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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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灰とダイヤモンド

むかし村上春樹が「風の歌を聴け」で群像の新人文学賞を受賞したときのことは、その頃あった出来事も含めて、鮮明におぼえています。

それにあの小説を読んだときの強烈な印象も忘れられません。

だからかもしれませんが、この小説を映画化した作品の出来の悪さには、ほとんど「憎しみ」さえ感じたくらいでした。

きっと、そのくらいの思い入れがあったからだと思います。

その「風の歌を聴け」のなかの一節に、こんなクダリがありました。

「僕と妻はサム・ペキンパーの映画がくるたびに映画館に行き、帰りには日比谷公園でビールを二本ずつ飲み、鳩にポップコーンをまいてやる。
サム・ペキンパーの映画の中では僕は『ガルシアの首』が気に入っているし、彼女は『コンボイ』が最高だと言う。
ペキンパー以外の映画では、僕は『灰とダイヤモンド』が好きだし、彼女は『尼僧ヨアンナ』が好きだ。
長く暮らしていると趣味でさえ似てくるのかもしれない。」

ペキンパーが持て囃されていたその当時、意表をつくこの取り合わせの奇抜さには、ちょっと衝撃を受けました。

当時猛烈なブームを巻き起こしていたペキンパーの映画と、まるでジャンルも年代も違う政治色の強いこの反帝反スタの旗印のようなアンジェイ・ワイダ作品「灰とダイヤモンド」とを、同列に置いた発想が物凄く新鮮だったのだと思います。

あらゆる映画を「ジャンル」という先入観と偏見でしか理解していなかった頭の凝り固まった自称映画通の僕たちには、並べて論じ立てることなど決して考えられなかった取り合わせでした。

僕たちにとって「灰とダイヤモンド」が、それほどまでに高められていた「抵抗の映画」だったことを、それは示していたのかもしれません。

「抵抗」の一点でペキンパーと「灰とダイヤモンド」とをナンナク結びつけた村上春樹の透き通った直感、状況に囚われることのないどこまでも自由な村上春樹の感性に眩しいものを感じたのだと思います。

去る15日の日曜日の夜、NHK教育テレビの「ETV特集」で、アンジェイ・ワイダ監督の特集番組「アンジェイ・ワイダ 祖国ポーランドを撮り続けた男」が放送されました。

その番組を見ながら、そんなむかしのことを思い出していました。

番組は、ソ連軍によるポーランド兵士の虐殺事件を描いた映画「カティン」の製作にいたるまでの権力当局との駆け引きの経緯(戦争中に起こったこの事件は、戦後もずっと語ることをタブー視されていた事件でした)を、ワイダ監督のインタビューをまじえて綴った記録です。

ワイダ監督が、映画「カティン」の製作にこだわった執念は、あの森で多くのポーランド兵が極秘裏に虐殺され、しかも、長い間歴史の闇に葬られていたという事実を暴くことで、自由のために権力に抵抗するとか、ソ連の国家犯罪を告発するとかといったお定まりの思想的な動機からなどではなく、その虐殺された兵士たちのなかに、ワイダ監督の父親も含まれていたのだというあまりにも衝撃的な、無残というしかない痛々しい切実な怒りの姿勢が潜んでいたことを思うと、以前からずっと持ち続けていた「灰とダイヤモンド」に対する違和感も氷解しました。

ワイダが描いた「抵抗」とは、抽象的な権力に対してなどではなく、まさにソ連そのものに対する具体的な抵抗だったことを知りました。

たとえ最後は犬のように惨めに射ち殺され、それが作劇上建前として反面教師的に括られていたとしても、いみじくも反革命的存在であるテロリスト青年マチェックが、共産党幹部を撃ち殺してしまうという衝撃的なエピソードが、どのようにして検閲を潜り抜けることができたのか、ソ連権力下にあった当時のポーランド政府内の戦々恐々たる混乱ぶりも機密書類をもとに描かれていていました。

そこには父を殺した権力に追随する者たちへのワイダの憎悪をもまた描かれていました。

映画「カティン」は、ポーランド兵たちがソ連軍に残酷無残に射殺され、まだ息をしているうちに土を掛けられ、もがき苦しみながら息絶えていく姿を克明に描き切った作品です。

悪意に満ちた邪悪な政策の一環としての不正な陰謀にはめられ、背後の至近距離から銃撃を受け、まだ息のあるうちに葬られ、土を肺いっぱいに詰め込んで苦悶のうちにのたうちながら息絶えた耐え難いシーンを、あえて再現した映画です。

しかもそこには、父親もおり、彼の最後の姿でもあり得たことをひとつひとつ確認しながら映画を撮り続けたのだと思うと、ひとりの息子として想像を絶するほど壮絶な、とても辛い作業だったはずです。

父親が殺される惨たらしい場面を正確に再現すること、そんな辛い思いが伴う映画をなぜ撮らねばならないのかという当然の疑問のかなたに、既に答えは出てしまっているように思います。

それは、あの見捨てられた若者たちの死を描いた「地下水道」や「灰とダイヤモンド」にしても同じことだったのだと思う。

命を掛けて圧制に抗する者たちの威厳に満ちた生と死を直視することをやめようとしない強靭な意思こそは、映画作家ワイダのものだったのだと感じられたからでした。

(1958ポーランド)監督脚色・アンジェイ・ワイダ、原作脚色・イェジー・アンジェイエフスキー、撮影・イェジー・ウォイチック、美術・ロマン・マン、音楽・フィリップ・ノワック指揮ウロツラウ放送五重奏団
出演・ズビグニエフ・チブルスキー、エヴァ・クジジェフスカ、アダム・パウリコフスキー、ボグミール・コビェラ、スタニスラフ・ミルスキー、ズビグニェフ・スコフロニュスキー、バクラフ・ザストルジンスキー
by sentence2307 | 2008-06-21 09:53 | アンジェイ・ワイダ | Comments(0)