橋浦方人「置けない日々」
2004年 11月 10日
絶望と屈辱とが、交互に青年を打ち据え、胸を掻き毟るような焦燥でもだえ苦しんでも、橋浦は、彼にささやかな希望や逃避さえも許そうとはしません。
夥しい失意にみまわれた果てに、ずたずたになった青年は、酔いつぶれて道端で一夜を明かしますが、盗んだ自転車で朝の街を走るこのラストでも、明日への希望や逃避が暗示されている訳ではありません。
彼がこの状況で生きるしかないこと、「映画」を夢見て、今日もなお、辛抱強く生き続けるしかないと言っているのです。
絶望するなら、徹底的に絶望するがいい。
生活の恥辱や惨めさなどは、ただ人間を強靭にするためのものでしかないのだとさえ感じられます。
あらゆる生活にまつわる雑事へのおもねりを排して、ただ映画のことだけを夢見る徹底した意思こそ、活動屋の魂なのだといっているようです。
それを例えば詩人の魂と言い換えてもいい。
陽のあたる場所へと軽やかに巣立った「祭の準備」の面映いばかりの楽観的な青年に、僕たちはむしろ、「外地」へ身売りしていく「からゆきさん」のうきうきとした無残な快活さを見てしまうくらいです。
毎日が宴であるような生活の描き方に反感を持った僕には、この泥のように描かれる愚直な誠実さに偏執する青年の貧しい生活の描き方は、すこぶる魅力的に感じられました。
この苦しいだけの青春が、報われないはずがないと考えるのは、僕の甘さかもしれません。
この総てを失いつくす青春のやり場の無い鬱屈した怒りと鬱々とした自棄と偽悪の誠実さだけが、信じてもいいものなのかもしれないなと思えてきました。