
ハハハハ・・・
(1997)監督脚本編集・長尾直樹、製作・岩沢清、井上弘道、長尾直樹、岡本東郎、主題歌・「SAJA DREAM」おおたか静流(アルバム「LOVETUNE」収録)、撮影監督・渡部眞
出演・伊藤淳史、内山眞人、菅原大吉、麻生祐未、近内仁子、小野田英一、田口トモロヲ、塩野谷正幸、梅垣義明