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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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あしたの私のつくり方

1本の映画を1週間かけて、あれこれ捏ね繰り回して考え続け、その週末に短いコメントにまとめるという作業を、日常的な愉しみのひとつにしています。

通勤電車の中だとか、売上伝票に捺印しているときとか、会議の真っ最中などに、不意に脳裏に浮かんできた感覚的な言葉を書き留めておいて、それを膨らませたり圧縮したりして、なんとか小文に纏め上げています。

きっと、ひとつの言葉を捏ね繰り回しながら、ああでもない、こうでもないと迷ったりしながら、煮え切らない中途半端な状態に居るのが、自分にはとても居心地いい場所なのだと思います。

だいたい1週間も考えれば、作品のテーマだとか、それに沿った自分なりの感想が大方固まってくるものですが、しかし、そうじゃない場合だって、たまにはあります。

この市川準監督の「あしたの私のつくり方」という作品が、ちょうど「そういう作品」だったかもしれません。

この作品について、当初の理解は、学校で仲間はずれにされないために、自分を偽って「いい子」でいることに戸惑う少女たちが、迷いながらも「本当の自分」を探し当てる物語(宣伝文句そのままですが)みたいな認識から考えをスタートしました。

しかし、いじめられても、いじめられっぱなしという、理不尽なそうした歪んだ状況に手向かうどころか、むしろひれ伏すみたいに迎合していくこの作品の弱々しさが、どうしても馴染めませんでした。

とはいえ、トバグチでそんなことに拘っていたら、この作品の核心には迫れません。

この映画の核心は、きっと寿梨(成海璃子)が、日南子(前田敦子)に対して持ち続けていた負い目とヤマシサをどのように克服したか(あるいは出来なかったか)にあるのだと思います。

仲間はずれにされて苦しむ日南子と、仲間はずれにされまいとすることで「加害者側」に加担してしまった寿梨の、その贖罪の思いから、甲府に転校していった日南子に「好かれる女の子」を携帯メールで影ながら演出して、まんまと人気者に仕立て上げることに成功したことが、逆に「本当の自分」とのギャップに迷わせ、なおさら日南子に自己欺瞞の思いを抱かせてしまいます。

失ってしまった「本当の自分」として生きていきたいと悩む日南子の姿が描かれています。

それは、そのまま寿梨の問題でもあったのかもしれません。

しかし、普通に考えれば、寿梨に比べて、日南子の痛手の方が遥かに大きいという印象は拭えません、そのような二人が果たして対等な関係で交友関係を結ばせることができるのだろうかというのが、当初僕が抱いた素朴な疑問でした。

しかし、本当に、「いじめられ続けた日南子の痛手」の方が大きかったといえるでしょうか。

日南子が、たとえ「偽りの自分」によって人気者になったにすぎないことを否定的に悩んだとしても、一度「人気者」になったという記憶を、友人たちの中からそう簡単に消すことなどできはしません。

東京にいたときの日南子が、級友たちの記憶によって執拗にスポイルされる対象にされたように、甲府の日南子は、一度確立した「人気者」という消し難い強烈な印象によって常に受け入れられ続けるに違いありません。

しかし、寿梨の方はどうかといえば、日南子に送信した架空の物語が、結果的に、コト半ばにして彼女に拒絶されて失敗したということの裏に、目立つことを極力恐れた寿梨の、もし、こんなふうに振る舞うことができれば、きっと自分も人気者になれるに違いないと夢見た「あこがれ」が全否定されたという事実を見逃すわけにはいかないと思います。

寿梨が夢見た処世術(その有効性は、現実において、一度は日南子によって成功し証明してみせました)を日南子に否定されたとき、この二人の間の交友関係を結び合えるような接点が、断たれたとみるか、あるいはそんなものは最初から存在さえしていなかったのだということを、あのラストシーンは描いているのかもしれないと思えてきました。

(2007日活)監督・市川準、原作・真戸香「あしたの私のつくり方」(講談社刊)、脚本・細谷まどか、撮影・鈴木一博、照明・中須岳士(JSL)、美術・山口修、
音楽・佐々木友理、主題歌:シュノーケル「天気予報」(SME Records)
出演:成海璃子、前田敦子、高岡蒼甫、石原真理子、石原良純、奥貫薫、近藤芳正、田口トモロヲ
97分
by sentence2307 | 2008-06-25 23:20 | 市川準 | Comments(0)